#131 転生したら北条氏康の四女だった件~北条氏康って実在の戦国武将なんですか⁉~
前回の投稿で書き忘れていたのですが、家康の旗印の一つ、「厭離穢土欣求浄土」に関するエピソードを扱わなかったのには理由があります。
以前から「この旗印を家康が使い始めたのは桶狭間合戦の直後」という通説に疑問を抱いていたのですが、関係資料を確認する内に、実際の使用開始時期はもっと後である可能性が高いとの結論に至りました。
よって拙作における「厭離穢土欣求浄土」の登場はまだ先になる予定です。
ご了承ください。
西暦XXXX年X月X日 ????
気が付くと、私は暗闇の中に立っていた。不自然な暗闇の中に。
何が不自然って、前後左右、上を見ても下を見ても、見通しの効かない闇がどこまでも続いている。上空に月も星も無い…にもかかわらず、自分の身の周りははっきりと見渡せる。
まあ、大抵の人なら状況が飲み込めずに取り乱す事請け合いだろう。しかし私は違う。
何故なら、ここに来た事があるからだ。前世で一生を終えた時に。
…やばいやばいやばい!って事は、私死んじゃったって事⁉なんで⁉
五郎殿にも、百ちゃんにも…みんなにちゃんとお別れしてないのに…!
“焦らなくても大丈夫だよ。キミ、まだ死んでないから。”
鼓膜を介さずに声を聞くような感覚――これにも経験があった。
反射的に振り返ると、空中にゆらゆらと浮かぶ光の玉…間違い無い、私をこの世界に転生させた、自称神様だ。
「これはこれは、ご機嫌麗しゅう…その節は大変お骨折りいただきまして…。」
“あはは、すっかり馴染んでるね。いいよ取り繕わなくて。何なら口に出さなくてもいいって、分かってるでしょ?”
年齢も性別もあやふやな『声』に、淑女の仮面を脱ぎ捨てて舌打ちする。そうだった、この自称神様は人の心が読めるんだった。
まあ、どんだけ不遜な事を言ったり考えたりしても、それが正直な気持ちである限り許容してくれる、懐の深い存在でもあるのだが…。
“懐が深いだなんて…照れちゃうなあ。”
…やっぱやりにくい。
「それで?これはどういう事なんですか?私、致命傷を負った覚えはないんですけど?転生者として重大なルール違反をしたから強制終了とか、そういう事ですか?」
“いやいや、むしろ逆。お礼というか、アドバイスというか…とりあえず、後ろを見なよ。”
『神様』の言葉にぶーたれながら振り返った私の目に飛び込んで来たのは、暗闇のはるか向こう、見えない道をしっかりとした足取りで歩く、鎧武者の後ろ姿だった。
「…え?義元殿?うそ、だって義元殿は…桶狭間で、討死して…。」
自分の言葉が、フラッシュバックを誘発した。
いつもと同じ朝。駿府館に駆け込んで来た早馬。告げられた衝撃のニュース。遠のく意識…。
そうか、私、義元殿が桶狭間で討死したって聞いて、五郎殿の目の前で気絶したんだ。
“だーい正解、百点満点。ちょっと話したい事があったから、意識だけこの空間に来てもらったんだ。話が終わったら帰してあげるから、安心して。”
『神様』の言葉にホッとひと安心…してる場合じゃない!
「なんでここに義元殿が⁉亡くなったのは一週間近く前のはず…!」
“ここはいわゆる…あーなんて言えばいいかな、四次元空間?時間や空間の法則が、キミ達の普段観測している三次元とは違って…要するに、条件が揃えば千年後の人にも、千年前の人にも会えるんだ。今川義元は死亡手続き真っ最中だけど…ここなら大声出せば届くかもよ?”
