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#127 大高城兵糧入れ

桶狭間の戦いの序章、大高城兵糧入れをお送りいたします。

 駿府の一角で一人の少女が眠れぬ夜を過ごしていた頃。尾張、三河の国境に、生ぬるい殺気が充満していた。

 海沿いの丘陵にそびえ立つ城塞――大高城を囲む五つの砦。その北端を固める二つ…鷲津砦と丸根砦の東に陣を張る軍勢。

 頼りない月明かりの下、まばらに配置されたかがり火が火の粉を散らす。

 砦の中心には『永楽通宝(えいらくつうほう)』…織田上総介の旗印がはためき、東の軍勢は『二つ引両』…今川の旗印をたなびかせている。

 今川の陣中の一角に、険しい顔付きで鷲津砦と丸根砦を見上げる武者の姿があった。


「殿、まだ起きておいでにございましたか。」


 殿、と呼ばれて振り返ったのは、今川の軍勢…義元の先鋒を仰せつかった、松平(まつだいら)蔵人佐(くろうどのすけ)元康(もとやす)だった。重い甲冑はまだ身に付けておらず、人並みに伸ばした口ひげや顎ひげと若々しい顔立ちが、初めて見る者にちぐはぐな印象をもたらす。


左衛門尉(さえもんのじょう)…砦からの使いは来ぬか?」


 主君の問いに、酒井(さかい)左衛門尉(さえもんのじょう)忠次(ただつぐ)は一瞬痛みをこらえるかのように顔をしかめると、ぎこちない笑みを浮かべた。


「使いが来れば、直ちにお伝えいたします。殿は明日に備えて、早うお休みを…。」

「明日、明日か。…やはり無理攻めより他に道は無い、か。」


 誰かに、というより、自分に言い聞かせるように、元康は呟いた。




 三河岡崎の有力国衆、松平元康と、遠江掛川の重臣である朝比奈(あさひな)備中守(びっちゅうのかみ)泰朝(やすとも)を筆頭とする今川軍先鋒が、鷲津、丸根両砦の東に陣を構えたのは、夕方とは言えないまでも、昼をとうに過ぎた頃だった。

 二人が義元より与えられた使命は、鷲津、丸根の両砦を落とし、大高城に兵糧を運び入れる事、だったのだが…ここで元康が泰朝に一つの提案をする。

 両砦への退去勧告である。


「子曰く、『戦わずして人の兵を屈するは善の善なり』。物見(偵察)の申す所によれば、砦はいずれも小さく、一つ当たり五百ほどしか兵がおらぬとか。我が方は五千、敵方も数の不利は承知のはず。戦わずして大高城の囲みを解く事が出来れば、我らも兵を損なう事無く、太守様をお迎え出来ましょう。」


 そう熱弁する元康に対し、泰朝は、まずは兵を心置きなく休ませる事が出来るよう、先鋒隊の守りを固めさせるとの条件を付けつつ、退去勧告に同意した。そして、元康が出した退去勧告に対し、両砦の守将は、まず主君の指示を仰ぐと前向きな姿勢を示し、早馬を清洲城に向けて送り出した。

 上手く話がまとまれば、互いに血を流す事無く、大高城に兵糧を運び込める。そう期待していた元康の予想を裏切って、日が傾き、山の彼方に沈んでも、砦から勧告を受諾するとの返事は来なかった。


「明日の夜明けと共に二手(ふたて)に別れ、鷲津、丸根を即刻落としましょう。」


 無事野営の支度が整った夜、今後の方針を協議するための評定(ひょうじょう)の席で、泰朝は無感情に言い放った。


「待てど暮らせど詫び言一つ寄越さない。砦を明け渡す積もりは無い、という事にござろう。明日には太守様が着到あそばされる。(さわ)りとなるものは取り除かねば。」

「備中守殿の申す事、一々もっともなれど…今少し、砦からの返事を待ってはいかがか。子曰く、『攻城の法はやむを得ざるが為なり』と…。」


 食い下がる元康に対し、泰朝は首を重々しく頷いた。


「左様、やむを得ざるが為に行うのでござる。砦から幾度となく早馬が出入りしてござったが…砦からは立ち退くとも立ち退かないとも返事が無い。察するに、上総介(かずさのすけ)殿(織田信長)の許しを得られず、進退窮まっているのでござろう。不憫に思わぬでも無いが…これ以上捨て置けば大高城の兵は一層飢え、我ら手勢の威勢は弱まる。何より、太守様の戦運びに支障をきたす。…となれば、一刻も早く攻め落とす他ございますまい。」


