#115 沼津米騒動始末
年末年始特別編のリクエスト募集中です。(2023年12月24日まで)
西暦20XX年某月某日 某歴史研究家の研究記録
日本における広義の「戦国時代ブーム」は、遅くとも江戸時代に始まったとされているが、近年は特にその傾向が強いように感じる。政治、軍事、経済、宗教といった切り口のみならず、記録に残る言動から偉人の人となりを分析するものなど、様々だ。
しかし、私の見る限り、その多くは「大きな物語」に依存している。つまり、人口比率の上では武士や公家、僧侶や神職などとは比べ物にならないほど多数を占めていたはずの、百姓、農民、雑兵、足軽といった人々の生活実態を掴む事が非常に難しいのだ。
無論、これにはやむを得ない事情が多数存在する。庶民の識字率が非常に低く、日々の出来事を記録して保管する習慣が根付いていなかった。武士や公家――平たく言えば支配階級――の関心は合戦の勝敗や土地の所有権等にあり、その変動で影響を受ける庶民の生死や生活に興味が無かった。戦闘に伴う荒廃、上級権力の都市計画による移住の強制により人の移動や地名の変更がしばしば大規模に行われた。
細かい理由を挙げていけばキリがないが、ともかく戦国時代の庶民の実相は支配階級のそれより不明な点が多い。このような、まるで月明かりさえない夜の海に漕ぎ出すかのようにして、戦国時代の庶民の生活を解き明かして来た先達にはつくづく敬服させられる。
…前置きが長くなった。本題は先日発見された一次資料、暫定呼称「嵐平寺日記」に関する分析である。本史料は戦国時代の中期から末期にかけて駿河国沼津に存在していたと見られる、嵐平寺の住職の手による日々の記録と推定される。
中でも注目を集めたのは、弘治3年(西暦1557年)から永禄初期にかけて関東で猛威を振るった疫病に対する、住民や今川家の具体的な対応が記録されていた点であるが、今回私が関心を持ったのは、今なお静岡県東部で語り継がれる、「沼津米騒動伝説」に該当する部分である。
人口に膾炙している通説はここでは省くが、「嵐平寺日記」によれば事件の経緯は次のようになっている。
(一)弘治3年の初夏から夏にかけて(旧暦の5月~6月か)天梅屋を自称する野盗が沼津の家々を回り、二月三月の後には倍にして返すと口約束をして、半ば強引に米を持って行った。天梅屋には米を返す積もりは毛頭無く、最初から米価の高騰を見計らって売り払う算段だった。
(二)7月に入ると沼津でも疫病が流行し、嵐平寺を始めとした寺社は病人の介抱を請け負う一方、疫病退散の祈禱に取り組んだ。嵐平寺の貢献もあって、疫病はたちまち収束に向かった。
(三)8月に入り民間の米が払底し始めると、天梅屋に米を預けた百姓町民は一刻も早く約束を履行するよう天梅屋に迫ったが、口約束を理由に追い返された。これに怒った沼津代官の中間、栗田勘吉は同輩と語らって天梅屋の蔵に忍び入り、米百俵を盗み出した。
(四)天梅屋の訴えで沼津代官朝比奈弥次郎(泰朝)が調べた所、勘吉は自身が米を盗んだ事を認め、捕縛された。ただし、米はすでに百姓町民に分配された後だった。泰朝は下手人を成敗しようとしたが、大勢の町人が代官屋敷に詰めかけて抗議したため、思い留まった。
(五)天梅屋の蔵から米が盗まれてから半月後、泰朝が市中に勘吉とその仲間に対する仕置を発布した。内容は死罪を免じる代わりに、米百俵を人力で天梅屋の蔵に返却させるというものだった。発布の翌日、代官屋敷の前に米俵が積まれ、勘吉とその仲間が一日がかりで米を運んだ。道々に町人が押しかけ、勘吉らに声をかけたり、水をかけたりして励ました。
(六)さらに翌日、泰朝が手勢を率いて天梅屋の郎党をことごとく召し取った。前日の仕置は天梅屋の目を欺き、油断させるための策略だった。天梅屋は間も無く米の値が高止まりすると見込んで、機を見て売り払う魂胆だったが、目論見は失敗に終わった。米は元々の持ち主に返却され、天梅屋一党は鋸引に処された。
一見通説を裏付ける内容だが、気になる点が幾つか存在する。
第一に、「嵐平寺日記」に記載されている内容があまりにも具体的過ぎる。問題が顕在化する遥か前、天梅屋が米をだまし取った時点から書き起こしているのは、その時期住民から相談等があったのか、それとも嵐平寺と天梅屋に何らかの接触があったのか。