その言葉を聞いた私は、両の手の平を口の前に当て、メガホンのようにして深く息を吸い…声を張り上げた。
「太守様ぁーーーーー‼お戻りくださーーーーーい‼そちらは危のうございまーーーーーす‼こちらへ、義娘の元へ、お戻りをーーーーー‼」
頭の中の理性は、それが無駄な行動だと言っていた。
義元殿は病死ではなく討死、それも首を取られて死んだ。万が一、私の呼びかけで魂が戻ったとしても、生き返る事なんて出来っこない。
何より、「今川義元が桶狭間で討死する」のは歴史的に正しい出来事だ。
…それでも、諦め切れなかった。義元殿に、生きて帰って欲しかった。
私が接して来たのは織田信長の武勇伝の引き立て役、今川義元ではなく。
いつも底知れない微笑みを浮かべていて――話す時はいつも緊張したけれど――事あるごとに私と五郎殿の事を気遣ってくれた、優しいお義父さんだったから。
「太守様ぁーーーーー‼」
喉の痛みも、疲労も感じないのをいい事に、叫び続ける。両腕を高く上げて、左右にぶんぶん振って。
すると…義元殿が立ち止まり、こちらを振り返った。
「…!こちらにございます‼結はここにございます‼何卒、何卒…お戻りを…‼」
次の瞬間…義元殿が微笑んだ、ように見えた。そして左手を掲げてゆっくりと左右に振る…私に別れを告げようとするかのように。
「やだ…やだやだやだ、太守様ぁ‼」
思わず走り出す。どこまで走っても足元は平坦で、疲れも感じなかった、けれど…再び私に背を向けて歩き出す義元殿には、いつまで経っても追いつけなかった。
そして、トンネル内を反響するかのような、義元殿の声。
『五郎よ。余は何も案じてはおらぬ。お主らの行く末を…。この先、いかなる艱難辛苦が待ち受けておろうとも、二人手を携えれば乗り切れよう。…結殿、五郎を頼む。…達者でな。』
義元殿の後ろ姿は闇の中に溶けて行き…やがて完全に見えなくなった。
自然と足が重くなり…後ろから飛んできた『神様』に追いつかれる。
“残念だけど、もう追いつけないよ。それにしても、いきなりこんな所に来て一切取り乱さないとか…なかなか凄い精神力の持ち主だよねぇ。義元さん。”
「…どうしてよ。」
足を止めて、声を絞り出す。
“どうして、って…何が?”
「ッどうして!今川がボロ負けして義元殿が討死するのよ!大体の状況は早馬で聞いた、準備万端桶狭間山で待ち構えてたら、織田軍が突撃する直前になって暴風雨が打ち付けて、前衛がパニックになって、そこに織田軍が突っ込んで来たから総崩れになって…義元殿は沓掛城に逃げる途中で追いつかれて、討たれたって!おかしいでしょ、タイミングが!そんな信長に都合よく暴風雨が…。」
自分の台詞に、背筋が凍りつく。
そうだ、信長に都合が良すぎる。それこそ神様仏様の力でもない限り…。
“いやー、疑念はもっともだけどね。少なくともボクは何もしてないよ。…永禄3年5月19日の午後、ある一瞬、桶狭間一帯に西から猛烈な暴風雨が発生するという現象が発生した。偶然にもそれは織田信長が自軍に突撃を命令する直前だった…そういう理解でいいんじゃないかな。もしくは信長が生まれついてのウルトララッキーマンって事で。”
「ふざけないでよ!」
“いやホント、歴史上そういうケース割とあるから。一つの出会い、一つのきっかけ、一つのすれ違いが転換点になる、みたいな。今回もその一例だったって事で…。”
「だから!こんなパラレル戦国時代で、どうしてそういう所だけ史実に忠実にすんのかって聞いてんのよ!」
“…。”
『神様』が急に押し黙る。
…な、何よ。もしかして、何か地雷踏んだ?
懐が深いと思ってたけど、やっぱり越えちゃいけない一線とかあった?
“…今日来てもらったのはね。義元さんの見送りをさせてあげようと思ったのと…アドバイスをしておこうと思ったからなんだ。”
「アドバイス?」
そう言えば、さっきもそんな事を…。
“この世界を、パラレル戦国時代だと考えるのはやめた方がいい…少なくとも、これからは。”
「は…?」
思わず間抜けな声が漏れる。
“前世の記憶を、よーく思い出してごらん。具体的にはそう…豊臣秀吉の伝記漫画、本能寺の変で織田信長が死んで…天下統一事業を引き継いだ秀吉が、日本全国を制覇するまで…。”
『神様』に言われたパートに意識を集中して、記憶を掘り起こす。
あの漫画では秀吉の若い頃のエピソード――墨俣一夜城とか――がふんだんに取り上げられていて、途中からやけにハイペースで進行していた気がする。
『神様』が指摘するパートは…織田信長が明智光秀の謀叛で死んで…秀吉が『中国大返し』で光秀を討って…その後、柴田勝家とか、その他有力大名を次々と屈服させていって…天下統一バンザーイって感じで終わってた、ハズ。
“うーん、もう一息。頑張って。”
も、もう一息?
