#118 風に吹かれて
今回、スピリチュアルな表現が多々あります。念のため。
なお、2023年12月24日まで、年末年始特別編のリクエスト募集中です。
助五郎兄者と紫吹殿の新婚生活に関する寿桂様の問い合わせからしばらくして、私は五郎殿主催のお花見会に参加していた。
麗らかな日差しの下、お公家様や松平元信、瀬名夫妻など、ごく限られた参加者が優雅にイベントを満喫する中、この日のために建てられた幾つもの小屋の一つで、百ちゃんと二人きり、障子を閉め切って人を待つ。
程無くして、小姓一人を伴って入室したのは、駿河における数少ない近親者の一人、助五郎氏規だった。
「わざわざ足をお運びくださり、かたじけのう存じます。重ねて申し訳ないのですが、大事を話す場なれば、人払いを…。」
助五郎兄者は私の不躾なお願いにも不快感を示す事無く、不安そうに様子を窺う小姓に向かって浅く頷いた。小姓が意を汲んで退出すると、百ちゃんは私と助五郎兄者の前に白湯が入った湯吞を置き、同様に退出していく。
残された私と助五郎兄者は、囲炉裏を挟んで向かい合う。
「本日は、兄上にお伺いしたい事が…。」
「わしは、衆道を嗜んではおらぬ。」
…は?
え、何、どういう事?私、まだ何も聞いて…。
「じゅ、寿桂」
「寿桂様のお屋敷で聞き耳を立ててなどおらぬ。」
まただ。まるで、私の言おうとしている事があらかじめ分かっているみたいに…。
あまりに現実離れした現象に、大声を出しそうになった私に、助五郎兄者は鋭い視線を飛ばしながら「しっ」と短く息を吐いた。
「間も無く殿がおいでになる。子細はその後にいたそう。」
助五郎兄者の「予言」に、私は心中で有り得ない、と叫んだ。
五郎殿は主催者としてお客様の接待にてんてこ舞いのはずだ。要点をぼかしつつ、兄者と二人きりで話す用事が出来たからと、小屋に誰も近付かせないよう事前に頼んである。
五郎殿が来るなんて有り得ない――そんな私の思考を遮ったのは、何かが小屋の壁に当たる、どん、という音だった。
心臓をバクバクさせながら音がした方を見ていると、誰かが早歩きで近付く足音が聞こえて来る。誰が――いや、それが誰なのか、私にはすぐ分かった。
「やはりここであったか!」
息を切らしながら障子を開け放ったのは、公家装束の五郎殿だった。
「結、助五郎、相済まなんだ。蹴鞠をしておったら、公卿の靴が脱げて飛んでしもうた。怪我は無いか?」
「…いえ、私どもは何とも…。」
「先程、壁に何か当たったようにございます。靴はそちらにあるかと。」
「そうか。重畳重畳。…兄妹水入らずの所を邪魔立てしてしもうた。許せ。」
尊大に、しかしきっぱりと詫びると、五郎殿は静かに障子を閉じて去って行った。
「…兄上には、未来が見えるのですか?」
震える声を自覚しながら、それでも私は聞かずにはいられなかった。とは言え、答えは既に出たも同然だ。中途半端な未来知識を元に、予知夢の真似事をして来た私とはレベルが違う。
助五郎兄者は…十中八九、予知能力の持ち主だ。
「…幼い頃より、潮風の声が聞こえた。己も口を利けるようになってようやく、人は人の声しか聞けぬものだと知った。」
答えになっていない昔語りを聞き漏らすまいと、私は神経を集中させた。
「風は多くを知っていた。空模様の移り変わり、魚の群れの在処、遠国の出来事…そして、この先何が起こるか。」
助五郎兄者には、幼少期から未来予知の能力があった。そう聞いた時私の脳裏に蘇ったのは、長兄の天用院殿の葬儀の際、妙に虚ろだった兄者の瞳だった。
「まさか…ご存知だったのですか。天用院殿の天命を…。」
「…亡くなる一、二年前か。『西堂丸が新九郎になるぞ』『半年ともつまいが』…潮風がそう申しておった。わしは懸命に耳をそばだてた。兄上の天命を覆す術は無いものか、と。…風はそれ以上、何も教えてくれなかった。」
嫌な予感が急速に膨れ上がって行く。助五郎兄者が紫吹殿に辛く当たるのも、過酷な未来が見えているからではないか、と。
「兄上、どうかお教えください。なにゆえ紫吹殿を蔑ろにされるのです。」
