#121 ミソ、みそ、味噌
昨年告知させていただいた通り、タイトル変更を実施いたしました。
2024年1月25日、加筆しました。
永禄2年(西暦1559年)正月 駿府館
新年を祝う今川家の宴は、当主の年をまたいでの長期滞陣など、よほどの事が無い限り、駿府館にて盛大に催される。
一門衆、宿老、公卿など、今川の中枢とも呼びうる面々が集う大広間にあって、片隅で居心地悪そうにひしめき合う三人がいた。いずれも松平蔵人佐元康の家臣である。
「なにゆえお主のような粗忽者が来てしもうたのやら…。」
うんざり、という言葉を体現したかのような雰囲気をまとってそうぼやいたのは、元康の駿府における側近、石川与七郎数正だった。年齢は数えで27。すっきりとした口ひげ、しみ一つ無い裃と、今川の家中に馴染んだ風の身なりではあったが、固く結ばれた唇が、見る者にどこか神経質な印象を与える。
「何をう。散々申したではないか。岡崎より誰が左衛門尉殿のお供を務めるか、話し合うても相撲を取っても決着せぬゆえ、くじ引きで決めたと。」
下顎を突き出すという奇癖で憤りを露にするのは、大久保新十郎忠世、普段は岡崎に居住する元康の家臣である。年齢は数えで28。一見身なりに支障は無いが、どこか野暮ったい。
「まあまあ二人共、目出度い席で左様に騒ぎ立てては、殿の面目を潰す事になろう。ここは抑えよ、な?」
最後の一人、声を抑えてたしなめるのが、酒井左衛門尉忠次、岡崎衆の筆頭格である。数えで33歳と、数正と忠世の二人より幾らか年長であり、こうした場に出た経験も少なくない事から、晴れ着の着こなしも堂に入ったものだった。
「左衛門尉殿がそう言うなら…しかしのう、今川の宴とはこんなものか。」
「こんなものとは何じゃ、新十郎。」
数正が眉尻を吊り上げるも、主筋の宴会を「こんなもの」呼ばわりした忠世は、またも下顎を突き出した。
「宴っちゅうんは、もっとたらふく米や肴が出て来て、飲んで歌って踊って騒ぐもんじゃなかろうか。それが、酒は猪口にちびっと、肴もよう分からんもんが小皿に乗ってちっとずつしか出て来ぬ。歌も踊りもよく分からぬし…こんな事なら、くじに外れた方が良かったのう。」
「たわけた事を。岡崎と駿府では格が違うんじゃ、格が。」
またも声が大きくなる二人の肩を叩いて、忠次は必死に諫めた。
「分かった分かった。与七郎の申す通りかも知れぬのう。わしら三河者には駿河の風情が合わぬようじゃ。もうしばらく付き合うたら、失礼して殿の屋敷で飲み直そう。…与七郎も、それでよいな?」
「…ようござる。」
渋々ながら引き下がる数正に、忠次はほっと胸を撫で下ろした。
「いかなる仕儀にございましょう?殿の屋敷が使えぬとは…。」
ややあって、今川の一門衆並みの席次にあった元康に許可を求めに伺った忠次は、自身の当てが外れた事に少なからず動揺していた。
「済まぬ。公卿のお歴々が関口刑部少輔殿の屋敷で飲み直したいと申されてな。そのあおりを喰らって…奥も腹が大きくなって参ったゆえ、軽々に退いてもらう訳には行かぬ。」
主君の妻の実家の隆盛と、主君の子の誕生が近いという二つの慶事に、逆に苦しめられるという皮肉に、忠次は唇を噛んだ。
「されど…もしや、あのお方ならば何か妙手を思いつくやも知れぬ。」
「あのお方…?」
「…確約は出来ぬ、しばし待て。」
そう言い残して、元康は席を立つと、上座へと向かった。
大広間での宴会が一段落し、出席者の中から退出する者が多く現れる中、元康とその家臣も席を辞し、駿府館の一角へと歩みを進めていた。
「ま、真によいのですか。我らのごとき者が、今川の御前様のお招きにあずかるなど…。」
