#117 I am not hero.
今回から4回にかけて、1558年編をお送りする予定です。
弘治3年(西暦1557年)12月 駿府館
どんどんつくつ、どんつくつ
どんどんつくつ、どんつくつ
ハァ~相模御料人は百姓の身方
神仏崇めりゃ疫病も失せる~
どんどんつくつ、どんつくつ
どんどんつくつ、どんつくつ
ハァ~相模御料人は百姓の身方
賊を懲らしめ米取り返す~
どんどんつくつ、どんつくつ
どんどんつくつ、どんつくつ…
「…いや、私そんなスーパーウーマンじゃないから…。」
「御前様?何かご所望で…?」
頭痛と耳鳴りを感じながら呟いた私に、やけにくぐもった声が返ってきた事を訝しみながら目を開けると、見慣れた私室の天井が目に入った。
…見慣れた?うん、間違ってはいない、はずだ。
ここは半年近く間借りしていた沼津代官屋敷の客間ではなく、駿府館の、五郎殿と私の屋敷の、輿入れ以来の私の個室。
さっきのお囃子は幻聴。その原因は、帰宅して間も無く発症した風邪によるものだ。
一か月前。
沼津を挙げて開催された秋祭りの閉幕を見届け、帰り支度を進めていた私達は、北条領から戻って来た臼川越庵先生とそのお弟子さん達一行と無事合流。駿河の冬が北国と比べて過ごしやすく、積雪も比較的少ないとは言うものの、年末年始に間に合うように早めに出立する事になった。
輿に乗った私と侍女十二名に、越庵先生とその弟子十名強、小荷駄二十名あまりに加えて、義元殿が手配してくれた護衛の侍およそ百名、駿府から赴任して来た時と同じく、誰一人欠ける事無く――小荷駄の人足は沼津で臨時に雇ったメンバーが多数派なので、完全に同じ顔ぶれとは言えないのだが――東海道を西に向かおうとしたその時、予想外の展開が待っていた。
と言っても、凶事ではない。
私達は当初、来た時同様に、何食わぬ顔でそそくさと沼津を後にする積もりだったのだが、町外れに差し掛かった所で、見送りの群衆に出迎えられたのだ。行列の邪魔にならないよう、街道の左右に控えていたものの、両脇には即席の舞台が組み上げられ、そこで演者が歌ったり踊ったりの大騒ぎだった。
彼らが音頭を取って、見送りの群衆が歌ったのが、先程夢うつつに聞いたお囃子だ。祈禱一発で感染症を撃退し、弱きを助け強きを挫く正義の味方、それが相模御料人…つまり私の事らしい。
馬に乗って見送りについてきてくれていた泰朝殿は、騒動を目にするや恐ろしい勢いでどこかに走っていき、戻って来た時には色々と諦めた様子だった。
「勘吉の仕業にございます。流行病が鎮まったのも、天梅屋から米を取り返したのも、全て御前様のお陰であると…。無論、真実ではございますが。御前様の慎み深さゆえに、あえて触れ回る事無くお帰りになる所でございましたのに…勘吉に口止めをしておくべきにございました。申し訳ございません。」
「お顔をお上げください。大層気恥ずかしゅうございますが…領民に喜んでもらえて、私も嬉しゅうございます。後ほど沼津一帯にお触れを出してくださいませ。皆様のお気持ち有難く頂戴いたしました、と私が申していたと。」
かくして、領民に感謝された事に起因する充実感と、それ以上に、実力以上に持ち上げられる気恥ずかしさを感じながら、私は沼津を後にした。
行きとは逆に、速度より安全を重視する形で、一週間ほどかけて、私達は駿府に入った。
半年ぶりの我が家に帰った私は、待ち構えていた五郎殿に絶え間ないスキンシップ攻勢を浴びせかけられる事となった。
無論、大勢の人目につかない所で、ではあるが…ハグにキス、深夜までのお喋りと、これ以上無いほどダイレクトな愛情表現の連続に、私は夫と長期間会えなかった寂しさが急速に埋まっていくのを感じていた。
「よくぞ、よくぞ無事に帰って来てくれた。会いたかった…会いたかったぞ、結。」
「勿体無いお言葉にございます。…私も、五郎殿にお会いしとうございました。こうして五郎殿の温もりを感じて…仕合せの極みにございます。」
「結…。」
「殿…。」
…幸いにも、と言うべきか。
勢い余って「本番」に臨む事にはならなかった、とここに明言しておく。
五郎殿はどこまでもジェントルマンであった。
体調に異変を感じたのは、翌日、何となく朝食が進まず、義元殿への報告中にもぼうっとしている自分に気付いた時の事だ。もしやもしやと冷や汗をかきながら帰宅し、越庵先生に診てもらった所、長期出張に伴う疲労による風邪と診断されてしまった。
