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#128 伝説の幕開け

本日をもって、拙作の投稿開始から一年を迎えました。

常日頃よりご覧いただき、誠にありがとうございます。

今後ともよろしくお願いいたします。

今回、織田側の視点を誰に担当してもらうか考えた結果、恐らく戦国一出世したであろう兄弟に担当してもらう事にしました。

仕官時期が通説と異なりますが、後の英雄豪傑が一堂に会していたとすれば、非常にドラマチックだと思い、このようにした次第です。

永禄3年(西暦1560年)5月19日 尾張三河国境 善照寺砦


(あに)さぁ、本当に大丈夫なんか?」


 中天に燦然と輝く太陽の下、足軽がひしめき合う砦の中で、肉付きが悪いながらも頭一つ抜けて背の高い青年――木下小一郎が、同様に貧相な体格の男に問いかけた。


「何を不安がっとる。」


 不機嫌そうに振り向いたのは、小一郎の兄にして織田家足軽衆の組頭、木下藤吉郎だった。


「何を、て…兄さに教えてもろうた段取りと、今日の戦は丸っきり違うでねえか。」


 押し黙る藤吉郎に、小一郎は言い募る。


「夜の内に出陣して、夜明けに合わせて戦を始めるのが常道じゃちゅうとったで、夕べは大殿からなんも沙汰が無いっちゅう事は、戦は無いと思うとったら、今朝方になって急に叩き起こされて…熱田(あつた)から戦場(いくさば)まで浜辺を行くけえ、すぐに着くちゅうとったに、今朝になったら潮が満ちとるで上道(かみみち)を行く事になっとるし…第一、こっちは準備万端で今川勢を迎え撃つっちゅう話だったに、大高城の囲みが解けちまっとるでねえか。こりゃ一体…。」

「ぐだぐだと無駄口を叩くでねえ!戦っちゅうもんは敵味方の駆け引きで都合が変わるもんじゃ!黙ってわしの言う通りにしときゃええんじゃ。」


 小柄な兄の剣幕に身を震わせた小一郎が、なおも口を開きかけた瞬間、少し離れた所で驚きの声が上がった。


「なんじゃなんじゃ、何があった。」


 騒ぎの方へ駆け寄る兄の後に続いた小一郎が見たのは、我先に板塀によじ登り、南の方角を展望する足軽達だった。


「抜け駆けだ!一番鑓だ!中島砦から抜け駆けだ!」


 もう戦が始まる?

 心臓を掴まれたような心地の小一郎をよそに、藤吉郎は声を張り上げた。


「旗色はどうじゃ!どっちが優勢じゃ⁉」

「お味方優勢!と言いたい所じゃが…ああ、こりゃあかん、多勢に無勢じゃ。散々じゃ。」


 多勢に無勢。

 その言葉に、小一郎は一瞬逃亡を考えた、が…実行に移す事は無かった。大勢の武士の目が光っている中で逃亡が成功するとは思えなかったし、実家に逃げ帰っても藤吉郎に連れ戻される未来しか見えなかったからだ。


「お待ちあれ!」


 今度は何だと小一郎が視線を転ずると、立派な甲冑に身を包んだ武者――藤吉郎の話が正しければ、あれが織田家の最高権力者、信長のはずだ――が馬にまたがり、善照寺砦の門へと向かおうとするのを、これまた立派な鎧姿の中年武士達が引き留めようとしていた。


「中島への道は右も左も深田(ふかだ)にございますれば、一度(ひとたび)足を踏み入れれば身動きが取れなくなるは必定。」

「兵を進めれば隊列が縦に長く伸び、こちらの無勢が敵方に明らかとなってしまいます。何卒、お考え直しを…。」


 中年武士達の言う事はよく分からなかったが、どうやら殿様はここから中島砦へ移動したいと考え、周囲はそれに反対しているようだ。

 足場が悪い上に、敵にこちらの不利がばれてしまうのであれば、ここに留まっていた方がよいのではないか…。

 朝っぱらから叩き起こされて、戦場まで駆けつける羽目になった疲労もあって、小一郎は信長の翻意を期待した。…しかし。


「なぁにをぼけっとしとる、小一郎。木下組、出立じゃ!大殿に続け!」


 声を張り上げる藤吉郎に、小一郎が戸惑っている内に、馬上の信長は二言三言、家臣に言い返したかと思うと、制止を振り切って砦の門へと馬の鼻先を向けた。砦の中でたむろしていた雑兵足軽も、その後に続く。

