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#124 疫病に国境は無いが、医療には国境が有る(9 months until X-Day.)

今回、いつにも増して特定の戦国大名に対する風当たりが強くなっておりますが、作者なりに勉強した上で執筆しております。

後北条氏が完全無欠の戦国大名だったとは思っておりませんのでご了承ください。

永禄2年(西暦1559年)8月 駿河国東部 葛山(かつらやま)


「御前様、面目次第もございません…!」


 そう言って畳に頭をこすりつける越庵先生を見ながら、私は激しい怒りに襲われていた。

 ただ、それは越庵先生に対してのものじゃない。

 越庵先生に頭を下げさせているこの状況…いや、自分自身の非力さに対しての怒りだ。




 さかのぼる事ひと月前。寿桂様の忠告に従って遠出の支度を進めさせていた私の元に、駿府館の『本館』で開かれる評定(ひょうじょう)に出席するよう要請があった。

 案の定と言うべきか、議題はやはり武田領を中心に広がりを見せている流行病(はやりやまい)への対処だったが、沼津の時とは違う点が幾つかあった。

 一つは、武田からの非公式の支援要請が、輿入れしていた五郎殿の妹君から、家族への手紙という形式で駿府館へ直に届いた事。もう一つは、評定を取り仕切っていたのが名目上の当主、五郎殿であった事。最後に、前回とは対照的にトントン拍子で話が進み、御一家衆であると同時に駿東に広大な領地を持つ葛山(かつらやま)左衛門佐(さえもんのすけ)氏元(うじもと)殿の保護の下で、私と越庵先生一行が駿東に向かう方針がスムーズにまとまった事だった。

 唯一議場がざわついたのは、出立(しゅったつ)の見通しを尋ねられて、「明日の朝にでも出立できます」と私が答えた時くらいだろうか。肝心の葛山殿が「もう一日必要」だと言い出したため、結局出立は二日後になったのだが、寿桂様のアドバイスの的確さに、私は感嘆しきりだった。

 二日後、侍女や越庵一門、大量の物資と共に駿府を出発した私は、葛山殿の手勢に守られながら東海道を東に進み、道中大したトラブルも無く葛山殿の所領に入った。…今にして思えば、その時すでに領民が大勢沿道に集まり、「相模(さがみ)御料人(ごりょうにん)様のお成りだ!」とはしゃいでいる事に違和感を覚えて然るべきだった。

 ともあれ、その時の私はその点を深掘りする事無く、氏元殿の屋敷に案内されてすぐ、沼津の時と同様に、感染症対策に取り組もうとした…が、ここでまた当てが外れる感覚を味わった。氏元殿に、領内の病人は二桁行くか行かないかで、近くの空き家を買い取ってまとめて収容してある、よって越庵先生があちこち駆けずり回る必要は無い、と告げられたのだ。

 葛山殿の手際の良さに喜ぶべき所、何となく釈然としないものを感じながら四、五日が経過。隔離施設に籠っていた越庵先生とお弟子さん達が、流行病の概要と治療法を確立したと報告するや否や、今度はすぐに国境を越えて、甲斐の病人の手当てに当たってほしいと『要請』された。

 違和感はあっても異論は無かったため、国境までの護衛を氏元殿に頼んで越庵先生とお弟子さん数人を送り出したのが一か月前。

 その全員が甲斐から叩き出されるようにして戻って来たのが、つい昨日の事だ。




「先生、お顔をお上げください。先生ほどのお方が事前の申し合わせも無くお帰りになられるなど…一体何があったのです?」


 結末を知っている漫画をもう一度読み返しているような錯覚に襲われながら、私は可能な限り穏やかな声色で、越庵先生に問いかけた。


「それがしの見通しが(あも)うございました。御屋形様の妹君にお招きされた以上、相応に便宜を図っていただけるものと…我ら一同、甲府の一角に留め置かれ、みだりに出歩く事も許されず…武田家中の方々が運び入れる病人を手当てするのみにございました。」


