#123 越後の風、駿河の枝を揺らす(11 months until X-Day.)
今回もよろしくお願い致します。
永禄2年(西暦1559年)6月 駿府 沓谷
産まれたばかりの松平元康殿の嫡男、竹千代殿の将来について氏規兄者と頭を捻ってからしばらく経ったある日、私は駿府館から北東へ少し離れた所にある、沓谷の竜雲寺を訪ねていた。
と言っても、誰かのお墓参りや参拝をしに来た訳ではない。つい最近まで比較的近所にいた寿桂様が引っ越したため、そのお祝いに来たのである。
三代前の当主――氏親殿の事だ――の妻がいつまでも駿府館の近くにいては外聞がよくない、ついては駿府館の鬼門にあたる北東の竜雲寺を終の棲家と定め、余生を送りたい――というのが主な理由だった。見方によっては、この間氏規兄者に励ましてもらった通り、私が今川の御前様としての務めを立派に果たしていると認めてもらえた、と取れなくも無い。
が…根が庶民の私にとって、あれこれ事前に忠告してくれたり、ミスをカバーしてくれたりと、非常に頼れる存在だった寿桂様が遠くに引っ越すというのは、なかなかに心細い出来事だった(一応、今後も寿桂様の親族がサポートしてくれる事になってはいるが)。
心細いと言えば、うっそうとした森の中を、輿に揺られて竜雲寺に向かっている現状もそうだ。
別に仲の悪い相手を訪問するでもなし、周りにはお供の侍女や侍がたくさんいる。雨雲は見当たらないし、天候は良好だ。それでも心細さを拭えないのは、小田原で私の側付きになってからというもの、一時的な離脱期間を除いて常に側にいてくれた百ちゃんが、非常に珍しい事に、進んで辞退を申し出たためだ。
「子細は伏せさせていただきますが…わたくしが沓谷の土を踏む事には少なからず差し障りがございます。願わくば、寿桂様のお許しを頂戴して後に改めて…。」
どうして百ちゃんが沓谷に立ち入るのに寿桂様の許可が必要なのか、いまいち分からなかったが、百ちゃんの意志は固く、辞退を受け入れる他無かった。
特段のトラブルも無く、竜雲寺の境内にある寿桂様の邸宅に到着。側付き侍女のサブリーダー、雛菊を連れて無人の客間に入る。
下座に腰掛け、前の住居に輪をかけて地味…もとい、質素な作りに、寿桂様の懐具合が一瞬心配になるが、各地の所領を放棄したわけでもないし、寿桂様が元株主を務める河東造船も業績好調だし、貯金でもしているのだろうと見当をつけていると、存在感のある足音が聞こえてきたため、お辞儀の準備に入る。
「…殊勝な心掛けですね。」
背後からかけられた声で、寿桂様がやって来た事を確信して平伏する。足音がすぐそばを通り過ぎて上座に向かってから、しばらく経った所で顔を上げると、案の定、寿桂様がいつもの仏頂面で鎮座していた。
「此度は寿桂様の転居がつつがなく運びし事、お慶び申し上げます。ささやかながら身の回りの助けになればとお持ちしました。」
雛菊に合図を送ると、覆いがかけられた贈り物が差し出される。華美な装飾品や金品はNGなので、職人にオーダーメイドで作ってもらった筆記用具だ。
「確かに受け取りました。後で検めましょう。」
これで用事の三分の一は片付いた。
「続いて…京の山科卿からお手紙を頂戴しました。一通は私と寿桂様宛て、もう一通は山科卿の母君、御黒木様宛てにございます。」
「中は見ましたか?」
私は首を横に振って胸元から二通の書状を取り出し、指示を出すまでもなく近寄っていた雛菊に渡した。雛菊は一礼して、かつての主である寿桂様に手渡す。
「山科卿からのお手紙、加えて寿桂様宛てともなれば、余程の大事が記されているものと思い…一切目は通しておりません。」
寿桂様は私の返答に満足げに頷くと、妹――御黒木様宛ての手紙を懐にしまい込み、もう一通を広げて鋭い眼差しを向けた。待つ事しばし、寿桂様は大きく息を吐いて書状を折り畳むと、それを再び私に差し出した。
「あなたも読みなさい。ただし…なにゆえ山科卿がはるばる駿河まで便りを寄越されたのか、その理由をよく考えるように。」
い、いきなり応用問題か…。何となーく嫌な予感はしてたけど。
内心の不平不満を悟られないよう表情筋に気を付けながら、またも雛菊の手を介して手紙を受け取り、広げる。
普段ひらがなを使う女性でも読みやすいように、という配慮からだろうか。漢字主体ではあるが、大きく崩されてはいない、読みやすい文章だった。
肝心の内容だが、私と寿桂様の身の回りを気遣う書き出しに始まり、京であったあれやこれやをグダグダと書き連ね、もしもまた駿府を訪ねる事があればその時はよろしく、といった言葉で締められていた。
「…また駿府を訪れる事があれば、と申されますのは、銭の献上を求めていらっしゃるやも知れない、という事にございましょうか。」
「その点に気付いた事は結構。他に気に掛かった事は?」
えええ、他に⁉前世で国語の点が良くなかった私に、あんまり期待しないで欲しいんだけど…何、山科卿の親族にだけ分かる暗号とか仕込まれてるわけ?
