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#129 海道一の弓取り

桶狭間合戦のクライマックスをお届けします。

今川義元という戦国武将の死に様を、織田信長の踏み台で終わらせたくない。

そんな気持ちを込めて執筆しました。

読者の皆様の心に響けば幸いです。

永禄3年(西暦1560年)5月19日 尾張三河国境 桶狭間山


 激しい風雨の後に差し込む陽射しとは、大抵の人間にとって悲劇の終幕、順調な滑り出しといった、前向きなメッセージを想起させるものである。しかし現在(いま)、桶狭間山の今川軍本陣から(ふもと)の戦場を見下ろす重臣達の心中は、逃げ場の無い大海原で強大な嵐に直面した船乗りのように、絶望感に満たされていた。


(――何だ、これは。)


 相応に修羅場をくぐって来た彼らを思考停止に追い込んでいるのは、半刻(いちじかん)前には予想だにしなかった、眼下の光景だった。――たかだか二千の織田勢が、一万をゆうに超える今川の軍勢を切り崩し、追い散らしている。

 原因は明白、織田勢が突撃を開始する直前に降り注いだ、あの暴風雨だ。

 当初の想定では、兵数の不利を補うために乱戦に持ち込もうと接近する織田勢を、弓鉄炮で削り、動きが(にぶ)ったところを押し包む算段だった。そのために、最前列に鉄炮放を加勢させたのだ。

 …が、それが完全に裏目に出た。

 突然の暴風雨で鉄炮が使えなくなり、前衛の陣形が崩れた所に織田勢が突っ込んだ。前衛の今川兵は我先にと逃げ惑い、それが直近の友軍へと伝播して際限無く広がっていく。

 直前までの整然とした隊列はどこへやら、烏合の衆と成り果てた今川兵の波を割って進む船のように、木瓜紋(もっこうもん)永楽通宝(えいらくつうほう)の旗印を掲げた軍勢が、山肌を駆け上って来る。


「…太守様、いかがいたしましょう。いかが…。」


 側近の一人が、茫然自失の(てい)で主――義元の顔色を窺った。

 義元は…その顔に、いつもの底知れぬ微笑みを浮かべていた。


「織田上総介、天晴な武士(もののふ)よ。天を味方につけようとは…褒めてつかわす。」


 目前の惨状を歯牙にもかけず、義元は(きびす)を返す。そして、最前とは打って変わって声を張り上げた。


「誰か、馬を引け!沓掛(くつかけ)城に本陣を移す!手近の者は供をせよ!」


 義元の声を聞いた本陣の将兵は、弾かれたように動き出す。


「太守様、塗輿(ぬりこし)は…。」

「捨て置け。後ほど取りに戻る。」

「太守様、拙者の馬を献上致します。拙者はここで上総介と鑓を合わせとう存じます。」

類稀(たぐいまれ)なる忠節、見事である。そなたの一族郎党に必ず報いよう。」


 そこにいる誰もが、暗黙の内に理解していた。

 今川(われわれ)は織田に負けたのだと。

 しかし、もう一つ理解している事があった。

 今川はまだ負けていない――義元が生きている限り、何度でも立て直せるのだと。




「…ちろう!小一郎!しゃんとせえ!」


 藤吉郎(あに)の声に我に返った木下小一郎は、一瞬自分がどこで何をしていたのか分からず、幾度となく両目を瞬いた。辺り一面喧騒に包まれ、血と汗の匂いが充満している。

 しかし、それは小一郎も無縁ではない。何故なら、小一郎自身、汗だくになって今川兵を組み敷き、切れ味の悪い小太刀でその上半身を滅多刺しにしていたからだ。

 …信長が突撃を命じた直後までは(たずさ)えていたはずの長鑓は、いつの間にか手放していたらしい。


「もうええ。そいつはとうにくたばっとる。今川が立て直す前に叩けるだけ叩いとかんと…。」

「――旗本は(これ)なり!是へかかれ!」


 藤吉郎の催促を遮るように響き渡ったのは、今日既に何度か聞いた、信長の大音声(だいおんじょう)だった。

 是、とは何か――小一郎も、藤吉郎も、周りで今川兵を蹴散らしていた足軽達も、その声につられるように山上を見上げる。そこには鮮やかな朱色の何かと…こちらに背を向けて走り去ろうとする武士の一団があった。