 百ちゃんの予想がほぼ的中していた事に、私は内心舌を巻いた。越庵先生が甲斐に行ってから音沙汰が無い事を不安に思い、連れて来た侍女達に心当たりが無いか相談した所、百ちゃんが厳しい現実を教えてくれたのだ。

 武田領内は情報漏洩を防止する態勢が他国に比べて特に厳しく、過去に潜入して帰って来なかった風魔の乱破(らっぱ)が何人もいたそうだ。私が雇っている以上、越庵先生もスパイの疑いを免れないだろう、というのが百ちゃんの見立てだったが…わざわざ甲府まで呼んでおいて軟禁状態におく、というのはそういう事だろう。


「その上、武田家中のお歴々の不興を買ってしまい…。」

「武田家中の?一体何が…。」


 越庵先生が順を追って説明してくれた所によれば、こういう事だ。

 先生は甲府で病人の治療に当たる内に――ちなみに、流行病の正体は夏風邪だった――そのほとんどがやせ細り、衣服もボロボロな女性、老人、子供である事に気付いた。病人を運び込む武田家臣に問い合わせた所、彼ら、彼女らは信濃や越後での乱取り――つまり略奪で獲得した『足弱(あしよわ)』である、との返事が返って来たのである。

 武田軍が敵の勢力圏に攻め入った時は、戦況に応じて雑兵足軽に乱取りが許される。雑兵足軽は敵地の財産――金品のみならず食料、馬、そして人間――を『持ち帰り』、商人に売り払う。

 『足弱』の中には、身分や出身次第で『買い戻して』もらえる者もいるが、そうでない者は甲斐で生きていくしかない。いいとこ水商売、そうでなければ単純労働が関の山だろう。こうした『奴隷ビジネス』が、武田領の経済の一翼を担っているという訳だ。

 越庵先生は、この武田領の状態に、感染症拡大の一因があるとにらんだ。

 甲斐の武士や百姓町人が『足弱』を使うのは、労働に対価を支払う必要が無い上に、死んでも誰にも迷惑がかからないからだ。いきおい扱いは雑になり、衣服は最低限、食事も低栄養低カロリー、寝床は雑魚寝が当たり前、という状況が各地に出現する。

 素人の私でも分かる、劣悪な居住環境だ。誰か一人でも夏風邪をひけば、すぐに周囲の『足弱』に感染するに決まっている。


「そんな折、武田家当主、信玄公よりお呼びがかかりました。それがしが風の噂に聞いた所によれば、信玄公は民を労わる慈悲深き大将。直に『足弱』の扱いを改めるよう、訴える好機と思い…。」


 武田家の本拠地、躑躅(つつじ)(さき)(やかた)で武田信玄と対面した越庵先生は、諸国の情勢を根掘り葉掘り聞かれた。古い情報も多かったが、信玄はまあまあ上機嫌だったそうだ。

 場に緊張が走ったのは、信玄が今川領と北条領について聞き出そうとした時だ。同盟相手とは言え、軽々に情報を漏らしていい訳が無い事くらい、越庵先生も心得ている。

 しつこく聞き出そうとする信玄に対し、越庵先生は全くの独断で交換条件を持ちかけた。


「されば、此度(こたび)の疫病を調伏(ちょうぶく)するため、『足弱』と言えども粗略に扱わず、甲斐の百姓町人に劣らぬ暮らしを営めるよう、甲斐、信濃に触れを出していただきたく存じます。」


 その時の場の空気の冷たさと言ったら、それはそれはひどいものだったそうな。

 信玄は急用が出来たとかで席を立ち、同席していた側近からは白い目で見られた。


「左様に諸国を巡って参られたのであれば、鎮西(九州地方)からみちのく(東北地方)に至るまで乱取りが戦の習いたる事、先刻承知のはず、と…返す言葉もありませなんだ。」