どこか緊張した面持ちで、兄者は白湯をすすった。
「…その前に、お主に確かめておく事がある。先読みの夢を見る事があるとは、真か?」
私は渇いた喉に生唾を流し込んでから、ゆっくりと頷いた。
私のエセ予知夢の情報をどこから仕入れたか、大体見当はつく。父上や母上、義元殿や五郎殿にも『変な夢を見た』としゃべくったのだから、その筋から漏れ伝わる可能性は十分だろう。
問題は、何故このタイミングでそれを聞くのか、だが…。
「では、問おう。この乱世を収めるのは一人の英傑にあらず。二人…いや三人の英傑が、代わる代わる天下を治めた後、泰平の世が訪れる…相違ないか。」
私の予知夢がどれほど正確か、その確認という訳か。
私はしばらく対応に迷ったものの、可能な限り正直に応答する事にした。今まで誰にも明かして来なかったであろう秘密を明かしてくれた、助五郎兄者の誠意に答えるために。
「…はい。仰る通り、三人の英傑が…。兄上は、その三人の氏素性は…?」
「…分からぬ。」
『潮風の声』も万能ではないと分かり、ほっと肩の力を抜いた私とは対照的に、助五郎兄者は悔しそうに顔を歪めた。
「潮風の囁きは気まぐれで、あやふやな事が多い。先の事になればなるほど、何がいつ、どこで起こるのか…分からなくなる。されど、」
不意に私を捉えた兄者の視線に、心臓を鷲掴みにされたかのような錯覚を覚える。
「『事』が近くなればなるほど、子細が明らかになって参る。誰がどこで何を話しているか、誰の天命が尽きようとしているか。…分かった頃には、もう取り返しがつかぬ。」
天用院殿に、太原雪斎殿。二人以外にも、事前に兄者が死期を悟り、どうにかしようとした時には手遅れだったケースがあったのかも知れない。その心中を思うと、単純に予知能力を羨ましがる事は、もう出来そうに無かった。
「お主の問いに、まだ答えておらなんだな。わしが『聞いた』大事は二つ。一つは太守様(義元)に関わる事。もう一つは関口刑部少輔家に関わる事じゃ。」
私は筆記用具を準備しなかった事を悔やみながら、助五郎兄者の予知を脳裏に刻み込むべく、背筋を伸ばして聞き入った。
「太守様について。今から三年の内に、三河か尾張の何処かにて大戦が起こる。…太守様はそこで討死される。」
「それは!…私が見た逆夢に通ずるものがあるのでは…。」
「左様。されど…例のごとく、いつ、どこで戦が起こるのか、なにゆえそこで戦う事になるのか、いかにして太守様が討死されるのか、それが分からぬ。」
「ですから、私が夢に見た通り…。」
「太守様は、お主の夢を戒めとして胸に刻むと、そう仰せであった。にもかかわらず、天命は変わっておらぬ。それに…。」
一度言いよどんでから、兄者は続きを口にした。
「潮風はこうも申しておった。『治部大輔(義元)の死、天下泰平の礎たらん』とな。」
潮風のお告げとやらの酷薄ぶりに、私は絶句した。
思い返せば、織田信長を主人公とした武勇伝は大抵桶狭間の戦いにおける逆転大勝利から幕を開ける。逆に言えば、桶狭間で信長が義元殿の首を取らないと、信長の天下統一事業が始まらない、という事になるんだろうか?
つまり…そうなると…戦国時代の終結が、史実より遅れてしまう、という事?そんなに重要な合戦だったの、桶狭間?
「太守様については、今はそれしか分からぬ。続いては、関口刑部少輔家についてじゃ。」
パニック寸前の脳内を、深呼吸数回で無理やり落ち着かせる。気になる点は幾つもあるが、今はとりあえず保留して、後で考えるしかない。
私が聞く姿勢になるのを待って、助五郎兄者は再び口を開いた。
「わしは紫吹殿と添い遂げる事は出来ぬ。刑部少輔家は跡継ぎ無く、絶える。」
「お待ちください。」
天下泰平がどうとかよりスケールは小さいながらも、今川家当主の正妻としては到底見過ごせない予言に、私は反射的に待ったをかけていた。
「なにゆえにございますか。衆道を嗜んでおられぬのであればなおさら…紫吹殿を厭うておられるのですか。」
「…そうではない。間に合わぬのだ。」
間に合わない、何に?