先ほどまでの強気とは一転、忠世が卑屈な言葉をこぼす。
「新十郎、物言いに気を付けよ。お招きにあずかったのは殿、我らはその供を仰せつかった…左様にございますな?」
数正の持って回った言い回しに苦笑しながら、忠次は『今川の御前様』の人となりに思いを馳せた。
彼女と顔を合わせるのは、これが初めてではない。三年前の正月、主の元服と祝言の直後に、主筋にあたる今川家の現当主、氏真夫妻に挨拶に伺った際、初めて顔を合わせた。
その際、同席した公卿に松平家の家格をけなされ、場の空気が悪くなったのを誤魔化すために「海老すくい」を踊ったのだが、『今川の御前様』は田舎踊りに気を悪くするどころか、控え目ながら称賛してくれた。そしてそれを呼び水に、元康も「海老すくい」を共に踊ってくれたのだ。
あれは楽しい思い出だった――と懐かしんだのも束の間、近年三河にまで届く『今川の御前様』に関する相反する噂話を思い出し、どちらが真実だろうかと顔を曇らせる。
噂の一方はここ数年来広く知れ渡ったもので、『銭狂いの奥方』というのが彼女の代名詞になっている。毎晩遊興にふけり、駿府市中の商人と金儲けに狂奔しているとか…三河の侍や領民に広く共有されてはいるが、実際に駿府までやってきて実像を確かめた者はいないだろうと、半ば確信している。
要は自己満足だ。三河に駿府のような立派な街が存在せず、相次ぐ内乱で窮乏しているという現実から目を逸らすために、今川の権勢をねたみ、けなして、己の心を慰めようとしているのだ。
…その一方、近頃聞こえて来た噂はそれまでとは正反対のものだった。三河から遠く離れた、駿河は沼津から届いた、『相模御料人』の噂である。
飢饉と疫病に苦しむ領民に心を痛め、安全な駿府から沼津へと単身乗り込んだ『相模御料人』は、寝る間も惜しんで近隣の寺社に祈りを捧げ、疫病を調伏。さらには、米を騙し取り高値で売り払おうと目論んでいた賊を成敗して、沼津を飢饉から救った、などと、尾ひれが付いているとしか思えない風説の数々。
忠次自身は、同一人物に端を発しているはずの、相反する評判のいずれにも懐疑的だったが、一つだけ確かな懸念事項があった。
岡崎の家臣団や領民の間に広まる、『駿河御料人待望論』である。
『今川の御前様』に関する世間の評判が真っ二つに割れているのは先述の通りだが、共通点も存在する。それは、日の本有数の富豪であるという点だ。その印象が波及した結果、元康の妻、瀬名もまた、松平家とは比べ物にならない財産の持ち主と、松平家中や城下の領民に思われている節がある。…早い話、その財力でもって、三河、岡崎に徳政(減税)や普請(公共事業)といった恩恵をもたらしてくれるのではないか、との期待が高まっているのだ。
(気持ちはよく分かる…が、無理だ。)
知らず、眉間にシワを寄せながら、忠次は声にならないうめき声を上げた。
岡崎衆の筆頭格として幾度となく駿府を訪れた経験から、今川家中の内情はある程度掴めている。義元が定めた法度により、家臣のほとんどが株札の所有を禁じられているため、株札の所有者は原則として商人や寺社、人足の代表、そして重臣の親族にあたる女性に限られるのだが、この手法で有徳人になったと言えるのは駿河ではただ二人、友野屋当主の友野次郎と、『今川の御前様』だけだ。
ではなぜ『今川の御前様』が駿府の上流階級から不興を買っていないのかといえば、彼女が儲けを様々な形で気前よく分配しているから、これに尽きる。