 越庵一門に対して甲斐からの退去命令が発せられたのは、翌朝の事だった。


「重ね重ね、申し訳ございませぬ。薬師の分際で武田の(まつりごと)に口を挟んだ挙句、病人を残しておめおめと帰って来るとは…この越庵、いかなる責めも受け申す。」


 そう言って土下座する越庵先生に対して、私は思い切り首を横に振り、全身で『No』を表現した。


「越庵先生に一体何の手落ちがございましょう。先生はひとえに流行病を調伏せんと、手立てを信玄公に申し立てただけの事。恥じ入る事はございません。」

「されど、このままでは武田と今川の間柄が…。」


 普段は「政治の事なんか知ったこっちゃない」と言わんばかりの態度を取っている越庵先生の思いがけない言葉に驚きながら、私は言った。


「皆様、まずは長旅の疲れを癒してくださいませ。後の事は私どもが…先生方がもう一度甲斐に入れるよう、手を尽くして参ります。」




 数時間後、私は百ちゃん一人を侍らせて、一人の男性と面談していた。


「いや、御前様におかれましてはご機嫌麗しゅう…。と申し上げたい所にございますが、なにゆえ突然帰り支度を?何か駿府にて変事が?拙者の耳には届いておりませぬが…。」


 満面の笑みで語りかけてくる中年男性は、屋敷の主である氏元殿。

 数えで40歳、一見人のいい近所のおじさんだが…この一か月の間に、彼にはもう一つの顔がある事を私は知っていた。


「このひと月あまり、左衛門佐殿には大変お世話になりました。されど、最早私どもに出来る事は残っておりませぬ。度々お呼び立てしても左衛門佐殿がお越しになるのに時がかかっておりましたゆえ、さぞご多忙と思い…我らのみで駿府に戻ろうと思い立った次第にございます。」


 気を抜くと唇を噛んだり、歯を食いしばったりしそうな口元を扇で隠しながら、皮肉交じりに返す。


「いや、いやいやいや左様な事は…ただ、毎回毎回妙に間が悪く…御前様には、今しばらく留まっていただきたく…。」

望月(もちづき)屋との約定のためですか?」


 途端に氏元殿の顔が険しくなる。


「…どこでその名を?」


 氏元殿が不審に思うのも無理は無い。赴任以来軟禁状態に置かれていたのは、私達も同様だったからだ。

 表向きは流行病への感染を防止するため、というお題目で、私は勿論、駿府から連れて来た侍女達も外出を制限されており、外の様子を知る事はほぼ不可能だった。何度も呼び出してやっと来る氏元殿も私の質問に正面から取り合おうとはして来なかったし、私が氏元殿と懇意の商人の屋号を知っているはずが無い。

 本来ならば。


「失敬、夢と(うつつ)がないまぜになってしまったようで…。実は先日、奇妙な夢を見ました。暗がりの中で、左衛門佐殿と望月屋なる商人が談合に及んでいらっしゃって…相模御料人の名を借りて普請の段取りを組む、だとか…四百貫文を要する所を六百貫文、とか…まあ、何を狼狽(うろた)えておいでで?夢の話ですのに。」


 水槽の中の金魚のように口をパクパクさせる氏元殿を見て、私は確かな手応えを感じた。元風魔忍者としてのスキルを存分に活かして奔走してくれた百ちゃんの報告通り、やはり今回葛山領に私が招かれた事には、裏があったのだ。




 氏元殿が謀略を企てた背景には、葛山家が辿って来た来歴が関係している。

 葛山家は元々、今川の御一家衆であると同時に、北条とも縁が深かった。何故なら先代当主の氏広殿は、私の祖父、北条氏綱の弟だったからだ。そのため、北条と今川が駿東で争った『河東一乱』では、葛山家は当初、北条方に付いている。

 しかし、氏広殿が嫡男に恵まれず、葛山の親族から養子――氏元殿を迎えた事が、葛山家の運命を変える。

 天文14年――私が産まれる前の年だそうだ――、氏広殿の死後、氏綱の娘(父上の妹)を妻に迎えていた氏元殿が、突如として今川方に鞍替え。これによって、駿東における戦況は一気に今川有利に傾き、北条は完全撤兵に追い込まれる。