とっさに「毎月恒例のアレ」を装って自室に引きこもったのは、風邪をひいた事実を大勢の人に――五郎殿も含めて――知られたくなかったからだ。感染症対策で沼津に行ったのに、帰って早々病気になったと世間に知られたら、あらぬ疑いを持たれかねない。
幸運にも、前日に濃厚接触していた五郎殿に感染してはいなかった。
かくして、口の堅い侍女数名に看病してもらいながら、ここ数日は寝込んでいるという訳だ。
「御前様、お加減のほどは…。」
「越庵先生も仰っていたでしょう?峠は越えたわ…。先生がいてくれて、本当に良かった…兄上の事もあるし、早く治さないと…。」
息苦しさを感じつつ、侍女にそう返す。やる事は山積みだ、留守中に駿府館で起こった揉め事の後始末、半年もの間代理人に任せていた株主総会の内容の把握、沼津までついてきてくれた侍女と、主人不在の状態で通常勤務を継続してくれた侍女、それぞれの苦労に見合った手当の金額算出…。
…ていうか。今更だけど。
せっかく大大名の娘に産まれて、名門に嫁いだってのに、結局仕事仕事で休んでるヒマなくない?
「…でもまあ、いいか。」
私の仕事で誰かが喜んでくれてるわけだし。前世の、「お前の代わりなんか幾らでもいる」仕事とは大違いだ。
とにかく、今はしっかり休もう。
とっ散らかった思考を繰り返しながら、私は唐突に襲ってきた睡魔に身を任せるのだった。
12月末、どうにか回復を果たした私は、溜まっていた仕事を急ピッチで片付け、義元殿主催の年越し並びにお正月祝賀行事に、滑り込むようにして出席する事が出来た。
弘治4年、正月。
ここで大々的に発表されたのが、私の輿入れに先んじて同盟の人質として北条からやって来た、太助丸兄者の元服。そして兄者が婿入りする形での、関口刑部少輔家の次女、紫吹殿との結婚だった。
兄者は14歳(勿論数え年だ)、紫吹殿は8歳(同じく)になったばかり。現代風に言えば中学生と小学生が結婚する事になるが…。もう正直、「何か問題でも?」って感じだ。
そりゃあ、お互いの意思でお付き合いして、結婚を決められる現代日本に比べれば、自由なんてカケラも無いのは明々白々だ。
だけど、この世界においては、これが「当たり前」なのだ。親の意向、お家の都合で結婚の相手を決められる。
私だってそうだ。年の差八つの五郎殿に嫁いで来た。今川と北条の都合で。
だから――ここからは二人がうまくいくよう、見守るしかない。勿論、可能な限りサポートはする積もりだが。
…さて。
そろそろもう一つの大問題に向き合う事としよう。太助丸兄者の、新しい名前について、だ。
北条助五郎氏規。それが兄者の新しい名前だ。
助五郎は関口刑部少輔家当主、氏純殿の後継者である事を示す仮名だから、まあいい。
しかし…まさか「氏規」とは。なんとビックリ、かつて私が小田原城で暮らしていた頃、姉上達と暇潰しにやった名前当てゲーム――今は亡き兄者、天用院殿が元服する直前の事だ――で挙がった三つの候補の最後の一つだ。
この件が北条に伝わるのも時間の問題だろう。
下総佐倉――今で言う千葉県北部あたり――の千葉家に嫁いだ蘭姉様と、武蔵岩付――現在の東京都と埼玉県の中間くらい――の太田家に嫁いだ凛姉様に、今回の事にも私は無関係だと釈明する手紙を送らなければ…。
今川家臣団を前に硬い表情で挨拶する、助五郎兄者と紫吹殿を見ながら、私はそんな心配をしていた。
永禄元年(西暦1558年)4月 寿桂尼邸
元号が弘治から永禄に変わって二か月が立とうかという頃、私は毎週恒例の『お稽古』のために寿桂様のお屋敷を訪れていた。
暑くも寒くもない、ちょうどいい日和の下、例によって生け花やらお作法やらのおさらいをざっと済ませ、縁側でくつろいでいると、隣の寿桂様がいつにも増して神妙な面持ちで切り出した。
「あなたに聞いておきたい事があります。…助五郎殿の事について。」
ただならぬ雰囲気に急いでお茶とお菓子を飲み下し、居住まいを正すと、寿桂様は、大きく口を開けて息を吸い、ぴたっと口を閉じて鼻から息を吐く、という仕草を二回繰り返した。
「寿桂様?一体…。」
「…失敬。いざ口に出そうとすると、つい…ですが、事は関口刑部少輔家の行く末に関わります。」
まさかまた関口家に危機が迫っていようとは。
一言一句聞き漏らすまいと身構える私に向かって、寿桂様はハッキリと言った。
「助五郎殿は、衆道を嗜んでおられるのですか?」
…は?