第二に、「天梅屋の蔵」という記述に改竄の形跡がある。元々の蔵の所有者名を墨で塗りつぶし、横に「天梅屋」と書いているのだ。そもそも、単なる野盗だったはずの天梅屋が、米を百俵も保管できる蔵を保有している事自体が不自然だ。
以上の状況証拠から、幾つかの仮説が立てられる。
仮説その一、天梅屋は単独の商業資本ではなく、株札を介して結成された商会だった。そして株主は天梅屋の他に少なくとも一人、別の商人と、嵐平寺の住職が務めていた。
この仮設の根拠は、当時の商習慣にある。
当時日本全域に広まりつつあった株札(旧日本型株式)の仕組みには、二つの原則がある。
原則その一は最低限三者で株札を持ち合い、一者の保有比率を50パーセント未満に抑える事。これは些細な揉め事が実力行使に発展する事も珍しくなかった当時において、商会の経営に少なくとも二人の同意が必要となるルールとする事で、紛争を回避する工夫と見られている。
原則その二は議長権限を保証する株札、通称元株の所有者を、大名の血縁者や住職、神主など、社会的地位が高い人物とする事。これは目的の商業行為に必要な土地や権限を融通してもらい、配当金の一部を譲渡するのと引き換えに、対抗勢力の妨害や商会内部の問題を解決する事を期待しての措置とされる。
以上の二大原則を踏まえて想像するに、天梅屋は嵐平寺を名目上の元株主に仰ぎ、従前より沼津に蔵を構えていた別の商会を巻き込んでいたのではなかろうか。もしこの仮説が正しければ、天梅屋が米を保管する蔵を用意出来た事にも、沼津代官が天梅屋一味を捕縛する意思を持ちながら大袈裟なパフォーマンスで天梅屋を油断させようとした事にも、説明がつく。
そしてそれは、次なる仮説につながる。
仮説その二は、朝比奈泰朝が、天梅屋に蔵を提供していた商会と嵐平寺との間で司法取引を交わしたというものだ。
泰朝は強引に天梅屋を摘発する事も出来たが、元株主である嵐平寺を敵に回す事を避けようとした。そのため、何らかの裏工作を施し、合法的に天梅屋を解体、つまり嵐平寺と蔵の持ち主を経営から排除した上で、本丸に取り掛かったのではないだろうか。
その結果、当初は天梅屋の一味として違法に入手した米の売却で財を成そうとした嵐平寺は、疫病対策への貢献を今川家に承認してもらう方針に切り替え、天梅屋と縁を切った。蔵を提供していた商会も手を引いた。孤立した天梅屋は処刑され、嵐平寺は自身と蔵を提供していた商会が関与していた箇所を日記から抹消した。そのように想定出来る。
…筆が大いに滑った自覚はある。明確な証拠も無く、状況証拠のみで理論を組み上げた所で、史実を明らかにした事にはならない。
ともあれ、「嵐平寺日記」に登場する庶民の活力溢れる様子は、武士同士の書状のやり取りや、公家の日記――「言継卿記」のような例外は除く――からは読み取れないものばかりだ。
今後の日本中世史研究に、大きな役割を果たす事になるだろう。
弘治3年(西暦1557年)8月 駿河国沼津 代官屋敷
天梅屋が一斉検挙された翌日、私は代官屋敷の一室にいた。
上座に私と泰朝殿、下座には本膳料理を前に胡坐をかく勘吉さん。
大きく開けた障子の向こう、抜けるような青空から気持ちのいい風が吹き込んで来る。
「いやあ美味い!これは美味い、こいつも美味い!御前様のお心配りが身に染み渡りまさぁ!」
食べかすを飛ばしながら質より量重視の本膳料理を掻き込む栗田勘吉さんを見て、こみ上げる衝動のままに、私は笑った。
生憎と言うべきか、当然と言うべきか、隣の泰朝殿は頭痛をこらえるように額に手を当てて俯いている。
「弥次郎殿、勘吉殿、此度の芝居にお付き合いいただいた事、誠にかたじけのう存じます。」
浅く頭を下げると、勘吉さんは口の中の食べ物を一瞬で飲み込み、白湯を一気飲みしてから深々と頭を下げた。
「勿体無えお言葉。こんなに後腐れ無く片を付けていただけるってんなら、弓削屋の蔵に盗みに入る前に御前様にご注進申し上げりゃあ良かったってもんでさ。」
「不敬なるぞ、勘吉。お主程度の者が、軽々に御前様にお目通り願える訳がなかろう。」
「それよりも、勘吉殿。後腐れ無く、と仰いましたが、嵐平寺と弓削屋はお咎め無しとした事、真に不服はございませんか?今更ではありますが…。」