えーと、だから…清洲会議の後、柴田を滅ぼして…小牧長久手の戦いで徳川を服属させて…四国、九州と制圧して…それから……それから……?
“小田原を本拠とする関東の大大名、北条も秀吉の大軍勢の前に降伏しました。こうして、豊臣秀吉は天下統一を成し遂げたのです…いやあ、日本史上空前絶後のサクセスストーリーだよね。一介の草履取りが一国の王様になっちゃうんだか――”
「ちょっ、ちょっ、ちょっと待って…。」
色々言いたい事はある。北条って、架空の戦国大名じゃなかったの、とか。
でもとりあえず、とりあえずこれだけ言わせてほしい――。
「雑!北条の扱い雑!なんかもっとこう…無いの⁉北条が勇戦敢闘したエピソードとか!」
“あはは、最初に出て来る感想がそれかあ。…あると言えばあるし、ないと言えばないよ。”
「何よそれ⁉え、ていうか待って、え、北条が実在する戦国大名って事は、え、え…。」
『神様』の笑い声が、右から左へと通り過ぎていく。
この世界は北条という「架空の」戦国大名が存在したら――そんな仮定の上に築かれた、パラレル戦国時代である。その前提が、崩れた。…崩れて、しまった。
「…私は?私が転生したこの体は…一体、誰のものだったの?」
まとまらない思考の中から漏れ出したのが、そんな疑問だった。
転生以来、深く考えた事は無かったけれど…北条が実在するなら、『結』と名付けられたこの体の持ち主も、実在していたはずだからだ。
“真剣に考えてくれるのは嬉しいけど、心配は要らないよ。元々の持ち主は産まれてすぐ、魂が肉体を離れてしまったんだ。そこにボクがキミの魂を入れた。…どうしても自分の正体が不安なら、もう一度今の自分を見てごらん。”
言われた通りに、現在の体をチェックする。…現実世界と同じ、北条氏康の四女で今川氏真の妻でもある、数え15の少女の姿だ。触って確認する限り、顔立ち等にも変化があるようには思えない。
“ここは魂のカタチが実体化する空間なんだ。もしキミの魂が前世のままだったら、そんな姿にはなっていない。現実世界でもこの空間でも姿が変わらないって事は…魂と肉体のカタチが、ほぼ一致しているって事だよ。つまり――キミは北条氏康の四女で今川氏真の妻、結だ。間違いない。”
相変わらず捉え所の無い…それでいて熱がこもった、ような気がしないでもない『神様』
の声に、私はしばらく言葉を失った。
ぶっちゃけ、私の正体についてここまで語ってもらったのは、初めてかもしれない。私自身、深く考えた事は無かった。…正直、ちょっとホッとした。
“続き、いいかな?そういう訳で、キミがいま生きている世界はキミの前世からおよそ四百五十年前の日本…と言うと語弊があるかな?”
「…どういう事?」
“キミに哲学や物理学の専門知識があれば話は早いんだけど…ざっくり言うと、キミが北条結に転生した事は必然であって必然ではない。”
…どうしよう、なんか難しい話が始まったっぽい。
“北条氏康の四女が生まれ出でるまで、『この』戦国時代は史実通りに動いていた。しかしその先が…非常に不安定なものになっている。永禄3年5月19日の経過で、ある程度安定はしたが…。数年後、数十年後となると分からない。”
「分からないって…『神様』なんでしょ?それに…そんな事になるんだったら、どうして私を転生させたの?」
情けない話だが、私の前世は学歴も無ければ目立った才能も無い、歴史の専門知識も無い非正規労働者だった。どうしてそんな人間を転生させたのか。
“キミは非力かも知れないけど、無力ではないよ。既に何人かの運命に影響を与えている。それが『史実』を大きく変えるか否か…そういう問題さ。肝心の、キミを転生させた理由は――”
次の瞬間、私を襲ったのは頭痛、吐き気、耳鳴り…その他諸々の、五感を損なう体調不良だった。
「あがっ⁉うぇ…かはっ…!」
数秒後、全身を覆っていた不快感が、潮が引くように回復していく。
“――という訳だよ。納得した?”