衆道?
衆道って…えーと、確か…。
「じゅ、寿桂様。つまり、それはつまり、その。兄上が、その、男性と、く、口吸い(キス)をしたり、と、床を共にしたりしていると、そういった…。」
「わたくしには分かりません。それゆえ、あなたに聞いているのです。」
な、な、なんで?
なんでいきなり、兄上に同性愛者の疑いがかけられてるわけ?
私の内面の動揺を読み取ってか、寿桂様はどこか安堵したようにため息をついた。
「その様子では、小田原では衆道の兆しは無かったのですね。」
「は、はい。されど、なにゆえ突然…。」
私が聞き返すと、寿桂様はようやく事情を明かしてくれた。
助五郎兄者と紫吹殿が結婚して早三か月。二人の新婚生活は初っ端から暗礁に乗り上げている。
周囲の関係者としても、若すぎる二人にすぐ跡継ぎをつくってもらいたいとは思っていない。ただ、朝夕の食事や就寝など、プライベートな時間を共有する事で、少しずつ絆を深めてもらいたい…と考えているのだが、それすらうまく行っていない。
紫吹殿は幼いなりに、父の氏純殿や側付き侍女に言われた通り、新妻らしく振舞おうとしているのだが、助五郎兄者に協力の意思が全く見られないのだ。
夜が明けるか明けないかの早い時間帯にさっさと一人で朝食を済ませ、川へ釣りに行ったり海に泳ぎに行ったり。紫吹殿と朝の挨拶を交わす事はほぼ無いらしい。
昼は武芸や乗馬の稽古に座学、時々お客様の接待や所領関係の事務作業。こうした「公務」は非の打ち所が無いくらいソツなくこなしている。
しかし、夕方になると、今度は港に行って駿河水軍の荒くれ者達と船を出し、模擬戦をやったり、素潜りをしたり、海釣りをしたりと遊び放題。
そして夜遅くまで水軍の水夫達と飲み食いし、紫吹殿が夕食もお風呂も済ませた頃にようやく帰宅して、お風呂を済ませて寝入ってしまう。
正月の結婚以来、ずーっとそんな調子なのだという。
「なにゆえ助五郎殿は、紫吹殿にかように無体な仕打ちをされるのやら…もしや、女子を好いておらぬのではと思い、確かめさせていただいた次第です。」
はあ、と生返事をしつつ、私は助五郎兄者が紫吹殿に意地悪をする理由の手掛かりは無いものかと、記憶を探った。しかしこれといったものが思い当たらない。
考えてみれば私の知ってる助五郎兄者の情報はえらく限定的だ。
武芸、学問に関してはサボりも無く優等生、ただしこれと言ってずば抜けたものは無い。
五郎殿みたいに社交的ではないが、大抵の宴席には顔を出すから人嫌いって訳でもない。
特徴と言えば、海に関するほぼ全てに強い関心と愛着を持っている、という事くらい。
あ、あと、滅多に口を開かないかと思えば突然核心を突いた発言をする、これもあった。
…やっぱり分からない、どうして兄者は紫吹殿をないがしろにするんだろう?
「あなたが何をすべきか、分かりますね?」
寿桂様の問い掛けに、我に帰る。
「わたくしが場を設けます。助五郎殿の心の内を詳らかにするのです。万が一、紫吹殿と添い遂げられないようであれば…。」
離縁もあり得る。
無言の内に発せられたメッセージに、私は深々と頭を下げた。
リクエスト募集、12月24日までです。
お待ちしております。