「こいつはたまげた!今川の先手と思っちょったら、治部大輔(よしもと)の本陣でにゃーの!…木下組、わしに続けえ!治部大輔の首、この木下藤吉郎がいただいた!」


 我先に駆け出そうとする兄の肩を、小一郎は慌てて掴んで引き留めた。


「兄さ、それはいけね。大殿は『首を取るな、打ち捨てよ』っちゅう仰せじゃったに…。」

「…っだああああ!どこまでとろいんじゃお(みゃー)は!治部大輔の首じゃぞ!治部大輔の!そんじょそこらの首とは訳が違う、治部大輔を討てば今川は滅んだも同然じゃ!(はよ)う来い、こんな好機、二度と来るもんじゃ()ゃあ…!」


 藤吉郎は目をギラギラと輝かせながら、小一郎の制止を振り切って、武士の一団を追撃する集団へと加わっていった。

 小一郎は振りほどかれた手を降ろすと、二転三転する『戦場の習い』に辟易しながらも、ため息をぐっとこらえて、兄の後を追う。

 折しも、逃げる今川勢の最後尾が突如振り返り、追撃する織田勢の先頭と交戦を開始した所だった。




「織田勢、なおも追って参ります!…またも殿軍(しんがり)が破られたものと…!」

「上総介め、くどい!斯様に無理な追い打ちを仕掛ければ、相応に手負い、討ち死にもあろうに…!」


 馬上も徒歩(かち)も混ぜこぜの状態で、沓掛城に向かう集団の中心にあって、後方を確認した側近の報告に、義元は片眉を僅かに動かした。


(これで五度目か。三百はあったであろう手勢も、既に五十…上総介め、潮目を心得ておる。…左様、二千の兵が二十になろうとも、余の首を取れば其方(そなた)の勝ち。その前に余が沓掛城に入れば、今川の勝ちぞ。強運は認めるが…天佑(てんゆう)は幾度もあるものではない。次に戦えば余が其方の首を取る。…されど、今は…!)

「織田勢を迎え撃つ!馬上の者は馬を降りよ!」


 乗っていた馬の首を巡らせ、下馬しようとする義元に、側近達は慌てて追いすがった。


「太守様⁉なりませぬ、沓掛城まで真っ直ぐに…。」

「殿軍は我らが務めますゆえ、どうか…。」

「否。」


 きっぱりと、義元は否定した。


「織田勢は調子に乗り、疲れを忘れておる。一度叩いて勢いをくじいておかねば、どこまでも追って参ろう。…或いは、逆さまに上総介の首級を挙げる好機やも知れぬ。どうやら先陣を切って追って参ったようじゃ。」


 義元の言葉に理があると気付いた側近達は、続々と馬を降り、得意とする得物を手に取って、主君の脇を固める。

 程なくして、血に酔った織田の将兵が駆け寄って来ると、武士達は一斉に矢を射かけ、次いで持鑓や太刀を構えた。

 矢に当たり、倒れた同輩を(かえり)みる事無く突っ込んで来た織田の将兵と、今川の将兵はそれぞれ横一列になって鑓で突き合い、斬り結ぶ。


「その首もらっ――」

「ふっ!」


 人波をかき分けて打刀(うちがたな)を突き出した足軽を、義元はすかさず愛用の鑓で突き殺す。これほどまでに戦場の渦中に身を置いたのは、家督を巡って義兄と争って以来――にもかかわらず、義元の心は風一つ無い水面のように凪いでいた。


(これで追手の勢いは殺せた…後は大将首の一つでも取れれば…。)


 狂熱の只中にあって冷徹に鉄火場を見渡していた義元の耳に、よく通る声が届いた。


「臆するな!織田上総介はここにある!前代未聞の功名を挙げる好機、逃してはならぬ!」


 織田上総介がすぐそこに――義元の心臓が小さく跳ねた瞬間、別の若武者が目の前に立ちはだかった。


「織田上総介が馬廻(うままわり)服部(はっとり)小平太(こへいた)!治部大輔殿のお相手仕る!」


 若さゆえの膂力(りょりょく)に任せた鑓の一突きを、半身を捻ってかわした義元は、鑓先を左脇に抱えて小平太の動きを封じ、同時に自身の鑓を手放して、腰に()いた太刀を抜き放った。太刀の切っ先が小平太の膝頭を捉え、鮮血が噴き出す。