「新九郎(氏政)兄上と奥方の間に産まれた男子の事、覚えておろう。」
胸に鈍い痛みを感じながら、私は頷いた。
私が駿府に嫁いでから年が明けて早々に、武田から嫁いで来た義理の姉が妊娠したという知らせが届いたから…もう三年前か。
同じ年の十一月、男の子が産まれたという早馬が来た時は、新しい親族の誕生を喜ぶと同時に、数え10歳で叔母さんかあ…と微妙な気持ちになりつつも、贈り物を寿桂様と相談していたのだが、そんなお祝いムードはすぐお開きになった。次にやって来た早馬が、産まれたばかりの甥っ子の早逝を報告したからだ。
結局、私はお祝いの代わりにお悔やみの手紙を送る羽目になった。
…そう言えばあの時も、助五郎兄者は終始憂鬱なムードを漂わせていたっけ。最初から甥の寿命の短さを察していたという事か。
「あれ以来、新九郎兄上には男子がおらぬ。藤菊丸兄上も、大石家に婿入りして一昨年元服、源三(氏照)を名乗られた。…万が一、新九郎兄上に何事かあった折に、代えがきかぬ。」
代え。代え、かあ。嫌な事を思い出した…じゃなくて、うん。
そうか、北条家の跡継ぎ問題のリスク分散か。
「小田原からの便りに、父上の心痛が見え隠れしておる。一刻も早くわしに戻って来てもらいたいのが本音であろう。」
「されど、刑部少輔(氏純)殿の跡継ぎは…。」
「紫吹殿は月の物が来る前に病に倒れ、わしの子を成す事無くこの世を去る。それでわしと刑部少輔殿との縁は切れる。」
…は?
「わしは北条に戻って家中の何処かより嫁を取る。その間に子を成し――」
「まだ。」
真っ白になった頭とは裏腹に、私の口は勝手に動いていた。
「まだ、お答えをいただいておりませぬ。紫吹殿を厭うておられるのですか。」
「だから、間に合わぬと申して――」
「紫吹ちゃんが嫌いなのかって聞いてんのよ!」
口調が崩れている事を自覚しながらも、止まれなかった。
転生して十年あまり、骨の髄まで戦国の常識に慣れ切った積もりだった。でも、やっぱり私の精神は平成生まれのままだ。夫婦は相思相愛であるべきだ、なんて――現代日本でも当たり前じゃなかった理想像にしがみついている。
でも、ううん、だから…確かめたかった。
助五郎兄さんは、本音では紫吹ちゃんの事なんてどうでもよくて、だから駿河を去って北条に戻る事に抵抗が無いのか。
それとも、紫吹ちゃんとの結婚生活に愛着があって、それでも的中率99パーセントの『潮風のお告げ』に言われたから、渋々諦めようとしているのか。
確かめたい、どうしても。
「…厭うては、おらぬ。」
ややあって、助五郎兄さんが絞り出すように言った。
「紫吹殿を、憎からず思うておる。出来る事なら添い遂げたい、刑部少輔殿の家名を後世に残したいと。されど…」
「『潮風のお告げ』ぇ?それが何だってのよ。大体さっきっから聞いてりゃあ、『半年ともたない』とか、『三年の内に』とか、幅持たせ過ぎなのよ。いまいち自信の無い占い師みたいに、予防線張っちゃってさぁ!」
助五郎兄さんを座らせたまま、行儀作法を無視して室内を歩き回る。
「紫吹ちゃんに、月の物が思ったより早く来るかも知れないじゃない。病気になっても、越庵先生に治してもらえるかも知れないじゃない。新九郎兄さんだって、こないだ娘が産まれたくらいなんだから、またすぐ男の子が出来るかも知れない。…好き放題言ってアフターケアもしない、無責任なお告げを言い訳にするとか、お父さんが聞いたら呆れるに違いないわ。そんな、そんな腑抜けを新九郎兄さんの後釜に据えるとか、こっちから願い下げだってね!」
肩で息をする内に、平静を取り戻した私は、顔から血の気が引くのを感じた。
やってしまった。
普段から意識的にフィルターをかけて当世風に話していたのに、頭に浮かんだ内容をそのまんま口に出してしまった。しかも、遠慮容赦一切無しに。
その場にそそくさと正座して、平伏する。
「…ご無礼、平にお許しを。本日は妙に気が高ぶってしまい…。」
「ふふふ…ははははは…。」
おずおずと顔を上げると、助五郎兄者が笑っていた。
ひょっとすると初めて見たかも知れない、朗らかな笑い方だった。
「やはり、お主は大した女子じゃ。風の声を覆しただけの事はある。」
「『潮風のお告げ』を、覆した?私が?」
心当たりの無い私に、助五郎兄者は目を細めて頷いた。
「…初めて駿河に参った頃の事、憶えていよう。殿の行状が芳しくなかった頃の事…風の声によれば、お主が嫁いでから間も無く、殿は失態を犯して太守様にお咎めを受け、ようやく態度を改める。そのはずであった。されど、お主は瞬く間に屋敷を切り盛りし、殿の性根を改めた。…風の声の申す通りに事が運ばなんだのは、あれが初めてじゃ。」
私が、五郎殿の運命を変えた?