 小一郎はため息を一つつくと、藤吉郎が勝手に『木下組』と名付けた小隊の取りまとめにかかった。




 木下小一郎――後の大和(やまと)大納言(だいなごん)豊臣(とよとみ)秀長(ひでなが)

 やがて兄に劣らぬ出世を遂げる彼も、今は周囲の状況に振り回される、足軽の端くれに過ぎなかった…。




 所変わって、中島砦の南東、桶狭間山に布陣した今川軍の本陣。日の本でも限られた大名にのみ使用を許された朱塗りの輿(こし)を背に、床几(しょうぎ)に腰掛け、居並ぶ重臣達を前に朗々と声を張り上げる武士がいた。

 公家風の顔立ちに似合わぬがっしりとした体躯を、汚れ一つ無い甲冑で固めた今川軍総大将――今川義元である。


「…さすがは太守様、お見事なる(うたい)にございました。」


 謡が一段落すると、側近の一人が称賛の言葉を贈る。義元は満足気に頷くと、真正面に見える中島砦へと視線を飛ばした。


「松平蔵人佐(元康)と朝比奈備中守(泰朝)が大高城の囲みを解き、織田勢の先手(さきて)も我が方の鑓先に壊乱した。我らの矛先(ほこさき)には、天魔鬼神も(かな)うまい。…時に、織田勢の先手を率いておったは何者であるか。」


 義元の問いに、側近の一人が答える。


「佐々隼人正と千秋四郎、と名乗ってございました。確か大高城の付城(つけじろ)、証光寺砦と氷上山砦の守将であったはず…三百ほどの手勢と共に深入りした所を、討ち取ってございます。こちらも士分の者が(とお)あまり首を取られましたが…既に備えを改めて整えてございます。」

「砦を明け渡した負い目から、面目を施そうと抜け駆けを試みたのやも知れませぬな。たかだか三百で万を超える軍勢に挑もうとは、何とも無謀な…。」

「やめよ。」


 同輩に追随するように口を挟んだ側近の言葉を遮るように、義元の短くもよく通る声が響き渡る。


「その無謀なる者共に、士分を十も討たれた…死狂(しぐる)いの武者、侮るべからず。佐々隼人正と千秋四郎を討ち取った者、討たれた者、後ほど必ず報いよう。」


 側近達が息を合わせて首肯すると、伝令一人が具足を鳴らしながら陣幕をかき分け、義元に向かって片膝をついた。


「織田上総介の手勢と思しき軍勢が、善照寺砦から中島砦に移りましてございます。兵の数、二千といったところかと。」


 織田勢の兵数を聞いた側近達の間から、失笑が漏れる。


「我らが桶狭間山に陣を敷いたと知りながら、手の内をさらすとは…その上、手勢は二千。もしや上総介殿は、太守様に詫びを入れて来られる積もりでは…。」

(いな)。皆の者、直ちに持ち場に戻り、支度を整えよ。」


 主君の断固とした口振りに、側近達は目を見張り、伝令も思わず顔を上げた。義元の顔からはいつもの微笑が消え失せ、中島砦に鋭い眼差しが向けられていた。


「我らに身をさらしてまで中島砦にまで参ったは、砦にて備えを整え、総攻めをかける心積もりであろう。上総介も無勢は承知。その上で、駆け引きをもって我が方に痛撃を与える積もりと見た。…鉄砲放(てっぽうはなち)を最前列に加勢させよ。織田勢が迫れば、一斉に放ち、足並みが乱れた所に矢と長鑓を突き込んで、勢いを殺すのじゃ。」


 ひと呼吸、置いて。


「織田との長年の因縁に決着をつける時ぞ。皆、存分に功を挙げよ。」


 そう言って、義元は笑った。

 肉食獣が牙をむく寸前のような、獰猛な微笑だった。


「「「「…ははっ!太守様の御心のままに!」」」」




 同刻、中島砦。


「皆の者、よく聞け!」


 織田方の雑兵足軽が砦内で装備と陣形を整える中、よく通る声に小一郎は顔を上げた。

 門から出ようとしていた信長に、先程同様、中年武士達がすがりついて引き留めようとしている。当の信長は巧みな手綱さばきで馬の向きを調整し、小一郎の方に半身を向けて声を張り上げていた。


