#125 太守様、小田原に行く(7 months until X-Day.)
本編で扱った今川義元の小田原訪問は、全くの創作…ではなく、実際にあった出来事を基にしています(正確な時期や内容は不明)。
大名クラスが他の大名の本拠地に行くのは中々のレアケースなので、当時の人々にとってもそこそこビッグニュースだったと思います。
永禄2年(西暦1559年)10月 相模国 小田原城
箱根の山々の向こうへと陽が落ちる頃、数多のかがり火に照らされた舞台の中心で立つ能面の男がいた。
鼓の音、笛の音と共に、舞いが始まる。それを見守るのは、舞台の周りを取り囲むように巡らされた回廊に所狭しと腰掛ける侍達。
中でも、能舞台の真正面には、一段と格調高く設えられた席があった。
本来そこに座るべきは、この城の、いやこの国の主のみ。しかしそこには、並んで座る二人の男の姿があった。
一人は額に古傷を刻み、厳めしい顔付きで演者をにらむ壮年、北条氏康。
もう一人は一見ふくよかな面立ちに、底知れぬ微笑をたたえた公家風の武士、今川義元。
東国を代表する大大名二人が席を同じくするという珍事に、一部の侍達は能舞台に集中出来ず、ちらちらと主君達の顔色を窺うのだった。
陽が暮れ、能も終わり。二人の大名は場を移す――限られた賓客だけが招き入れられる、特別な応接間へと。
部屋の中央で膳を前にして向かい合い、四隅に立てられた灯台の明かりに照らされながら、酒を飲み、肴を口に運ぶ。
共に数か国を治める大邦の主、酒が入っても会話は和やかに…。
「いや、先程の能楽は見応えがござった。駿府では京に劣らぬ舞い手が揃っておりますゆえ、少々見飽きておりましたが…時にはこうした趣向もようございますな。」
「そいつは重畳。舞い手に不自由しねえってんなら、ちっとばかし小田原にも寄越してもらいてえな。…時に、江川酒の味はどうだい?伊豆韮山の名水で造った二つと無い銘酒だ。」
「されど…余が聞いた所によれば、江川酒には駿河の米が欠かせぬとか。重ねて申さば、北条が伊豆を切り取ったは今川の後ろ盾あればこそ。即ち、江川の酒造りは今川抜きには成り立たぬ…とも言えましょうな。」
表面上は穏やかながら、水面下で鎬を削り合う二人に、遠巻きに見守る小姓や女中達は身の縮む思いだった。と、そこに、控え目ながら耳に心地良い笑い声が差し込む。
「…かあちゃん、何が可笑しいんでえ。」
氏康が不機嫌そうに視線をずらすと、斜め向かいに座って微笑む妻――満の姿があった。
「お許しを。大層微笑ましかったものですから…貴方様と義弟殿が、実の兄弟のように仲睦まじくいらっしゃって。」
「よせやい、仲睦まじくなんざ…そもそも、先々代(早雲)がこの世を去って何十年と経つってえのに、いつまでも恩着せがましく…。」
「では、殿方らしく果たし合いにて決着されてはいかがにございましょう。義弟殿は鑓の使い手にございましょう?」
笑顔で突拍子も無い事を言い出す妻に一瞬瞠目しながら、氏康は胸中で素早く算盤を弾いた。
自身の得意分野は刀、義元は鑓。客人である事を加味すれば、義元が鑓を使う事はちょうどいいだろう。自分の腕前ならば、五分以上に持ち込めるはず…。
「ほっほっほっ、義姉上は相変わらず肝が据わっておられる。」
どこか妻のそれに似た笑い声に苛立ちを覚えながら、氏康が視線を戻すと、義元は動じた様子もなく、盃を傾けていた。
「せっかくの申し出なれど、遠慮申し上げる。余は馬上一騎の武士にあらず、三か国の太守なれば…。」
「ふん、漢の高祖(劉邦)か…つまり、俺は楚の覇王(項羽)って訳か?」
「いやいや、余が漢の高祖など、おこがましい…謀をもって家を継いだゆえ、陳平といった所にござろう。左京大夫殿は文武に秀でた大将ゆえ、韓信といった所かと…。」
「よせやい、縁起でもねえ。狡兎死良狗亨…日の本一統の暁には、一族郎党誅殺されちまうじゃねえか。」
氏康の返事に、義元は素早く開いた扇で口元を隠すと、声を上げて笑った。
「ほっほっほっ…ほっほっほっほっほっ…やはり左京大夫殿と話すのは楽しい!打てば響くとはこの事よな。」
「そうかい、そいつは何よりだ。」
気の無い返事をすると、氏康は盃に残っていた酒を一息にあおった。
「それにしても、義姉上は子宝に恵まれましたな。先日お会いした新九郎(氏政)殿に源三(氏照)殿、当方でお預かりした助五郎(氏規)…女子も二人お産みになられた。」
