#111 女二人、駿府大手の茶店にて
まず始めに、投稿が遅くなり申し訳ございません。
また、誤字報告をいただきながら修正が間に合わず、申し訳ございません。
私生活との関係上、諸々遅れております。
出来る範囲内で随時行って参ります。
弘治3年(西暦1557年)正月の寒空の下、駿府の街中に一際賑わう一角があった。
身なりの整った武士や町民が出入りするのは、大店と言って差し支えない装いの、茶店である。出入口の両脇には、駿府市中の茶店が今川の若奥様――夫が今川の家督を継承したため、今や『御前様』であるが――結と豪商友野屋の力を借りて立ち上げた飲食チェーン、『茶店一揆』の幟がはためいている。
「小春さん、本日は誠にかたじけなく存じます。」
店内の一室、簡素な椅子に腰掛けて頭を下げたのは、結の側付きの一人、新米侍女の雲雀だった。
「いーのよ、そんな堅苦しい。あんたが屋敷に務めて一年、あたしが休んでる間も御前様を支えてくれたじゃない。あたしがこうして他人に奢るなんて滅多に無い事なんだから、遠慮なく頼りなさいな。」
机の向かいでひらひらと手を振ったのは、小田原から結に付き従って来た側付きの一人にして雲雀の指南役、小春だった。
「けれど、『大手口の一揆茶店』で、焼き立ての『今川焼』を食べられるだなんて…本当に夢のようです。」
「あたしも初めてよ、ここ入ったの。茶店一揆は贔屓にしてるけど、ここは格が違うわよね。」
『茶店一揆』がここに店を構えたのは半年前、新たな客層を狙っての事だった。
代金さえあれば誰でも入店出来る点においては、他の加盟店との違いは無いが、店内に厨房を構え、目玉商品である今川焼さえ焼き立てを提供可能とあって、事実上富裕層御用達の店になっている。
今や駿府の町人の間では、『大手口で茶を飲んだ』と言うだけで周囲に自慢出来るほどのステータス的存在と化していた。
「私、本当に果報者です。御前様にお仕え出来て、本当に…本当に…。」
涙声で鼻をすする雲雀に、小春は顔をしかめると、右手の人差し指で後輩の額を小突いた。
「痛いっ。」
「ぐずぐず泣かないでよ、せっかく楽しいお出かけだってのに。何か不服があるってんなら、聞いてあげるから。」
「い、いいえ!真に今の務めに不服などありません!ただ…。」
「お客様~。ご注文の品をお届けに参りました~。」
雲雀の釈明を遮ったのは、盆を抱えた女性店員だった。
「…ああ、ありがと。並べて頂戴。」
「かしこまりました~。」
小春の了承を得て、店員は笑顔のまま盆から机の上に、淹れたての茶が入った碗と今川焼が乗った皿を二組並べると、一礼して去って行った。
「…冷める前に食べましょ。」
そう言って今川焼を頬張る小春に、雲雀も続く。暖かく賑やかな店内で二人、無言で咀嚼する事しばし。半分ほど食べ終えた所でようやく「美味しいです」と、雲雀が呟いた。
「以前お仕えしていたお方からも、時々お菓子をいただいたんです。雲雀は頑張ってるわね、って。それがもとで同室の妬みを買って、櫛を隠されたりして。侍女頭に言っても我慢するように言われるだけだったから、私、直に訴えたんです。前の姫様に。そうしたら皆を集めて、私への嫌がらせをやめるよう言って、くれたんですけど…結局何も変わらなくて…。」
かつて関口刑部少輔の屋敷に務めていたという雲雀の経歴を思い返しながら、小春は茶をすすった。
「…あのさ、あたしもやってたんだ、新参いびり。」
信じられないという表情で見つめ返す後輩に苦笑しながら、小春は続けた。
「小田原にいた頃ね。御前様の父君(北条氏康)の口利きで一人入ったの。瘦せぎすの大女、分かる?…そう、百。陰気で無愛想だからさ、他の子とつるんで嫌がらせしたの。…結局御前様に見抜かれちゃってさ、お梅さんからお小言もらっちゃった。」
「百さんとは、今は…?」