 明日の夜明けまでに勧告を受け入れるとの返事があれば無理攻めは中止、さもなければ鷲津砦は泰朝が、丸根砦は元康が攻め落とす。

 そんな結論で評定は終わったのだった。




「上総介殿は鷲津と丸根を見限ったのであろうか。」


 元服以来、重臣として頼りにしてきた忠次に対し、元康がこぼす。


「砦の後詰に打って出ねば、家中の信を失う事、目に見えておろうに…。」

「太守様直々のご出馬、上総介殿の耳にも入っておられるはず。我らとの戦で兵を損なえば、太守様が直卒する軍勢に勝ち目がなくなる…そう考えられたのでは?」


 忠次の推理に、元康は否定も肯定も返さずに沈黙した。


「…いずれにせよ、備中守殿の申す通りじゃ。織田の兵を(おもんぱか)(いとま)があれば、今川の兵を労わらねば。…手筈は整っておるか?」

「太守様より頂戴した絵図のお陰で、一帯の地勢はあらかた掴めております。定石通り、暗い内に兵を丸根砦の間近まで進ませ、夜明けと同時に攻めかかる、と…陣中に触れは済ませてございます。殿は明日、五百ばかりの兵で小荷駄をお守りいただきたく…。」

「いや、わしが砦攻めを差配する。」


 ついさっきまで砦の無血開城にこだわっていた主君の申し出に、忠次は目を瞬いた。


「間近まで攻め寄せれば、或いは…砦の兵もこれ以上の抵抗は無意味と悟り、詫びを入れて参るやも知れぬ。その際に、攻め手の大将たるわしがおった方が話が早くまとまろう。」

「…無益な殺生を嫌うはご立派な心掛けにございます。なれど…御身は岡崎松平の当主。竹千代君もまだ幼うございます。あまり前に出られませぬよう…。」


 忠次の忠告に、元康は深々と頷くと、一瞬丸根砦を見やってから背を向け、寝所へと歩みを進めた。




永禄3年(西暦1560年)5月19日 丸根砦


 東の空が白み始める頃、丸根砦が建つ小高い丘をじりじりとよじ登る、無数の人影があった。武士とは比べ物にならない、簡素な具足を身に付けた今川の雑兵、足軽達。背中に旗指物(はたさしもの)を背負わない彼らは、身を低くし、腹ばいになって、必死の形相で砦への距離を詰めていく。

 しかし――その進みが突然止まる。麓に枝先を向けて敷き詰められた木の枝…逆茂木(さかもぎ)のためである。

 無理をすれば押し通れない事も無いが…鎧武者はともかく、雑兵足軽では手足が傷だらけになってしまう。つまり――取り除く他無い。

 雑兵足軽の中でも心得のある者達は、尖った枝先を脇差(わきざし)で手際よく削り落とし、固定部分からゆっくりと引き抜いて、進路を切り開いていく。

 しかし一人、戦慣れしていない雑兵が、逆茂木の除去に手間取り、苛立った挙句に、力ずくで引き抜こうと立ち上がった――次の瞬間。

 

 どすっ。


 丸根砦から飛来した矢が、雑兵の眉間を貫いた。


 どおん。どおん。どんどんどんどん――。


 絶命した雑兵が倒れるより早く、砦から敵襲を知らせる太鼓の音が響き、一拍遅れて矢の雨が今川勢に降り注ぐ。


「勘付かれたぞ!急げ、進め、間合いを詰めよ!」


 少し離れた場所で雑兵足軽を監督していた武士が、声を張り上げる。

 今川方も負けじと太鼓を打ち鳴らし、その音に励まされるようにして、雑兵足軽は逆茂木が取り除かれた隙間から砦へと距離を詰めていく。途中で矢を食らい、倒れる者も散見されたが、大勢に影響は無く、今川兵は砦の外壁を囲む空堀の間際まで辿り着いた。

 と、外壁各所に設けられた狭間(さま)から矢が水平に飛び出し、今川兵を襲う。すかさず地に伏せ、矢をかわす今川兵。後続が木盾を持ち寄り、堀端に並べ立てて矢を防ぐ。

 更に後に続く今川兵が、木製の梯子(はしご)を外壁に立てようと機を窺う。

 丸根砦の陥落は間近に見えた。




「丸根砦より詫び言は来ぬか。」


 丘の(ふもと)、矢の射程圏外に構えた本陣で、色鮮やかな朱塗りの具足に身を包み、床几(しょうぎ)に腰掛けた元康が、丸根砦をにらみながら言った。


「はっ…この期に及んでも、上総介殿に忠節を尽くす腹積もりかと…。」


 傍に控えていた家臣が気まずそうに返答すると、元康は無意識のうちに片手を口元に運び、布越しに親指の爪を噛んだ。

 そこに、伝令が駆け込んで来る。


「ご注進!お味方優勢なれど…大手門を未だ破れませぬ!」

「なにゆえじゃ!」


 元康が立ち上がって問い返すと、伝令は一瞬身を震わせてから、言の葉を継いだ。


「大手門の左右に矢倉(やぐら)があり、そこに鉄炮放(てっぽうはなち)が詰めております。近寄る者があり次第、撃ちかけられ…近寄れませぬ。」


 元康は親指の爪を噛みながら、丸根砦を射殺(いころ)さんばかりの眼光でにらみつけると、おもむろに口を開いた。


「…我が方にも鉄炮放が二十ばかりおろう。大手門の攻め手に加勢させよ。」

「殿、それは…鉄炮も弾薬(たまぐすり)も高うございます。それをここで使っては…。」

「しかも敵方は矢倉より身を隠して撃ち下ろして参ります。撃ち上げるこちらは不利…。」


 家臣達の反対意見に、元康は据わった目で応えた。


「今は一刻も早く砦を落とす事こそ肝要。弾薬を惜しんで兵の命を惜しんではならぬ。それに…こちらの弾は当たらずとも構わぬ。音が鳴り、矢倉に穴が開けば、敵兵も身を隠そう。あえて調子を合わせず、入れ替わり立ち替わり撃ちかけて矢倉の兵の頭を下げさせよ。」