 その手柄をもって、氏元殿は今川の御一家衆でありながら家中有数の国衆という、ある意味松平元康殿の先輩的なポジションに収まったのだが、彼はまだ安心出来なかった。河東一乱のような事態が再び起こる可能性に備えて、北条や武田に伝手(つて)を保持していたのである。そんな折に甲斐からやって来たのが、例の夏風邪…流行病だった。

 そこで氏元殿が考えた、一石三鳥の策がこうだ。

 まず、五郎殿が主催する評定で事前に根回しを行い、私と越庵先生を迎え入れるお膳立てを整える。私と越庵先生が葛山領に入り次第、私を屋敷に閉じ込め、越庵先生を武田領へ。ここ数年で東国に名声を広めた越庵先生を手引きした事で、武田家に恩を売る事が出来る。

 一方で、贔屓(ひいき)の商人と密約を交わし、私から銭を引き出す算段を整える。具体的には、「相模御料人様が領民のために普請の銭を請け負ってくださる」「しめて六百貫文だそうな」…という噂を領民の間に流し、私が銭を出さざるを得ない状況に追い込む。そして私が望月屋に支払った六百貫文の内、四百貫文が材料費や人件費等に消え…残りの二百貫文を望月屋と氏元殿で折半する、という仕掛けだ。

 義元殿が定めた法度(はっと)に抵触しないのか?あれは株札の保有に関する法令なので、いち商人が日頃からお世話になっている国衆に『お礼』をしても罪には問われない。当初から密約があったとすれば、話は別だが。

 仕上げに、政治の素人である私を自身の屋敷で何不自由無く生活させれば、今川の御前様の覚えも目出度くなる、という寸法だ。

 …氏元殿に誤算があったとすれば、越庵先生が武田信玄相手に遠慮なくものを言う人物であった事と、私の精神年齢がとっくに成人を迎えていた事、くらいだろうか。




「…拙者の所業を、太守様(義元殿)や御屋形様(五郎殿)にご注進あそばされるお積もりで?」


 親の仇でも見るような顔付きで、氏元殿が私をにらみつける。が…私はおびえるよりむしろ、ホッとしていた。

 これでようやく、氏元殿と利害をすり合わせる事が出来る。


「まあ、そう焦らずに…どうやらお互いに『思い違い』がある様子。一つ一つ、正して参りませんか?」


 口元を隠す扇をひらひらさせると、氏元殿は険しい顔付きのまま、黙って聞く姿勢に入った。


「まず、左衛門佐殿には武田との仲立ちをお願いします。越庵先生が再び薬師として、甲斐国に迎えられるよう…。」

「お言葉ながら御前様、越庵殿の分限を超えた物言いに、武田は大いに機嫌を損ねております。越庵殿に詫びていただかねば、事は収まらないかと…。」

「越庵先生がお詫びする必要はございません。代わりに、私がお詫び致します。」


 呆気に取られた様子の氏元殿に、私は畳み掛けるように言った。


「今川の御前様は日頃から『足弱』の事を耳に入れ、甲斐の政に心を痛めていた――女子(おなご)の分際で。越庵先生は(あるじ)の意を汲んで口を滑らせたに過ぎない…と、そのように。無論、先生には以後他家のご政道に口を挟む事の無いように言い含めておきます。」