高笑いを収めてからややあって、義元はそう切り出した。
「我が妻もよう尽くしてくれたが…男子は五郎(氏真)のみ。娘も武田に嫁いでしもうた。されど、結殿が嫁いでよりこの方、駿府の奥向きに憂い無く、領内の商い益々盛ん。結殿を我が家に迎えられたは、五郎にとって一代の名利やも知れぬのう。」
「御託はその辺にして、要件を言ってもらおうじゃねえか。」
「まあ殿、せっかく義弟殿が褒めてくださいましたのに…。」
口を尖らせる妻と一瞬目を合わせたものの、氏康は構わず続けた。
「噂はこの小田原まで届いてる。甲斐の足弱を不憫に思った『相模御料人』が、臼川越庵殿に言付けて、武田のご政道にケチをつけたってな。結局、己の愚行に思い至った『相模御料人』が方々に詫びを入れて、信玄公も許したって話だが…五郎殿の名代が武田に詫びを入れたとあっちゃ、今川も具合が悪いだろう。結や北条に思う所があるんじゃねえか、太守様にはよ。」
鋭い眼光を放つ氏康に対し、義元は扇を閉じて背筋を伸ばした。
「さすが、相模の獅子は情の深い…娘の行く末を案じておられるとは…。」
「そんなこっちゃ無え。てめえに借りをつくったままじゃ具合が悪いってだけだ。」
氏康の返答を茶化す事無く、義元はその瞳を見つめ返す。
「先程の言葉に噓偽りはござらぬ。結殿の輿入れは今川にとっての吉事…されど、此度は武田との駆け引きのために辛い目に合わせてしもうた事、申し訳無く思うておる。」
「駆け引き、とは…いかなる仕儀にございましょう。この義姉にお教えくださいませぬか。」
すがるように言う義姉に、義元は深々と頷いた。
「義姉上もご存知の通り、余が妻を迎えてよりこの方、今川は武田と所縁が深うござった。武田が信濃に兵を出せば今川も兵を出し、今川が河東に兵を出せば武田も兵を出す。斯様に支え合って参った…が、それも北条と和睦するまでの話。」
「葛山をそっくり寝返らせたあれか。つくづくしてやられたぜ。」
「左京大夫殿と真っ向から戦っては、勝ち目が薄いと踏みましたゆえ…ともあれ、最早今川の助勢に武田が出張る事はござらん。なれば、今川が信濃に兵を出す義理も無い。」
「武田は不服みてえだが?」
「お耳の早い…左様、事あるごとに助勢を求めて参られる。されど、少なくとも当面の間は、今川が武田に過分に肩入れする事はありますまい。」
「それが解せねえってんだ。世間じゃ駿甲相、対等の盟約と思われてるみてえだが…此度の太守様のお越しといい、ちっと北条への肩入れが過ぎやしねえか?」
探るような視線を向ける氏康に、義元は口角を上げて応えた。
「左様に思われても仕方の無い事…仮に大膳大夫(武田信玄)殿と左京大夫殿、いずれかを敵に回さねばならぬとあれば、余は左京大夫殿を身方としたい。」
「…その心は?」
「左京大夫殿が義に篤いお方ゆえ。」
氏康は反射的に片頬を歪め、鼻を鳴らした。
「義と来やがったか。謀が蔓延る乱世で、よく言う…。」
「左様、これほど移ろいやすい言葉もそう無い…されど左京大夫殿は、目先の利に惑わされる事無く、能う限り義を全うしておられる。対して大膳大夫殿は、地味に乏しい甲斐の領民のためとは申せ、軽々に約定を破るきらいがある…昨年に至っては、公方様の仲立ちさえ無下になされた。左様なお方に馳走を重ねたとて、恩に思うてくれるかどうか…。」
「…俺はただ、先代(氏綱)の置き文を守ろうと努めて来ただけだ。」
氏康は、武田領から生還した風魔乱破の報告を思い返し、富士の山の向こう――甲斐国に思いを馳せた。
水害、疫病、天候不順…あらゆる天災が、峻険な山に囲まれた狭い土地を、毎年のように襲う。しかし他国の助けは期待出来ない。この乱世、苦しいのはどこも一緒だからだ。
川の流れを変え、税制を改め…それでも領民が飢え苦しむというのであれば、最早打つ手は出先での乱取りしかない。
もし自分が甲斐国の領主だったとして、今の相模と同様の政が出来るだろうか?…その答えは、恐らく否だろう。
「ともあれ、大膳大夫殿は敵が多い。余が助勢せぬからと申して盟約を破れば、今川のみならず北条をも敵に回す事になる。」
「だから武田は今川と縁を切れねえ、と…成程、ようやく合点がいったぜ。この間の一件は、武田の溜飲を下げさせるためだったって事か。」
「はっきり仰ってくださいませ。あの子の失態は、必定だったという事なのですか?」
妻になんと説明したものかと氏康が逡巡した刹那、義元が後を引き取った。