それでも何か言わなきゃ、と手紙を隅から隅まで読み返して…何とかひねり出す。
「越後の守護代殿が上洛し、公方様に謁見、正式に越後守護に任ぜられた、との事ですが…越後から京まで、いかにして上られたのでしょうか?」
越後の守護代、確か長尾景虎の事だ。
越後から京まで、越中、加賀、越前、敦賀、近江とよその大名の勢力圏が存在するはずだけど、どうやって京まで…?
「目の付け所は結構。ですが…気に掛けるべきはそこではありません。」
寿桂様は私の回答にやれやれと首を振ると、例の鋭い眼差しを私に向けた。
思わず背筋がピーンと伸びる。
「長尾殿は今は亡き越後上杉殿に代わって国を治めるお方、ただ挨拶をするために上洛したとは到底思えません。公方様に謁見したとなれば…武田と北条との戦について、後ろ盾を得たと見てよいでしょう。」
…えっ、北条⁉
「ふ、不勉強の程、お詫び申し上げます。長尾殿と武田殿が信濃にて争っている事は聞き及んでおりました。されど…北条と長尾殿に、何の因縁が…?」
長尾景虎――上杉謙信と言えば、武田信玄と戦国時代有数のライバル関係だったはずだ。だからその二人が争うのは分かる。でも、北条と戦う理由が一体どこに…?
混乱する私の様子に、寿桂様は一瞬眉間にシワを寄せたかと思うと、一人納得したように頷いた。
「あなたが知らないのも無理からぬ事かも知れません。山内殿の武威も衰えて久しい…。」
そんな前置きを経て、寿桂様は私に北条と上杉との因縁を解説してくれた。
そもそもご先祖様――北条早雲が、今川家の一門衆という立場から相模、伊豆二か国の主にまで成り上がれたのは、坂東の政治的混乱に便乗する事に成功したから、でもある。
具体的には、関東公方の足利家と関東管領の上杉家が内輪揉めを起こして分裂し、弱体化している隙を突いて勢力を拡大したのだ。
後を継いだ氏綱――私の祖父にあたる――、その子である氏康も原則として同じ路線を踏襲しており、政略結婚を通じて関東公方を掌握、河越城を巡る戦で扇谷上杉氏を滅亡させた後、上野まで戦線を押し上げて山内上杉氏を亡命に追い込んで、事実上の関東管領として振る舞っている…というのが現状だ。
ここで登場するのが、山内上杉氏の親戚筋にあたる越後上杉氏――どんだけあるんだ、上杉の分家――がかつて守護を務めていた越後国だ。
上野から北に国境を越えれば、すぐに越後。ニセ関東管領である北条から坂東を取り返すために、兵を挙げて欲しいと山内上杉殿が長尾景虎に泣きついた――のが、もう五年以上前の事になる。
「なにゆえ長尾殿は山内上杉殿を奉じてすぐに兵を挙げなかったのでございましょう?」
寿桂様の解説が一段落して、最初に私がした質問がそれだった。
なにせ長尾景虎と言えば『義』の武将。よその戦国大名が領土拡大に励む中、義理人情で戦をした稀有な戦国大名のはずだ。
それなのに――北条の娘として認めにくいが――正統な関東管領である山内上杉殿に要請されて、すぐに対応しないとか…やむを得ない事情とか、あるんだろうか?