「…納得も何も…分かる訳ないじゃない。」
今の感覚には経験がある。一度目の転生の際、ぼかしたい所で『神様』が使った『三次元の人間には認識出来ない言語』だ。
一音一音にQRコードみたく情報が圧縮されているため、よっぽど頭の回転が早い人じゃないと拒絶反応を起こす…らしい。それを使ったって事は…。
「教える積もりは無い、と。」
“そんな事ないよ。キミの言語中枢では理解が追いつかないってだけ。とにかくキミは、使命とか運命とか気にしなくていいから。今世でもやりたいようにやってよ。”
「ざっけんな!自称神様のくせに転生特典も何にも無し!使命も無し!おまけに義元殿まで討死して…お先真っ暗じゃない!これじゃ転生した意味が無い!」
“転生したら幸せになれるって、誰が決めたの?”
ぐうの音も出ない正論に、私は返す言葉を見失った。
“三つほど誤解があるみたいだから訂正させてもらおうかな。一つ目、転生特典はあげたよ。幼少期から死ぬまで、転生前の自意識を保持できるっていう祝福。”
「…地味。」
“いやいや、これが意外とバカに出来ないんだよね。長生きすれば分かると思うけど。…二つ目、ボクがキミに求めている事は一つだけ。今世を精一杯生きる事…まあ、これは今でも十分やってくれているけど。”
「…ホントにそれだけ?私が歴史を変えちゃってもいいの?」
冷えた頭で恐る恐る聞く。
“大丈夫、歴史の修正力ってやつ?転生者一人あがいた所で、そうそう運命は変わらないから。…三つ目、義元さんが死んでお先真っ暗、って言ったけど、本当にそうかな?今川氏真や北条氏康、その他周りの人々はそんなに当てにならない?”
確かに『神様』の言う通りだ。五郎殿は心身ともに優れた人物だし、武田や北条との同盟もまだ機能している。桶狭間で重臣多数が義元殿の後を追った事を差し引いても、今川が再起不能に陥ったとは言えないはずだ。
けれど…。
「史実では今川はどうなったの?さっきみたいに、信長や家康の伝記漫画を思い出してみたけど…桶狭間の後、今川がどうなったのか全然分からない。いつの間にか表舞台から退場して…もしかして、一人残らず滅亡した、とか?」
“悪いけど、それには答えられない。キミ自身の行く末にも関わる事だからね。それに…ッ、これはすごいな、予想以上だ…!”
『神様』の声に焦りが滲むのと同時、私を浮揚感が襲う。朝、夢から覚める時のような感覚…。
「な、何これ?」
“キミの右腕…百ちゃん、やるね。修験道までマスターしてる…ッ、キミを現世に連れ戻そうとしてる…!”
えええ…百ちゃんマジでパないな。
『神様』が約束を破るとも思えないし、もうちょっと情報を引き出したかったんだけど…あ、そうだ、あれを聞いておかないと…。
「最後に一つだけ!私が転生する時の条件の一つは、原則アフターケアなし、だったはず!今回はどうして…?」
“…言ったでしょ?お礼だよ。色々な寺社に気前よく寄進をしてくれた…勿論分かってる、キミが損得勘定でやってたって事はね。それでも…そのお陰で助かってるから、色々と。直接手助けは出来ないけど…これくらいは、しておこうと思ったんだ。”
…やっぱりこの『神様』はよく分からない。
“そういう事だから、今後とも寄進をよろしく。貢献ポイント次第ではいい事あるかもよ。風邪をひきにくくなるとか、洗濯物を干してる間雨に降られなくなるとか…。”
「…やっぱ地味!」
そんなしょうもないツッコミを最後に、私の意識は遠のいていった。
「…い!結!大事無いか⁉」
私が目を覚ましたのは、夕陽が差し込む屋敷の自室、寝床の中だった。
室内には五郎殿と百ちゃん。五郎殿は前のめりになって私の顔を覗き込み、百ちゃんは両手で複雑な印を結んだまま。二人とも今にも泣き出しそうな顔をしている。
「お心を騒がせてしまい、申し訳ございません…私は無事にございます。百のお陰で…。」
急いで言葉遣いを戦国時代モードに切り替えて、二人を安心させようと試みる。