「義姉上、ご心配めさるな。余は結殿の行いを手抜かりとは思うておりませぬゆえ…なれど、結殿が武田に詫びを入れる事はかえって今川のためになる事にござった。」
「あの子が、詫びる事が…。」
義姉を見据えて頷くと、義元は続けた。
「左京大夫殿を前にあえて申さば…武田と今川は共に由緒ある家柄。されど、過去のしがらみゆえに、武田は今川の後塵を拝する事が多い…武田家中の憤懣、察するに余りある。左様な折に、『今川の御前様』が頭を下げて来た…武田のお歴々は胸のすく思いがした事にございましょう。」
「…治部大輔殿、もう一つお聞かせください。駿府に戻ったあの子は、いかなる評判をこうむったのでしょう。」
「帰着早々に、余が労い申した。武田との『行き違い』、無念の至りであったろう。民を慈しむ心、三国に比類無し。今川の室としてこの上ない働きであった…と。それゆえ、表立って結殿を貶める者はおりませぬ。」
「…左様にございますか。治部大輔殿のご厚情、痛み入ります…。」
そう言うと、満は悲しげに微笑んだ。
「時に、余が持参した贈り物は、喜んでいただけたかの?」
ややあって、沈滞した空気を振り払うかのように義元が口を開いた。
「…ああ、どれもこれも逸品揃い、宿老連中も満足した事だろうよ。俺としちゃあ、こいつが一等気に入ったが。」
そう言って氏康が懐から取り出したのは、黒漆塗りの印籠だった。
「駿府の友野屋と小田原の外郎屋が合力して作ってる印籠。今や小田原で持ってねえ奴はいねえと言っても過言じゃねえ。酔い覚ましの丸薬なんかを入れてな。外郎屋から聞いたが…百姓町人向けのも武士向けのも、構造は同じだそうじゃねえか。違うのは表面に施す飾りだけ…買い手の上下を問わず、安く大量に造れるって訳だ。」
「されどわたくし、いただいた印籠の飾りに感じ入りました。水面に望月…まこと見事な細工で…。」
「俺のは禄寿応穏…先代が創った印判と同じだ。こいつを懐に入れてると身が引き締まる…。」
何気なく感想を述べていた氏康は、義元の忍び笑いに眉根を寄せた。
「…今度は何でえ。」
「失敬。然程に喜ばれるとは…結殿が苦心されたかいがあった。」
義元の言葉に、夫婦は顔を見合わせる。
「では、これはあの子が…?」
「職人を召し出して事細かに指図を…いや、ご両人が左様に喜ばれるとは、結殿によい土産話が出来た。」
まあ、と感嘆の吐息を漏らして微笑む満とは対照的に、氏康は唇をへの字に曲げると、印籠を素早く懐にしまい込んだ。
「それを先に言えってんだ!…つくづく油断のならねえ…。」
「ほっほっほっ、何よりの褒め言葉。では、左京大夫殿より一本取った暁に、一つ約定をお願いしたい。…この先、何が起ころうとも、北条は今川の身方になる、と。」
「…一人息子がそんなに心配か。確約は出来ねえぞ。こっちも何の益も無しじゃ動けねえ。その時の情勢次第だ。」
色よい返事とは到底言えない氏康の返答に、しかし義元は声を上げて笑った。
「それゆえ、左京大夫殿が義に篤いお方と申し上げた。一も二も無く駆けつける、と仰せになればよろしいものを。口約束は後から幾らでも破れると申すに…。」
氏康は無言で盃を干すと、わざとらしく咳払いをした。
「取り敢えず、今回の借りは早い内に返す。今川の太守様が、小田原くんだりまで来てくれたってんだからな。今度は俺が駿府に行く、来年の春にでも…。」
「『役帳』も出来上がった事にございますしのう。」
「…ふん、さすが耳の早い…お察しの通り、もう少しすりゃあ俺もちっと身軽になる。そしたら行ってやらあ、東の都とやらを拝みに、な。」
獰猛な笑みを浮かべる氏康に、義元はいつもの底知れぬ微笑を返した。
小田原への訪問を終えた義元は、冬の本格化を前に箱根路を越え、駿府へと帰着する。
そして12月末、小田原において、氏康が数え45にして隠居を宣言、嫡男氏政が北条の当主となるに至った。
この後氏康は『御本城様』と称されながら、新当主氏政の後見に注力。事前に家中の所領の内訳を列記した『所領役帳』が完成していた事もあり、家督相続はつつがなく進んでいった。
――しかし。
年が明けて春になり、夏を迎えても。北条氏康が駿府を訪問するという約束が果たされる事は、無かった。
永禄3年(西暦1560年)。北条、今川の両家に、時代の大きなうねりが迫りつつある。
いよいよ桶狭間合戦が迫っておりますが、日本史上重要な合戦の一つである以上、描写にも気を付けて参る所存です。