「は…ははっ!鉄砲組頭と大手門の攻め手にお伝えし申す!」


 陣幕をかき分けて本陣を後にする伝令を見送った側近の一人は、甲冑を鳴らしながら元康を窺った。


「よろしいのですか、殿。大手門が破れ、馬上衆が討ち入れば、砦の兵は死力を尽くして戦う他無いかと…。」


 丸根砦の兵は助からないが、それでもいいのか。

 暗に心配する側近に、元康はゆるゆると首を振った。


「わしの務めは丸根砦を救う事では無い。大高城を救う事じゃ。…順逆を誤る訳にはいかぬ。」


 やがて、丸根砦の方角から破裂音が連続して響く。

 それが鳴り止んで間も無く、今川兵の喊声(かんせい)が轟いた。


――丸根砦が守将、佐久間大学!討ち取ったりぃぃぃ‼


 元康の側近達が、おお、と息を漏らす中、先程とは別の伝令が駆け込んで膝をついた。


「申し上げます!朝比奈備中守殿の鷲津砦攻め、間も無く終わるものと思われます!」

「相分かった。酒井左衛門尉に伝えよ。大高城への道は開かれた、小荷駄を送り届けよ、と。」


 承知、と返答して退出する伝令と入れ替わるように、物見に出ていた兵が入る。


「向山砦の兵が一団となり、南に向かって立ち退いてございます。氷上山と証光寺の兵は散り散りになって…その内の一手が鷲津、丸根の間を通って鳴海城の方角に向かっております。」


 陣幕の中の武士達は顔を見合わせた。

 鷲津、丸根の両砦が陥落した事で、孤立した三砦から敵兵が逃げ去るのは想定の範囲内だ。向山砦には水野勢が詰めていたため、織田を見限ったのだろうと見当がつく。

 しかし、鳴海城方面に向かっているのは…。


「殿。ここで逃げ出さず鳴海城に向かうは、大将首に相違ございませぬ。討ち取って更なる手柄となされるがよろしいかと…。」

「されど、丸根を落としたばかりで兵も疲れておろう。ここは兵糧入れを確と務め上げるべきでは…。」


 相反する意見に耳を傾けていた元康は、深呼吸を一つ挟んでから口を開いた。


「我が方は丸根を落としたばかり、追い討ちを命じても、中島砦に逃げ込まれた後であろう。大将首は惜しいが…まずは丸根と鷲津を抑え、大高城への兵糧入れを果たそう。」




 氷上山、証光寺の両砦から脱出し、鳴海城南東に築かれた中島砦に駆け込んだ軍勢は、沈痛な空気に支配されていた。


隼人正(はやとのしょう)、いかにする。」


 氷上山砦を守っていた織田家臣、千秋(せんしゅう)四郎(しろう)季忠(としただ)が、証光寺砦を守っていた同輩、佐々(さっさ)隼人正(はやとのしょう)勝通(かつみち)に問いかけた。


「水野が立ち退き、鷲津、丸根が落ち…もはや大高城の囲みは解けたも同然と、中島砦まで退いてはみたが…やはり、殿(信長)の許しなく退いたるは…。」

「では、いかがすれば良かったと申す!…お主の申す通り、砦を明け渡せとの下知は承っておらぬ。されど、あのままでは…!」


 歯ぎしりしながら、佐々隼人正は言い返す。


(中島砦の兵の目の冷たい事と言ったら…!戦わずして砦を明け渡した臆病者と、陰口を叩いておるに相違ない。このままでは…死んでも死にきれぬ…!)


「…今川の大将首を取って戻れば、面目が立つやも知れぬ。」

「…四郎の申す通りじゃ。」


 千秋四郎の呟きに、佐々隼人正が即座に食いつく。


「砦よりついて参った兵は三百足らずなれど…一当てするのみなれば勝算も――」

「その話、拙者達も乗らせてもらおうか。」


 突然かけられた声に二人が振り返ると、一見立派ながら、所々にほころびが目立つ甲冑に身を包んだ若武者十数名が獰猛な笑みを浮かべていた。


前田(まえだ)又左衛門(またざえもん)他、尾張牢人衆見参!命懸けの功名、助太刀させてもらおうか!」

ご存知の方も多いかと思いますが、前田利家はこの頃織田家を追い出されて無職でした。

どこそこで信長が戦うと聞きつけると、勝手に参陣して首を取って帰参を願い出ていたようです。

桶狭間の戦いでも、同様の理由で参陣していた模様です。

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