『今川の御前様』は両手の指でも数え切れない程の商会の元株主を務めているが、株札の持ち分は少なく、商人や労働者の取り分が多い。公卿や重臣を屋敷に迎えれば、質、量ともに充実した本膳料理と、趣向を凝らした出し物で歓迎する。また信心深さゆえか、事あるごとに駿河の寺社に銭を寄進しているため、檀家や門徒らからも好意的に受け取られている。
有り余る富を持ちながら溜め込まず、世のため人のために用いる――まさに有徳人だ。
それに引き換え、主君の妻である瀬名の実家、関口刑部少輔家の内情はいささか厳しい。聞くところによると、数年前に瀬名が怪しい僧の口車に乗って、見返りの無い慈善事業に関口家の財産を投じてしまい、一時期は借銭を返すために銭貸しに頭を下げる寸前だったらしい。
その窮地を救ったのも『今川の御前様』だったというのだから、驚くやら呆れるやらだ。瀬名の借銭を肩代わりするにとどまらず、無宿人を集めた「駿河人足」なる商会の元株主となれるよう手配してくれたお陰で、関口家の財政も立ち直ったという。
…細々とではあるが、未だに借銭の返済が続いているという点については、『今川の御前様』の性格が窺える所ではある。
とにかく。
主君の妻には、『今川の御前様』のような真似は出来ないのだ。少なくとも、今の段階では。
(こうしてお招きいただいたのも何かの縁、奥方様について良い知恵を貸してもらえぬだろうか。…御前様の助力が得られるのであれば、褌一丁になって水を被ってでも…。)
「御免。松平蔵人佐、殿のお招きに甘えて罷り越した。」
元康の声に意識を浮上させた忠次は、主の背中に衝突する寸前で何とか踏みとどまった。
いつの間にか思考の海に深く潜っていた自分自身に驚いていると、氏真邸の正門の左右を固めていた二人の侍――一方は面長で馬のよう、もう一方は両目の間隔が空いており、牛のような顔立ちをしていた――が息の合った動作で一礼し、正門を開いて元康達を迎え入れた。寒空の下、玄関前にずらりと侍女が並び、これまた息の合った動作で腰を折る。
「「「「松平蔵人佐様、並びにお供御一行様、ようこそお越しくださいました。」」」」
統率の取れた動きに、元康を除く全員が気圧されていると、筆頭格と思しき年配の侍女が中央から進み出て、再度一礼した。
「お話は承っております。どうぞお入りください。」
年配の侍女の後に続くと、元康らが通されたのは畳敷きの客間ではなく、天井から提げられた鍋を囲炉裏の火があぶる、板張りの間だった。
「どうぞ、火に当たってお待ちください。」
年配の侍女がそう言い残して退出すると、四人は囲炉裏を囲むように車座に腰を下ろす。元康の左右に忠次と数正、向かいに忠世という配置だ。
囲炉裏の温もりに一息つく暇も無く、忠世が囲炉裏の反対側の元康に顔を寄せる。
「殿。今からでも遅くありませぬ、大広間に戻りましょうぞ。」
「何を言い出す、新十郎。」
声を殺して窘める数正をにらみながら、忠世は下顎を突き出した。
「かような場所に通されるとは、やはり御前様の悪評は真にございましょう。我ら三河者を田舎者と侮っておるに相違ありませぬ。」
「まあ待て、御前様は左様に器量の小さいお方では…。」
「ご無礼仕ります。御前様のおなりにございます。」
侍女の言葉に内緒話を遮られて、元康達は沈黙した。と、元康の正面、忠世の背後にある仕切りが音も無く左右に開かれ、笛や鼓の演奏が聞こえて来る。
四人が呆気に取られている内に、隣の部屋に姿を現したのは、上等な衣服を身にまとった十代半ばの少女だった。
「御前様…。」
元康の呟きに、忠次、数正、忠世は慌てて身支度を整え、姿勢を正す。そうした中でも楽器の演奏は続き、『今川の御前様』――結は、部屋の中心で扇を開くと、ゆったりとした拍子で舞いながら、唄った。