米の所有権を巡って繰り広げられた、この数日間の攻防を思い返しながら、私は訊いた。
勘吉さんと初めて牢屋で会ったその日から、私は泰朝殿と百ちゃんが集めた情報を元に天梅屋の分析を行い、お米を取り返すための作戦を練った。
その結果、天梅屋の株札は嵐平寺が元株含めて四枚、弓削屋が二枚、天梅屋本店が四枚保有している事が判明。天梅屋本体を違法な団体として摘発するためには、まず株札を保有する嵐平寺と弓削屋を切り崩す必要があるとの結論に達し、両者の説得を私が、天梅屋の目を引き付けるパフォーマンスを泰朝殿と勘吉さんが担当する事になった。
町のど真ん中で、勘吉さんとその仲間が米百俵を自力で運ぶという「刑罰」に服している間に、私はまず嵐平寺の住職と面会した。二枚の書状をちらつかせながら迫った時の住職の表情は、かすかな不快感とともに今でも思い出せる。
「こちらの書状には、嵐平寺の皆様がいかに流行病を鎮めるために馳走してくださったかが書かれています。一方、こちらには近頃聞いた雑説が。嵐平寺が野盗の後ろ盾となって、沼津の領民を苦しめているとか。まさかそのような事は…ございませんよね?」
精一杯余裕ぶってはいたものの、青筋を浮かべてこちらをにらむ住職の気迫に、内心ではビビりっぱなしだった。
結局、住職が翌日の株主総会で元株、つまり最高議決権を泰朝殿に譲渡する事を確約してくれたため、私はその場で嵐平寺に不利な方の書状をビリビリに破いて火にくべた。
しかし次に面会した弓削屋の店主の反応は、ある意味全くの予想外だった。
「お許し下さい!嵐平寺の住職の口利きであれば、まさか無法に米を集めて来るとは夢にも思わず…ここに、連中が集めた米の目録がございますゆえ…何卒、何卒お目こぼしをおおお!」
二十歳になるかならないかの青年が釈明と土下座を繰り返す有り様に啞然としながら、天梅屋がどこの誰からどれだけのお米を掠め取ったかを記録した目録を受け取った私は、弓削屋の店主に、翌日の株主総会で元株主の交代と新しい元株主の提案に全面的に賛同するように言い含めて帰した。
そして翌日、つまり昨日。米を売り払う手筈の確認と前祝いを兼ねて、株主総会が開かれる料亭に天梅屋一味が雁首揃えて入店した事で、勝敗は決した。
まず、株主総会の冒頭で、嵐平寺の住職が元株主の交代を提案し、弓削屋が同調。六対四で可決され、大勢の部下を引き連れて入店した泰朝殿が新たな元株主になった。
いそいそと店を出る住職を尻目に、泰朝殿が米百俵の元の所有者への返却と、天梅屋の解散を提案。これも六対四で可決される。
あとは後ろ盾を失った野盗を窃盗、強盗、詐欺、盗品売買の容疑で捕縛しておしまいだ。
…軽く言ってみたものの、悪人とはいえ他人をだましたり脅迫したりしているという罪悪感、それに最後の最後まで事が上手く運ぶか分からないという緊張感は、正直非常に辛いものがあった。
それに輪をかけているのが、主犯を確実に捕らえるために、共犯である嵐平寺と弓削屋を見逃したという現実だった。
「不服なんてとんでもねぇ。何度でも申し上げまさぁ、御前様の仕置の見事さたるや、何度礼を言っても足りねえくらいでさ。」
勘吉さんの言葉に顔を上げると、そこには牢の中とは打って変わって、人好きのする笑顔があった。
「嵐平寺の住職が欲深なのは今に始まった事じゃねえ。弓削屋の店主はついこないだ店を継いだばっかりで、そこをつけ込まれたんでさ。此度の天梅屋の悪行によって困窮する百姓町民を救うため、あっしと御前様が合力する。御前様は起請文の通りにしてくださった、それで十分でさ。」
勘吉さんはそう言うと、懐から紙を取り出して差し出した。室内で待機していた百ちゃんが受け取り、私の元に持って来る。
それは、ついこの間交わしたばかりの起請文だった。
「よろしいのですか?これは勘吉殿が天梅屋の成敗に尽力した証、勘吉殿がお持ちの方が…。」
「天梅屋の始末はもうついたも同然でさ。もうその起請文はあっしには無用、御前様の気の済むように取り計らってくだせぇ。」
屈託なく笑う勘吉さんの姿に、私は、彼が町人から慕われている理由を、今度こそ完全に理解した。…積もりだったのだが。
「…ところで勘吉、五百貫文の借銭とは何の事だ。」