「…お見事…!」


 膝をかばいながらくずおれる小平太から一瞬目を離し、信長の姿を探し求めた義元は、小平太の背後から飛び出した別の影に対しての反応が遅れた。


「同じく毛利(もうり)新介(しんすけ)!」


 ――義元が正確に記憶していたのは、そこまでだった。

 甲冑に組み付かれる感覚、地面に引き倒され、引き倒し――喉元に当てられた、鈍く冷たい光。




 ふと我に返った義元は、いつの間にか自分が、一人暗闇の中を歩いている事に気付いた。

 上を見ても、月も星も無い。にもかかわらず、自分の身の周りははっきりと見渡せる。

 一度立ち止まって状況確認をしようとしたものの、意に反して歩みが止まる事は無い。何より、身に付けた甲冑の重みも、先刻までの疲れも感じない。

 やがて、義元は呟く。


「これが黄泉(よみ)への旅路か。撤退戦(のきいくさ)の途上で落命しようとは、余の不行跡の因果が巡って参ったという事か…。」


 その顔に悔恨の色をありありと(にじ)ませながら、義元は歩く。終わりの見えない暗闇の中を。


「服部小平太に毛利新介…いずれも聞かぬ名であった。せめて大身の武士に討たれれば、今川の名に恥じぬ散り際であったろうに…いや、余の来し方を思えば、正面より斬り結んで果てたるはむしろ上首尾やも知れぬ。」


 自身の死に様を顧みて。


「余の生ある内に織田との因縁に決着を着けられなんだは、誠に無念。父上や兄上に申し訳が立たぬ。…この先でお詫び申し上げる機があればよいが。」


 父や兄への後ろめたさを独白し。


「松井、蒲原(かんばら)、井伊…皆いかがしたであろう。余が沓掛へと退くべく、身を粉にしてくれたが…かくなる上は生きて戻り、五郎を支えてほしいが…今となっては詮無き事か。」


 己のために忠節を尽くした武士達の安否に思いを馳せ。

 実母と義母、幼少からの師太原雪斎、実子同然に養育してきた松平元康…思い付くままに、もはや届く当ての無い独白を、訥々と連ねていく。

 …どれほどの時が経っただろう、独白が一段落した所で、義元は考えた。


(はて。肝心な者を失念しておるような…?)

「――!―――!」


 突如背後から届いた叫びに、義元は振り返った。…意に反して動き続けていた足が止まっている事にも驚きながら。

 そして、暗闇の向こうに立つ少女を目に留め…顔が判別出来るかどうか、という位置にありながら、それが誰であるか、義元にはすぐに分かった。


「結殿…そうか、其方と五郎の行く末を、余が案ぜずにおったは…。」


 義元を引き留めようとするかのように声を張り上げ、高々と挙げた両手を振り回す義娘(むすめ)に、義元は微笑みながら左手を挙げて、ゆっくりと振った。

 自分はもう『この世』に未練は無い、と。其方はまだ来てはならぬ、と。そんな想いを込めながら。

 しばらく手を振った後、義元は腕を下ろし、結に背を向けて…自身の意思で足を踏み出した。誰に教えられずとも、行き先は分かっている。


「五郎よ。余は何も案じてはおらぬ。お主らの行く末を…。この先、いかなる艱難辛苦(かんなんしんく)が待ち受けておろうとも、二人手を携えれば乗り切れよう。…結殿、五郎(むすこ)を頼む。…達者でな。」


 言うべき事を、全て言い残して。

 義元は歩みを進めていった――星明かり一つ無い、暗闇の中へと。




「はぁっ、はぁっ…織田上総介が馬廻、毛利新介!今川治部大輔を討ち取ったり!」




 『海道一の弓取り』今川義元、桶狭間に死す。――享年42歳。

義元が撤退を一時中断して織田勢を迎え撃つシーンですが、当初は『乱戦になり~』と描写する積もりでした。

『信長公記』を確認した所、『敵味方が紛れる事は無かった』とあったため、本編のような展開になった次第です。

太田牛一さんにお礼申し上げます。

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― 新着の感想 ―
もう期待していた話の流れからは外れたなぁ どれだけ言葉を尽くし、文に熱い思いを乗せようと 死んだら終わりなんだよ
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