海老すくい
川に足入れ
魚追えば
水面に映るは
誰の影
舞い終えて腰を下ろした結は、元康らに先んじて頭を下げた。
「お目汚し、失礼をば…。皆様、ようこそお越しくださいました。客間では寒々しいかと思い、こちらに案内させていただいた次第にございます。決してご一同を粗略に思うてはおりませぬゆえ、ご安心を…。」
「あ、そ、こ、それはその、何と申しますか、有難い事で…。」
ついさっき漏らした不満を聞かれていたのではないかと冷や汗を流す忠世に気付かぬ風で、結が両手を打ち鳴らすと、別の仕切りが開き、大勢の女中が手に手に大きな器を抱えて入室した。
「蔵人佐殿は今川に欠かせぬお方、家中のお歴々も同様にございます。此度は趣向を変えて、お好きなものをお好きなだけ取ってお召し上がりいただけるよう、手配りいたしました。囲炉裏の鍋には三河の味噌を用いた汁物が入っておりますゆえ、これも好きなだけ取ってお召し上がりください。鍋が空になり次第、代わりの鍋を厨から持って来させますので、どうぞ遠慮なく。」
見る見るうちに、四人の周りに肴や米びつ、空の碗や箸が置かれていく。
忠世は音を立てて唾を飲むと、媚びるような目付きで結の顔色を窺った。
「御前様の気配りの見事なる事、甚だ感じ入りましてございます。つきましてはその…酒、などもあればなお良いかと…。」
「図々しいぞ、新十郎!」
声を低くして数正が叱責すると、結は先刻承知と言わんばかりに頷いた。
「勿論にございます。こちらは幾らでも、とは申せませんが…東国の銘酒、江川酒を用意いたしました。どうぞお召し上がりください。」
なんだこれは。忠次の脳内は、そんな言葉で一杯だった。
田舎者と軽んじられているのかと思いきや、御前様自ら舞い、唄って…しかもあれは、三河の『海老すくい』を転調したものではないか。
そして、新十郎を始めとしたこちらの不満を見透かしたように、質よりも量を重視したと思しき料理の洪水、そして滅多にお目にかかれない江川酒。
これではまるで、我ら岡崎衆に恩を売るかのような…。
「御前様、これは一体…殿はいざ知らず、我らのごとき者共が頂戴するには、過分のもてなしかと…。」
忠次の心中を代弁するように、数正が恐る恐る問い掛けると、結はその顔に微笑みを浮かべ、ゆるゆると首を振った。
「数年来に渡る三河の大乱、これを収めるにあたり、岡崎衆の皆様の武功、甚だしいものがあったと聞き及んでおります。松平蔵人佐殿のため、三河のため、今川のために力を尽くしてくださった方々を労う事は出来ないものかと案じておりました所に、此度の申し出。どうか思う存分英気を養ってくださいませ。」
結の言葉を馬鹿正直に受け取ったものか、忠世が二度、三度と鼻をすすった。それは、いつものように言葉面の裏を読もうとして果たせなかった、忠次も同様だった。
昨年末、三河から到着した忠世を伴って元康の屋敷を訪問した際、三河の騒乱が鎮静化した事を吉報として報告したのだが、その時の奥方――瀬名の反応が芳しくなかったのだ。
鎮圧の背景には元康が初陣を飾った城攻めの成功もあったというのに、「話し合いで解決する事は出来なかったのか」「同じ松平同士で争う事は無かったのではないか」などと言い出したため、忠次達は大いに困惑した。
元康は、「謀反を起こした連中を捨て置いては、尾張の織田が三河に攻め入って来る事になる」となだめたものの、「ならば、織田殿とも話し合えば良いのでは?」と返されて、閉口していた。万事話し合いで片が付くなら、弓も槍も、刀も要らないというのに、だ。
(だが、御前様は…血にまみれた我らを労うと、そう仰ってくださる…。)