「あちらの武者どもは宵に兵糧を使い、夜通し歩き、大高城に兵糧を入れるために鷲津、丸根に手を砕き…疲れ切っておる!されど、我らは戦場に着いたばかりの新手じゃ…その上!『小軍にして大敵を怖るる事なかれ、運は天にあり』…この教えを知る者もあろう!今川勢が掛かってくれば退き、今川勢が退いたら追う。斯様にすれば、容易く打ち崩せよう!…首を取るべからず、打ち捨てよ。その代わり!この戦に勝てば、参陣した者にとって末代までの功名となろう!ひたすら励め!」


 長い訓示の後、一瞬の静寂を挟んで、砦のあちこちから歓声が上がる。

 長鑓を杖代わりに飛び跳ねる藤吉郎に、小一郎は困り顔で問いかけた。


「兄さあ、教えてもらいてえんじゃが…なんで皆こんなに喜んどるだ?」

「当たり前じゃろうが、とろい奴じゃのう…大殿はのう、勝てば全員に褒美を下さると、約束してくださったんじゃ。首を持ち帰らんでも、ええっちゅうこっちゃ。」


 兄の言葉に、小一郎は肩の重荷が一つ降りたような感覚を味わった。

 『木下組』の副長として足軽達を統率するのにも苦労しているのに、その上で、全身を甲冑で固めた武士を討ち取れ、などと言われたら、どちらにも手が回りきらずに討死するのではないかと、戦々恐々としていたからだ。


「しかし大殿は、今川勢の動きをようご存知じゃのう。兄さは知っとっただか。」

「いんや、知らね。じゃけど、大殿が仰るんならそうなんじゃろ。」


 予想とは異なる返答に、一瞬言葉に詰まった小一郎は、気を取り直して明るい口調で別の質問を投げかけた。


「それにしても、さっきの大殿の…『小軍にして大敵を怖るる事なかれ、運は天にあり』…じゃったかのう?頼りがいのある教えじゃあ。兄さは知っとっただか?」

「知らん。聞いた事も無い。まあ大殿は物知りじゃで、どこぞの兵法書にでも書いてあるんじゃろ。」


 今川勢の現状も、『必勝法』も、信長が言っているだけに過ぎない。それに気付いた小一郎は、軽くなったはずの両肩に、新しい荷物が二つ加わったような錯覚を覚えた。


「なんじゃ、背筋を伸ばしたり丸めたり…ご家老衆も道を開けたようじゃ、大殿に続こうぞ。」


 そう言って意気揚々と歩き出す兄に、小一郎はため息一つ、付き従おうとした――次の瞬間。


「お待ちあれ!織田上総介殿に我らの手柄、ご覧いただきたく!」


 そう叫びながら開けっ放しの門をくぐり抜け、砦に駆け込んで来る一団が見えた。血と汗と泥にまみれた、どこかくたびれた具足を着けた若武者達――仕官を求めて戦場を渡り歩く、牢人衆であろうと見当をつける。

 彼らが掲げるもの――黒く長い糸の束の先に、肌色の球体がぶら下がっている――の正体に気付いた小一郎は、咄嗟に目を背ける。このご時世、村にいようと城下町にいようと死体を目にする事は珍しくないが、ついさっきまで生きていた人間の首級を直視するだけの度胸は、小一郎にはまだ無かった。


「ありゃあ前田又左衛門(利家)殿じゃにゃあか。ここにも陣借りしとったんか、耳ざといこっちゃ。」


 他方、藤吉郎は動揺する事も無く、感心したように言う。


「さっきの抜け駆けで、首を取って来られたんじゃな。幸先(さいさき)のええこっちゃ。こりゃ大殿からお褒めの一つも…。」

「…新たに手勢が加わったゆえ、重ねて申し付ける!」


 小一郎が視線を上げると、信長は先ほどと同様の体勢で、しかしどこか苛立った様子で声を張り上げていた。


「あちらの武者どもは宵に兵糧を使い、夜通し歩き…。」

「…のう兄さ。どうして大殿は(おんな)じ事をもういっぺん仰せになるだ?」


 先ほどの訓示を繰り返す信長に戸惑った小一郎が、小声で尋ねると、藤吉郎は訳知り顔で口を開いた。


「決まっちょーわ。大殿は『首を取るな、打ち捨てよ』と仰ったんじゃ。そこに今川勢の首を取った又左衛門殿らが参られた。ここで牢人衆の方々を褒めれば、大殿の申し付けを破る(やから)がぎょうさん出て来てまうわ。」