「百の…?ではやはり、お主が倒れたは妖怪変化の仕業であったか。越庵は、お主の気が一向に戻らぬを気に病んで、部屋に籠って調剤に勤しんでおる。」
苦笑しながら首を横に振る。
「妖怪変化など、とんでもない…御仏のお導きにより、太守様の黄泉の旅路をお見送りする機を頂戴したまでの事…。」
『神様』を仏様と同列に扱っていいのかどうか微妙な所だが、まあこの方が無難だろう。
「父上の⁉…教えてくれぬか、結。父上のご様子はいかがであった。無念であったろうか。嘆いておいでであったろうか…?」
私は、さっきまでの体験が妄想の類でない事を祈りながら、慎重に口を開いた。
「太守様は、堂々たる足取りで歩んでおいででした。背筋を伸ばし、胸を張って…。私がお声がけした所、一度振り返って手を振って下さり…お言葉も頂戴してございます。『余は何も案じてはおらぬ。お主らの行く末を…。この先、いかなる艱難辛苦が待ち受けておろうとも、二人手を携えれば乗り切れよう。…結殿、五郎を頼む。…達者でな。』…と。」
義元殿の伝言を聞き終えた五郎殿は、勢い良く上を向き、鼻をすすった。
「…父上のお言葉、この胸に確と刻み申した。どうかご安心あれ。あの日の誓いに背く事無く、今川を盛り立てて参りまする…!」
五郎殿は視線を戻すと、潤む目で私を見つめた。
「…大儀であった。もう少し側にいてやりたいが…家中の動揺を一刻も早く鎮めなければならぬ。すまぬが…。」
「どうかお気遣いなく。体に悪しき所はございませぬゆえ。私もすぐに文机に向かいます。…此度の戦で討死された方々の一族郎党に、故人の忠節を称える文を送る事で、多少は心を慰められるかと…。」
私の言葉に、五郎殿は一瞬キョトンとすると、やがて破顔一笑した。
「父上の仰る通りじゃ…相分かった、くれぐれも無理はせぬように。これから忙しくなろうが…今宵はきっと、夕餉に間に合うよう戻る。待っていてくれ。」
五郎殿はすっくと立ち上がると、百ちゃんにも「大儀」と一言言い置いて、部屋を出て行った。
「御前様、真にございますか?御仏のお導きがあったとは…もしやわたくしの祈禱が妨げに…。」
みるみる顔色を悪化させていく百ちゃんを慌てて制止する。
「いいえ、妨げなんてとんでもない。仏様も驚いていらっしゃったわ。ここまで修験道を極めた女性がいるのかと…いつも助けてくれて、ありがとう。」
「勿体無いお言葉…。」
平伏する百ちゃんにほっと一息、両手両足に力を込めて布団をはねのける。
「白湯と菓子を持って来て。急いで文を出さないと…。ああ、宛先を相談したいから、お梅かお銀か雛菊、手すきの者を呼んで。文面に不都合があるとまずいから、詰所で夜回りに備えている警固役も。…それと越庵先生に、私が目を覚ましたと伝えて。」
「…かしこまりました。」
一応の平静を取り戻して、百ちゃんも部屋を出て行く。
私は定位置の文机に向かうと、紙を広げ、墨をすり、筆を握った。
「ざっと思い当たる所だけでも書き出しておかないと。御一家衆に寿桂様、武田に北条…。」
政治的、軍事的に無力な私に出来る事はそう多くない。それでも、少しでも五郎殿の、今川家のためになりたいと願いながら、私は筆先を紙に乗せた。
ある意味、ここまでが序章。
ある意味、ここからが本番。
およそ十年に及んで続く下り坂の――始まり。
拙作をご覧の皆様、いつもありがとうございます。
突然ながら、拙作の新規投稿をしばらく停止させていただきます。
理由としては、投稿間隔が不安定になっている現状などから、私自身の執筆、投稿スタイルを見直す必要を感じている事が挙げられます。
最後まで完結させるという意志に変わりはございませんので、遠からず投稿を再開する所存です。
近日実施予定の「小説家になろう」メンテナンスや機能改修にも順次対応して参ります。
投稿間隔、品質共に安定した作品をお届け出来るよう熟考して参りますので、どうかご容赦のほどよろしくお願いいたします。