当たり前のはずのその言葉が、今は無性に嬉しかった。
「…では、お言葉に甘えて。左衛門尉、与七郎、新十郎。御前様のご厚情、冷めぬ内に頂戴するとしようぞ。」
元康が乾杯の音頭を取り、優雅とは程遠い宴が静かに幕を開けた。
半刻としない内に、板の間は喧騒に包まれていた。
囲炉裏の火と江川酒で元康達の体が温まるのを待っていたかのように、百姓出身の侍女や下人が隣の部屋に現れ、下手な『海老すくい』を披露。すると忠世が「違う違う、わしの舞いをよく見ておけ!」と乱入し、唄えや踊れの乱痴気騒ぎになったのだ。
「御前様、面目ございませぬ。あの者には後日、厳しく申し付けておきますゆえ…。」
元康の謝罪に、板の間に移っていた結は、手拍子をしながら首を横に振った。
「皆様が楽しんでいただける事こそ肝心、人目につかぬ場にございますれば、心ゆくまで…。それとも、こうした趣向はお気に召しませんでしたか?」
「い、いえいえ、滅相も無い、のう、与七郎。」
「拙者もやぶさかでは…左衛門尉殿?」
数正の怪訝そうな声色に我に返った忠次は、元康のみならず、結にも視線を向けられている事に気付き、言葉にならない声を上げながら姿勢を正した。
「も、申し訳ございません。拙者も大層心地よく…。」
「それは嬉しゅうございますが…何か気掛かりな事でも?」
「…これは殿と関口家の評判に関わる事ゆえ、殿の機嫌を損ねる事になるやも知れぬのですが…。」
忠次の前置きに、元康は大きく頷いた。
「わしに構う事は無い。御前様と言葉を交わすまたと無い好機、無碍にしてはならぬ。」
主君の後押しを受けてなお、忠次はおずおずと切り出した。
「殿の奥方様の事にございます。『相模御料人』の…御前様のごとく、岡崎に富をもたらすものと、城下の領民が心待ちにしております。が…拙者の見る限り、そう容易く事は運ばぬかと…。」
「無礼にございますぞ、左衛門尉殿!」
「いや、与七郎…左衛門尉の申す通りじゃ。」
激昂する数正を、元康がたしなめる。
「奥はよく出来た女子じゃ。早々にわしの子を身籠ってくれた。されど蓄財の才に関しては…御前様の足元にも及ばぬ。」
「恐れながら…それゆえ、御前様に助力を請うて、岡崎を、ひいては三河を豊かにする方策を授かる訳にはいかないものかと…。」
忠次が結の様子を窺うと、彼女は着物の片袖で口元を覆い、物思いにふけっていた。
忠次が、まるで仏像のように動かなくなった結を、まばたきすら惜しみながら見つめる事しばし。
ようやく視線を戻した結の表情は、過酷な託宣を受け取った巫女のようだった。
「申し訳ありませんが…私が三河、岡崎の政に携わる事は、二つの害をもたらすかと存じます。」
囲炉裏周りの剣吞な雰囲気に気付かず、海老すくいを踊り続ける忠世をよそに、元康、忠次、そして数正は固唾を飲んだ。
「一つは、家中の上下について。三河は太守様(義元)が差配されており、蔵人佐殿(元康)はその下で岡崎の治政に臨んでおられます。…駿河、遠江の政を預かる御屋形様(氏真)の、妻である私が三河の政に口を出したとなれば、家中の統制を乱す事になるかと。」
言われてみればその通りだ。
知らず知らずの内に想像の埒外に置いていた、今川家中の力関係について改めて気づかされ、忠次は渋面をつくるしか無かった。
「もう一つは、家名について。一門衆の関口刑部少輔家から瀬名殿を迎えたとなれば、松平の家名は大いに高まりましょう。されど、三河岡崎の政に私が手を貸したとなれば、蔵人佐殿は頼りにならぬと家中領民から侮りを受けるやも知れません。」
忠次はますます渋面になった。