動転する私をよそに、助五郎兄者は続けた。
「流行病の事もそうじゃ。風は言った、東国で大勢の民が命を落とす、と…されど、お主が越庵先生を連れて沼津に行ったお陰で、人死には少なく抑えられた。」
「そんな…どちらも、私一人の力では…。」
「然り。されど、お主がいなければこうはならなんだ。」
その時、ひゅうという音と共に風が障子を揺らした。
助五郎兄者の顔が険しくなる。
「…公卿や一門衆の方々が、酒に溺れてしもうたようじゃ。間も無く宴が終わる、我らも戻らねば。」
そう言って立ち上がると、兄者はまたも私に向かって微笑んだ。
「正月以来の紫吹殿への仕打ち、あれは紫吹殿のためにした積もりであった。子も成せず死に別れるくらいであれば、いっそわしとは離縁し別の男子と、とな。…じゃが、お主の申す通りじゃ。運命はどう変わるか分からぬ。これよりは紫吹殿と過ごす時を、以前のごとく増やして参ろう。寿桂様にも、そのように伝えてくれ。」
「お待ちを!今しばし、お待ちください…。」
今にも踵を返して立ち去りそうな助五郎兄者を、今度は私が必死になって呼び止める番だった。
「よろしかったのでしょうか。正しい運命を、変えてしまって。よろしいのでしょうか。これから起こる運命を、変えようとしても。」
自分が何の気なしに行った事が、歴史を大きく変えてしまう、いや既に変えてしまったかも知れない。そんな不安から解放されたい一心で、私は問いかけた。
「何を申す。お主が先程申した通りではないか。」
まるで憑き物が落ちたかのような、穏やかな声色で、助五郎兄者は言った。
「潮風の声は、絶対ではない。各々(おのおの)の覚悟と力量次第で、運命は変えられる。なれば…正しい運命など、初めから無い。結よ、心のままに生きよ。わしも精一杯、運命に抗って見せようぞ。」
助五郎兄者が退出して間も無く、予言通りに五郎殿からの招集がかかり、私と外で待機していた百ちゃんは、小屋を後にした。
屋敷に帰宅すると、五郎殿は、今日のお花見会が大したトラブルも無く終わったと、嬉しそうに話してくれた。
だが…ひっじょーに申し訳ない事に、私はそれを上の空で聞いていた。勿論、昼間の助五郎兄者との会話が色々と衝撃的過ぎたからだ。
幸い、五郎殿がいつもの気遣いを存分に発揮してくれたため、喧嘩に発展する事は無く、夫婦で夕食を摂り、それぞれお風呂に入って、並んで布団に潜る事は出来た。
けれども私の頭の中では、歴史の流れを捻じ曲げてしまったかも知れない、という答えの出ない問い掛けが、いつまでも、いつまでも渦を巻いていた。
深夜、関口刑部少輔邸。
ひゅう(氏真は太守の器にあらず。)
ひゅう(三か国ことごとく切り取られよう。)
風の音に身を起こした氏規は、隣で寝息を立てる紫吹を見つめながら、誰にともなく呟いた。
「信じておるぞ、結。お主なら天命も覆せる。お主なら、きっと…。」
改めて布団を被る。
氏規と紫吹、二人が目を覚ましたのは、翌朝、ほぼ同時の事だった。
次回から松平元信を中心に話が展開する予定です。