「ご、御前様が責めを負うと申されれば、武田の溜飲も下がりましょうが…なにゆえ薬師(くすし)風情(ふぜい)にそこまで…。」

「ふぜい、など…とんでもない。越庵先生は日の本一の薬師なれば、礼を尽くしても過ぎる事はございません。」


 思わず高ぶりそうになる声色をぐっと抑えて言い返すと、氏元殿は渋々といった感じで押し黙った。


「次に、普請の件ですが…望月屋には五百貫文を与えます。」

「御前様、それでは…。」

「無論、左衛門佐殿に損はさせません。…時に、左衛門佐殿の蔵には武田との付き合いで得た甲州金が数多(あまた)あるとか。」

「な、なにゆえそれを…あ、いや…お耳の早い事で…されど、それがどう…?」


 氏元殿の動揺には気付かない振りで続ける。


「その甲州金を譲っていただきたいのです。無論、相応の対価をお支払いしたいのですが…甲州金一袋につき銭をいかほどお支払いすべきか、左衛門佐殿の見識を伺いたく…。」


 不機嫌そうだった氏元殿の顔に、喜びの感情が混じり始めた事に、私は僅かに満足を覚えた。


「されば、蔵にある内の半分を百貫文で…。」

「二百五十貫文、出しましょう。蔵にある甲州金の一切をお譲りください。」


 氏元殿は一瞬目を丸くすると、床を見つめてしばし考え込んだ。


「…拙者も手元に幾らか置いておきとう存じますゆえ…八割がたを、二百貫文にてお譲り致します。」


 これで氏元殿は駿河では使いづらい甲州金と引き換えに、銭を合法的に入手出来る。それも、当初の計画の二倍の額を、だ。


「最後に、甲州金を武田のお歴々にお届けする手筈を整えていただきたく…。」

「甲州金⁉…拙者が『お譲り』する甲州金を、早くも手放されるのですか?」


 まあ、それが目的だし。


「『私の』分限を超えた振る舞いのため、信玄公を始め、武田の皆様には大変なご迷惑をお掛けしました。せめてものお詫びにと…。」


 要は賠償金、兼ワイロだ。


「…つまり、こういう事になりましょうか。越庵殿は責めを免れ、武田の度量次第では再度甲斐に招かれる。望月屋は五百貫文を賜って普請を請け負う。拙者は蔵の甲州金と引き換えに二百貫文を頂戴する。武田のお歴々は甲州金を受け取る…それで?」

「それで、とは?」

「…恐れながら、御前様の望みが今一つ…一文の得にもなっておりませぬようにお見受け致しまするが…。」


 成程、私のトクになる事項が見当たらない、と。純粋に越庵先生の再入国と医療活動の再開を認めてもらいたいだけなのだが、それでは納得してもらえなさそうだ。

 まあ私も、前世で見たニュースで、政治家が良い事言ったりやったりしてても「人気取りかよ、けっ」なんてぼやいてたクチだし、無理も無いか。


「左様な事はございません。限りある生の間に、功徳(くどく)を積んでおきたく思いまして…。」


 猫なで声で言うと、氏元殿は釈然としない顔付きのまま頭を下げた。


「…かしこまりました。早速手筈を整えまする。」


 おっと、保険をかけておくのを忘れる所だった。

 腰を浮かせかけた氏元殿の前に、折り畳んだ書状を滑らせる。


「…これは?」

「失敬、手が滑りまして…一通り目を通した後、焼き捨てていただきたく。」


 首をかしげながら書状を開いた氏元殿の顔が、驚愕に染まる。それもそのはず、本来ここにあるはずが無い、望月屋と氏元殿が公共事業費の水増し請求について打ち合わせた書状だ。


「同様の書状がもう一通あるのですが…そちらは駿府に戻ってからお願いしようかと。」


 望月屋との癒着をバラされたくなかったら、指示通りに動け。そんな私のメッセージが伝わったらしく、氏元殿は憤怒の形相で立ち上がると、「御前様の心遣い、かたじけなく!」と大声で言い残し、でかい足音を立てながら退出していった。

 …ああ、疲れた。


「御前様、どうぞこちらを…。」


 絶妙なタイミングで百ちゃんが差し出した湯吞を受け取り、カラカラになっていた喉を白湯で潤す。


「ありがとう。…それにしても『功徳を積む』だなんて、我ながら片腹痛いわね。」


 百ちゃんと二人きりという安心感から、自嘲気味に本音を漏らす。

 今の私達を現代風に例えるなら、『紛争地域の支援にやってきたら地元の武装勢力に妨害されたため、戦争犯罪の黙認やワイロと引き換えに活動継続を嘆願するNGO』って感じだ。前世ではテレビ画面越しに同情するだけだったが、今はあの人達の無念さが少しだけ分かる気がする。

 私に転生特典チートとかあれば、日本中の『足弱』を解放出来たかも知れな――「左様な事はございません。」わあ、何だ何だ?