結論から言えば、この件に関して結の援助を受ける事は出来ない、いや出来ない事は無いが、相応の不利益も発生するという事だ。
「されど…考えが無い訳ではありません。」
結のその言葉に、忠次は渋面を解いて目を見張り、一言も聞き漏らすまいと耳を澄ませた。
「一つお伺いしたいのですが…三河、岡崎に何か名産と呼べるものはございますか?魚、青物(野菜類)、細工など、何でも結構です。」
「岡崎の名産、でございますか…ううむ、金が出るでも、銘酒があるでもなし…。」
「みーそ!味噌にござる!岡崎の味噌は美味い!日の本一、美味い!」
「こ、これ、新十郎…!」
真剣に話し込んでいた所に、割って入ったのは赤ら顔の忠世だった。
「…真にございますか?」
「あ、いや…日の本一かと申されますと…他国と風味が異なるとは、思いますが…。」
忠次が歯切れ悪く返すと、結が部屋の一方に目をやった。元康らが視線の先を追うと、侍女が筆、硯、紙が乗った文机を抱え上げ、結の前に置く。
手回しの良さに元康らが啞然としている間に、結は手際よく墨を溶き、筆先を浸して、一瞬考え込む素振りを見せてから、何事かを紙に書きつけていった。
「私にはこの程度の事しか出来ませんが…いかがにございましょう。」
そう言って結が差し出した紙を、四人で回し読みする(忠世は泥酔していたため、ろくに読めない内に取り上げられた)。
『岡崎味噌によりて松平家と三河を富ましむる事
一つ、岡崎の味噌蔵に呼びかけて味良く日持ちする味噌を作らせ、最も秀でたるものを駿府館に献上する
一つ、松平蔵人佐殿の奥方を元株主、右の味噌蔵と友野次郎殿を株主とする商会を立ち上げる
一つ、この商会は広く百姓町人に味噌を売るのみならず、戦の兵糧として城の蔵に納める
一つ、太守様、御屋形様も召し上がられた味噌として東西に広く喧伝する
但し、今川の御前は陰に日向にこれを支える』
「これは…つまり味噌にて財を成すべしと、そう仰せにございましょうか?」
成功する未来が想像出来ない。忠次がそんな懸念を込めて視線を向けると、結はそれを真正面から受け止めた上で頷いた。
「仰る通り、全て思惑通りに事が運ぶとは言えませぬ。されど…他に妙手がございましょうか。」
そんなものは無い、と忠次はうめいた。奇手どころか悪手すら思いつかなかったからこそ、彼女を頼ったのだ。代わって、元康が口を開く。
「ご無礼仕りました。明日にでも、御前様のお指図通りに岡崎に使いを送ります。されど、幾つか確かめておきたい事が…。」
「何なりと。」
忠次から「計画案」を受け取った元康は、紙面を凝視しながら問い掛けた。
「『最も秀でたるものを駿府館に献上する』という条と、『太守様、御屋形様も召し上がられた味噌として』という条が結びつきませぬ。これは一体…。」
「岡崎にて選りすぐられた味噌を駿府館にお届けいただければ、私が厨に持ち込み、太守様と御屋形様にお召し上がりいただく、という事にございます。名門今川の先代、並びに当代当主が口にしたとなれば、遠国より買い求める方もいらっしゃるかと。」
「されど、太守様や御屋形様がお気に召すかどうか…。」
「肝心なのはそこではございません。『太守様や御屋形様が召し上がった』事が肝要なのです。たとえそれが、湯水のごとく薄めた汁物であろうとも。」
結の口振りに、元康は家臣と顔を見合わせた。
「御前様…それはやはり、岡崎味噌は頼りにならぬと…?」
「全ては味噌の出来次第。汁物と申し上げましたのは、物のたとえにございます。」
「…では次に、商会の立ち上げに奥や味噌蔵はまだしも、友野屋殿を引き入れるのはなにゆえ…?」