「越後はかねてより家中の諍いが絶えず、長尾殿も取りまとめに苦心されているとの事。軽々にお膝元を手薄に出来なかったのでしょう。」
長尾景虎と言えば、家臣団を完璧に統率しているイメージがあったため、寿桂様の分析は意外だった。
「されど…此度の上洛により、事情は変わりました。」
寿桂様の言葉に、嫌な予感がする。
「元来、関東管領は公方様によって任ぜられるのが道理。公方様の後ろ盾を得た長尾殿が上野に入れば、多くの国衆が北条に背き、長尾殿の下に馳せ参じましょう。」
そんな…いやまさか、そんな。
「憚りながら、ちちう…北条左京大夫殿の政は、日の本でも類を見ないものと聞き及んでおります。いかに長尾殿に義があろうと、そう軽々に鞍替えをする者は現れないのでは…?」
寿桂様は痛々しいものを見る目で私を見た。
「沼津の事、今川の御前様として申し分無い働きでした。ですが…武家の所領において政を司るのは、領民ではなく、武家なのです。それを見誤ってはなりません。」
寿桂様の言葉に後頭部を殴られたような衝撃を感じ、私はうつむいた。
つまりこういう事だ、民主主義でも何でもないこの時代の日本において、領民がどこの殿様を慕っているかは大した問題ではない。政治、軍事の実権を握っている、侍の意見が優先されるのだと。
…分かって、いる積もりだった。いや、分かっていなかったからショックを受けているのか…。
「…話が逸れました。兎も角、山科卿の手紙から察するに、遠からず長尾殿は山内上杉殿を奉じて兵を挙げ、上野に攻め入るでしょう。…あなたはどうします?」
目をつぶって、深呼吸を一つ。強引に気持ちを切り替えて、寿桂様の言わんとする所を考える。
寿桂様の解釈が正しければ、山科卿がわざわざ私達に手紙を送って来たのは、近況報告を装った情報提供だ。
長尾景虎は、京の将軍のお墨付きを得て、坂東に出兵する準備を整えつつある。それが北条の脅威となる可能性は、極めて高い。
では。
北条の姫であり、今川の御前様でもある私は、どう行動すべきか。
「寿桂様の存念をお伺いしても?隣国の『獅子』が『竜』に襲われんとしている所に、声を掛けて報せるべきか、『竜』の牙が『獅子』に届くのを座して見守るべきか…。」
「…どの道、『獅子』が窮地に陥れば我らも助勢せねばなりません。であれば…一刻も早く『獅子』に報せておくのが利口というものでしょう。」
『母上が嫁いでいるから』『血の繋がった孫を人質に結んだ同盟だから』ではなく、『その方が今川の利益になるから』。…これが戦国のリアリズムか。
「かしこまりました。今日にでも小田原に宛てて文を書き、山科卿より頂戴した便りについてお伝えします。」
「結構。わたくしも太守様にお知らせしましょう。…他に、話したい事は?無ければ、茶を点てましょう。転居に合わせて茶道具を新調しました。」
どうにか及第点をもらえたらしいと気を抜きかけていた私は、大事な要件が一つ残っていたことを思い出し、急いで口を開いた。
「恐れながら、私の側付き侍女の事で、一つ…。小田原より付き従って参りました百なる侍女が、寿桂様の許しなく沓谷に踏み入る事は出来ないと申しておりまして…。」
もも、と呟いた寿桂様は、しばらく虚空に視線をさまよわせた。
「もしや、あの娘ですか。太守様の御前にて御屋形様が倒れられた際に、塩と砂糖を溶いた水を持って来た…。」
え?あの一件、まだ覚えてたの?もう五年くらい前の事だったはずだけど…。
記憶力に驚嘆しながら頷いた私に対し、寿桂様は感心したように長く息を吐いた。
「そうですか。私の許しなく沓谷に踏み入る事は出来ないと…主に似て、律義な事。」
「は…?」
「考えておきましょう。その者にはわたくしからの文を待つよう伝えなさい。」
寿桂様の思わせぶりな返答に釈然としないものを感じながら、私は黙って頭を下げた。
「時に、甲斐の流行病について聞き及んでいますか?」