 声のした方に目をやると、百ちゃんがうつむき、震えていた。


「御前様は真に慈悲深きお方、それに引き替え、わたくしは…。」

「百…?」


 百ちゃんは崩れ落ちるように平伏すると、涙声で言った。


「お許し下さい。風魔の里に身を置いていた時分、わたくしも乱取りに加わった事が幾度となく…わたくしも、人に、売り買いされた、身の上でござい、ましたのに…。」


 私は空の湯吞を放り出すと、百ちゃんににじり寄り…思いっ切りハグをした。


「ご、ぜんさま…?い、いけません、わたくしのような者を…。」

「百、落ち着いて聞いて。前も言った通り、忍び働きの(とが)はあなたには無いのよ。」


 五郎殿の真似をして、百ちゃんの背中を優しく叩く。


「此度の事もそう。あそこに忍び込め、とか、何を盗んで来い、とか…命じたのは私。」


 正直罪悪感も半端ないが…百ちゃんに命令した以上、主犯は私だ。

 ばれた時に責められる覚悟は、出来ている…多分。


「だからね、あなたが気に病む事は何も無いの。…安心なさい。」

「ご、ごぜんさ…姫様、姫様ぁぁぁ…。」


 子供のように泣きじゃくる百ちゃんを、私はいつまでもあやし続けた。




 結論から言うと。越庵先生とそのお弟子さん達が甲斐への再入国を認められる事は無かった。

 一方で、信玄公を始めとした武田家の重鎮に送った『賠償金』が功を奏したものか、躑躅ヶ崎館における越庵先生の『失言』は無かった事になり、信玄公からは、これからも今川と交友を深めていきたい旨が記された手紙が届いた。武田と今川の同盟関係にヒビが入る事態は避けられた、という訳だ。将来蒸し返される恐れが無いでは無いが、この手紙があれば反論の材料にはなるだろう。

 …私に出来る事は最早無かった。氏元殿との約束通り、甲州金の代金と普請の資金を提供する事以外には。

 厳密に言えば他にも、氏元殿の機嫌をとるために、「葛山領では何不自由なく過ごせた」という報告を駿府に送ったり、「氏元殿の民を思う心に胸を打たれた」というおべっかを書き記して街角に張り出してもらったりはした。

 それでも氏元殿の機嫌が回復する事は無く、みんな揃って駿府に帰るまでお互い冷戦状態だったのだが、強硬手段に出て来なかっただけ良かったと言えるだろう。

 こうして私は、沼津の時とは正反対に、強い挫折感を味わいながら二度目の『単身赴任』を終えた。

 唯一の救いと言えたのは、武田信玄の嫡男に嫁いだ五郎殿の妹君――私にとって年上の義妹(いもうと)になる――から心のこもった手紙が届いた事だろうか。


「越庵先生を遣わして下さいました事、見舞金に甲州金を用いて下さいました事、太郎殿(夫の武田義信殿の事だ)共々大変有難く思います。」


 この手紙を書いた人物が私に、いや今川家にとって掛け替えの無い存在になろうとは、その柔らかな筆跡にほっこりしていた当時の私には、想像もつかなかったのである。

次回はおっさん(今川治部大輔)とおっさん(北条左京大夫)が飲み会を開くだけの話になる予定です。

面白くなるように頑張ります。

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― 新着の感想 ―
[一言] なんというか主人公が転生者だというのをしみじみ感じさせられるお話だったような。 実家であるところの北条家での動きと対照的な対応に武田らしいと思いはするものの当時の外交に今川がここまで武田に…
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