(兄さもさっきは、又左衛門殿らが首を取って幸先が良い、などと言うとったくせに…。)


 あっさりと前言を翻した兄に呆れつつも、口をつぐんで信長の訓示が終わるのを待っていた小一郎は、不意に首筋を撫でた一筋の風に身を震わせた。風が吹いて来た方角――西を仰ぎ見ると、雲一つ無かった青空に、分厚い黒雲が湧き出していた。


「なんじゃ、こんな時に…戦が終わるまで降らんとええが…。」


 希望的観測を口にして、小一郎は視線を戻す。ちょうど信長の二度目の訓示が終わり、牢人衆を加えた軍勢が続々と砦の門をくぐって、東に布陣する今川勢へと向かおうとしていた。




「申し上げます!織田勢が中島砦を()で、山際にて備えを立てております!」

「…太守様の読み通りにございましたな。」


 今川軍本陣に詰めていた重臣は、伝令の報告を聞き終えると主君に向き直った。


「うむ。さすがは上総介、勝機を逸すまいとの心意気は見事である。なれど…意気のみでは戦には勝てぬ。」


 眼下の戦況を睥睨(へいげい)しながら、義元は片手の扇子を強く握りしめた。


「兵の数も、地の利も我が方が(まさ)っておる。この戦…今川の新たな門出としよう。」




「兄さ、兄さ。」

「今度は何じゃ。」


 陣形を保ったままじりじりと今川勢へと距離を詰める軍勢の中、三間半(さんげんはん)――全長およそ6メートル――の長鑓を、周囲の足軽共々斜めに構えながら、小一郎が隣の藤吉郎に囁いた。


「近づいて見っと、やっぱり今川勢は随分多く見えるけんど…わしら生きて帰れるんじゃろうか。」

「お(みゃあ)はこの期に及んで…大殿の指図に従っとりゃ勝てるに決まっちょう。ええか、又左衛門殿ら侍衆が先陣切って敵を突き崩す。わしらはその後に続けばええんじゃ。あとは無心に動き回れ。矢玉っちゅうんは動き回っとりゃ当たらんもんじゃ。」


 自分が聞きたかったのは、生き残れるかどうかなのだが…。

 小一郎の現実逃避気味の思考をよそに、織田勢は今川勢が布陣する桶狭間山に迫っていく。

 そして、織田信長が突撃の号令をかけようと大きく息を吸い込んだその時。


 ぴちょん。


 額を打った冷たい感触に、小一郎は――いや、周囲の足軽達も、思わず天を仰いだ。

 燦燦(さんさん)と輝いていたはずの太陽はいつの間にか黒雲に隠れ、雨が降り出す。

 雨足は徐々に強くなり――時を同じくして強い風が吹き始めた。

 風向きは西から東。

 猛烈な風と雨が、織田勢の背面…即ち、今川勢の正面へと打ち付ける。

 突然の変事に身をすくめ、風雨をやり過ごした小一郎が恐る恐る目を開けると、先ほどまで整然と防備を固めていた今川の陣が、木盾も旗指物も滅茶苦茶に入り乱れていた。


「――かかれ!かかれ‼」


 信長の号令に、周囲の足軽が弾かれたように走り出す。

 小一郎も、二、三歩と足を進める内に、いつしか駆け出す。

 恐れていた矢玉が飛んでくる事は、無かった。




 今川軍前衛の壊走が、その背後に控えていた友軍へと波及していく。

 一瞬の風雨であちこちに出来た水たまりを踏み荒らしながら、織田兵が桶狭間山を駆け上って行く。

 黒雲から顔を出した太陽が、まるで新世代の英傑の門出を祝福するかのように輝いていた。

今回の義元の台詞、「我らの矛先には、天魔鬼神も敵うまい。」となっている部分は、『信長公記』では「義元が矛先には~」とあるようですが、陣頭指揮を執った訳でも無いのに「義元が」と述べている点に疑問を感じたため、このような表現になりました。

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[良い点] 「桶狭間山」「強襲」という、考え方が反映していて良い。
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