派手さは無いが高そうな茶器で、点ててもらったお茶を飲んでいると、寿桂様が唐突に口を開いた。
「はい、朧気ながら…甲斐と国境を接する、葛山左衛門佐殿の領国にも流行病に罹った民がいるとか…。」
「では、出立の支度はいかほど?」
会話の前後が繋がらず、首をかしげる私を、寿桂様はきっとにらみつけた。
「先の沼津の一件以来、流行病の事となれば、越庵先生を召し抱えるあなたに任せるのが最善と、家中の誰もが思っています。となれば、遠からず甲斐の武田家や左衛門佐殿からお声がかかるでしょう。…日頃から碁や御世論と同じように、二手、三手先を読んで支度を整えておくのです。」
不意打ちのお説教に、私はお碗を横に置くと、素早く平伏した。
「それと…念を押しておきますが、左衛門佐殿の所領は沼津とは事情が異なります。その事をゆめゆめ忘れないように。」
「沼津とは?それは一体…。」
顔を上げて聞き返すと、寿桂様は今度は呆れるでもなく、痛みをこらえるような顔付きになった。
「沼津はわたくしの所領、それゆえあなたの後ろ盾になる事が出来ました。けれど、左衛門佐殿は一門衆にして駿東の要衝を預かる重鎮。あなたが太守様の名代として乗り込んでも、言い分の一切合財が通るとは限りません。それに…。」
寿桂様が口ごもる。経験上、その理由には見当がついた。本当は言いたい事があるのに、立場か何か、とにかく支障があって言えないのだ。
「…左衛門佐殿は領民から慕われているとの事。面目を潰す事の無いように。」
それだけを搾り出すように言った寿桂様に、私は黙ってお辞儀を返す他無かった。
客間を退出する結と雛菊を見送った寿桂は、にわかに席を立ち、縁側に腰を下ろす。
庭先には、町人風の女が地面に片膝をつき、頭を垂れていた。
「寿桂様。二之丸七緒、見参仕りました。」
「ご苦労様。『知多の藤』の件はどうなっていますか?」
七緒と名乗った女は、険しい顔つきで寿桂を見上げた。
「申し開きのしようもございません。相も変わらず、『今はただ、木瓜紋に忠義を尽くすのみ』と、その一点張りで…。」
「謝る事はありません。使いは無事に戻って来たのでしょう?境目の国衆が二股をかけるのは世の常…大方、己を高く売り込む時期を見計らっているのでしょう。引き続き誘いをかけ続けなさい。」
「ははっ。」
再び頭を下げて服従の意思を示す女に、寿桂は言の葉を継いだ。
「時に…御前様の側付き侍女の一人、百が沓谷への立ち入りを望んでいます。不服があれば、今の内に言いなさい。」
顔を上げた女は、無表情にうっすらと不満を滲ませていた。
「恐れながら…御前様の側付きに専心しているとは言え、風魔の里にいた者を沓谷に入れる訳には…。」
「かの者も、それは先刻承知。それゆえに、わたくしに許しを請うて来たのです。…目付を置いてこの方、かの者が沓谷に踏み入った事は無いのでしょう?」
寿桂の問い掛けに、女はためらいがちに頷いた。
「目付を引き揚げる必要はありません。そのまま続けなさい。ただ…御前様の付き添いとしてであれば、かの者が沓谷に立ち入る事を許しましょう。よいですね。」
「…寿桂様の御心のままに。」
そう言い残すと、女は音も無く姿を消した。
「…本当に、よく気が利く事。」
無人の庭先を見つめながら、誰にともなく、寿桂は呟いた。
「あなた達がいるからこそ、領国は平穏に保たれ、戦を有利に進める事が出来る。けれども…あなた達に謀を重ねさせるわたくしは、あまりにも罪深い。」
西の方角を見据えて、続ける。
「此度の三河、尾張を巡る戦を今川が制すれば…三河一国は今度こそ太守様の手の内に収まる。そうなれば、最早あなた達に手を汚させる事も…。」
そこまで言ってから、寿桂は首を横に振った。
「わたくしも老いた…孫娘に業を背負わせたくないからと、甘えた事を…。」
老女はため息を一つこぼして立ち上がると、客間を後にした。
お読みいただきありがとうございました。