「友野屋殿の財力と顔の広さを当てにしての事です。他国へ味噌を売る際にも、友野屋殿は頼りになるかと。」
「されど、斯様に儲けが出るかどうかあやふやな話に、友野屋殿が乗ってくれるかどうか…。」
「そこに書いた通り、助力は惜しみません。友野屋殿には私から頼み込みます。必要とあれば頭を下げましょう。」
結の何気ない一言に、元康は目をむいた。
「御前様が頭を下げるなど、何もそこまで…。」
「ご心配には及びません。殿方と違い、女子の首は軽うございますゆえ。…むしろ、瀬名殿が同意くださるかどうか…。」
結の懸念を一蹴する事は、その場の誰にも出来なかった。瀬名が侍、公家、商人といった「上流階級」をよく思っていない事を知っていたからだ。
「ですので。」
結の迷いの無い声に、元康は顔を上げた。
「瀬名殿には、これは三河の貧しい領民を救うための仕儀であると、そのようにお伝えください。さすれば、この件に同意いただけるかと。」
確かに、その理屈であれば、瀬名が納得する可能性は極めて高い。
結によるお膳立てはとっくに済んだ、後は自分達の努力次第――。
「御免仕ります。」
と、そこに、部屋の外から侍女の声が掛けられた。
「関口刑部少輔殿のお屋敷より、北条助五郎(氏規)様がお見えにございます。屋敷が手すきになりましたゆえ、松平蔵人佐様御一行をお迎えに参られたとのことです。」
「相分かった。…日暮れも近い、そろそろお暇いたしましょう。此度は何から何まで、かたじけのうございまする。」
「岡崎味噌の事、上首尾に終わる事を祈っております。皆様、どうぞお帰りの際は足元にお気を付けて…。」
そう言って一礼する結に、元康は万感の思いを込めて返礼した。
氏真邸を後にした元康達は、馬に乗り、氏規に先導されて、関口刑部少輔の屋敷に向かった。唯一、忠世の酔いが酷かったが、結に雇われた薬師の越庵が差し出した薬のお陰で、馬に乗れるまでに回復していた。
むしろ気になったのは、玄関先まで見送りに来た結と、元康ら四人を見た氏規が、思わずといった様子で天を仰いだ事だったが、夕暮れが差し迫っている事もあり、元康は追及を後回しにして帰路を急いだ。
「殿、少しお耳をお借りしたく。」
「いかがした。」
馬を寄せて囁く忠次に、元康は眉をひそめた。
「酔いに任せて、分不相応な夢を見ておりました。御前様が殿の奥方であられたならば、どのようであったろうか、と。」
「…。」
受け取り方によっては、主家への謀反を示唆する内容に、元康は素早く前後を窺った。
前方の氏規、後方の数正、忠世。いずれも、声の届かない位置にいる。
「御前様が輿入れされて間も無い頃、御屋形様が不在の折に御前様をお訪ねした事がある。お傍に寄った所、指一本でも触れれば喉を突くと、そう言われた。…我ながら軽率であった。」
「な…。」
言葉を失った忠次に、元康は悲しげに微笑んだ。
「御前様の御前様たる所以は、御屋形様と固く結びついておられればこそ…御前様なかりせば今日の御屋形様はなく、その逆も然りであろう。…わしも、瀬名とそのような夫婦となりたい。」
「…ご無礼仕りました。先程の失言、お忘れいただきたく…。」
「失言?何か申したか?」
元康がわざとらしく言うと、忠次は深々と首を折ってから、馬の足を緩め、同僚の列へと戻って行った。
「さて…今度は味噌か。次から次へと、なにゆえ斯様に知恵が湧いて来られるのやら。…されど、全ては我らの頑張り次第。気を引き締めてかからねば。」
独り言ちる元康の口から、白い息がこぼれる。それは形を変えながら冬空に立ち昇り、やがて薄くなって、消えて行った。
本年も拙作をよろしくお願いいたします。