泰朝殿の言葉に、勘吉さんの笑顔が引きつった。
「借銭?勘吉殿がですか?」
「以前にも申し上げました通り、こ奴は銭遣いが荒うございます。先日押しかけた町人の中に、こ奴が掛け銭(ツケ払い)を返さぬ内に死なれては困る、と申す者がちらほら…。」
私はズッコケそうになるのをぐっとこらえた。
「は、はは、は、いやあちっと博打で負けが込みやして…あのぅ、御前様。ここは人助けと思って、ちいっとお恵みくださいやせんかね、百貫文ほど…。」
「たわけ!身から出た錆であろうが!お主の借銭を肩代わりする御前様の迷惑も考えよ!」
「そ、そんな殺生な!一昨日だって、あっしが五十俵運んだから日が暮れる前に終わったんですぜ⁉褒美と思って…。」
「形ばかりとは申せ、お主らへの刑罰であろうが。何俵運ぼうが褒美は出せぬ。」
そんなぁ、と嘆く勘吉さんの涙目に、呆れると同時に、何とかしてあげたいという思いに駆られた私は、ついこの間泰朝殿から相談された事案を思い出して口を開いた。
「では、次は刑罰ではなく、催し物として執り行ってはいかがでしょう。」
目を丸くする二人に、私は思い付きを何とかそれらしくなるように考えながら説明した。
泰朝殿から相談されたのは、沼津で開催するお祭りについてだ。沼津の人口増加は遠方からの移住による所が大きく、人心をまとめるための行事として、大規模な祭りを開催したいというものだった。
既に沼津の寺社や有力商人、農村の有力者達と協議して、米の収穫が終わった直後に秋祭りを開催する方向で話が進んでいるのだが、ここに新たな催事を追加する。それが、勘吉さんが借金を一括返済出来るビッグチャンス、俵担ぎ競走だ。
「より多くの米俵を、より早く運んだ者を勝ちとする。沼津一の力自慢を決めると銘打てば、駿河水軍の水夫や造船所の職人なども参加するのではないでしょうか。そして、一等には五百貫文、二等には三百貫文、三等には二百貫文などとすれば…。」
「し、しばしお待ちあれ。左様な、勘吉の借銭を返すためのごとき催し…町人に見透かされはしませぬか。」
泰朝殿のもっともな疑問に、私は大きく頷いた。
「仰る通りです。そこで、ですが…勘吉殿は一人で、他の者は徒党を組んで臨む、というのはいかがでしょう。」
「何と、それでは勘吉の勝ち目が…。」
「いいや、代官様。そうでもありやせんぜ。」
いつの間にか落ち着きを取り戻した勘吉さんが、虚空をにらみ、顎を撫でながら言った。
「確かにあっしも十人がかりで来られりゃ難儀するが…人数が増えれば勝った時の取り分が少なくなる。そう考えりゃ、そう大勢で徒党は組めねえはずだ。」
素早く算盤をはじいた勘吉さんは、自信満々で胸を張った。
「よっしゃ、御前様、ありがとうごぜえやす。これで今年の借銭は無くなったも同然よ。何百人来ようが、あっし一人で返り討ちにしてやりまさぁ。」
「また減らず口を…と言いたいが、お主であればあるいは…はぁ、御前様。重ね重ね申し訳ございませんが…。」
泰朝殿の言いたい事を察した私は、先回りして口を開いた。
「承知しております。そもそも言い出したのは私ですから…。賞金一千貫文の内、五百貫文は私が都合いたします。…それと、これは弥次郎殿のためにもなると思っての事なのですが…。」
数か月後、沼津一帯を挙げての秋祭りが開催され、その進行を、私は関係者席から見守った。沼津の百姓町民は流行病の収束を祝うと同時に、来年の豊作を願い、歌って踊って、飲んで食って、大いに売り買いした。
そして最終日、大通りで開催された『俵担ぎ競走』を制したのは、やはりと言うべきか、たった一人で出場した勘吉さんだった。一等から三等までの参加者に賞金を保証する証文が手渡されると同時に、沼津代官である泰朝殿が手ずから清酒を注いで回ると、見物人は大いにどよめいた。
祭りが終わってしばらく後、私は二つの噂を聞いて胸を撫で下ろした。
『栗田勘吉が五百貫文を博打につぎ込もうとして、目付の鋳形と太原に止められ、泣く泣く借銭の返済に充てた。』
『代官様が勘吉らに一度米を返させたのは、立場上やむを得ない事であり、本意では無かった。』
沼津に来たばかりの忙しかった日々が噓のように、秋の空を眺める事が増えたと感じる。
駿府に帰還する時が、近付いている。
リクエストお待ちしております。