「許してもらえた、一応ね。もうどうでもいいってのが本音だろうけど。」
また二人、今川焼を頬張り、茶をすする。
「…御前様にお仕えしてから、ずっと不思議だったんです。どうしてお屋敷にはこんなに諍いが無いんだろうって。」
「あるわよ、諍い。表沙汰になってないだけで。」
え、と虚を突かれた雲雀に、小春はけらけらと笑った。
「こんなに大勢務めてるんだから、諍いの一つや二つや三つや四つ、無い方がおかしいでしょ。小田原にいた頃からあったわよ。」
「…御前様はどのようにして…。」
「諍いを収めたかって?色々あるけど…一等大切な事は、あたし達の名前をしっかり覚えて、揉め事の仲裁にも正面から取り組んでくれたから、かな。」
茶の入った碗を揺らしながら、噛み締めるように。
「市中では松平様の奥方は慈悲深く、御前様は欲深いって専らの噂よね。でも、あたしはそうは思わない。本当の欲深だったら、あたし達のために布団や薪を買い揃えてくれる訳無いし、ちょっと具合が悪いからって越庵先生に診てもらえる訳も無い。…多分さ、御前様とあたし達じゃ見えてるものが違うのよ。友野調薬の事と言い、この店と言い、さ。自分は儲かる、あたし達も助かる。あたし達じゃ逆立ちしたって出来やしないわよ、こんな真似。」
「…そうですね。私もそう思います。」
それきり二人は口を閉じ、ひたすらに今川焼を頬張った。
やがて最後の一かけらが口の中に消え、茶を飲み干すと、どちらからともなく微笑み合う。
「美味しかったです、本当に。」
「確かに美味しかったけど…これで帰るのはちょっと勿体無いわね。お茶とお菓子を追加でお願いしましょ。」
「え、そ、そんな、そこまでお世話になる訳には…。」
「その代わり!屋敷に持ち帰るお菓子のお代はあんたが支払って頂戴。…一等安いのを箱一杯でいいからさ。みんなに媚びを売っておくいい機会だと思いなさいな。」
「あ、あはは…はい!喜んで!」
それから小春と雲雀の二人は、続々と運ばれて来る茶を飲み、菓子をついばみながら、とりとめのない会話に興じた。
「御前様っていつも穏和なお方ですけど、怒った事あるんでしょうか?」
「あーまあ、滅多に怒らないわよね。表に出さないだけかも知れないけど。でも本気で怒らせるとそれはそれは恐ろしい事になるから、用心なさい。」
「…例えば、どんな…?」
「あー…あんたが入る前の事だったわね、そう言えば。下人の中にさ、屋敷の物を盗んで他所で売ってた奴がいたのよ。紙とか筆とかね。」
「どうして盗みが分かったんですか?」
「御前様は昔っから筆まめなお方なのよ。嫁いですぐに目録を作って、屋敷のどこに何が幾つあるか、いつ誰が幾つ使ったか、分かるようにしてあったの。それで誰が盗っ人かすぐに分かってさ、給金に不服があるなら働き次第で加増するって御前様も仰ったんだけど…結局盗み癖が治らなかったのよね、その下人。それで暇を出されたの。」
「それから、その方は…?」
「『駿河人足』の預かりになったって聞いたけど、その後は分からない。心を入れ替えて真っ当に働いてるのか、また何かしら盗んで追い出されたか…まあ、これ以上御前様のお心を煩わせないで欲しいってのが、正直な所よね。」
「先ほどのお話もですけれど、御前様を見ていると時々、そのう…。」
「大大名の姫君とは思えない、って?…安心なさい、みんな口に出さないだけで、薄々勘付いてる事だから。」
「は、はあ…。」
「あたし達の世話や外付き合いには惜しみ無く銭を投じる割に、無闇矢鱈と着飾ろうとはなさらないのよね。それに知ってた?殿(氏真)は毎食新米だけど、御前様はあたし達とおんなじ、古米を召し上がってるのよ。古い方から食べないと悪くなるからって。」
「し、知りませんでした。それに、膳をお残しになった所を見た覚えがありません。」
「あれで我慢してる風でもないの、本当に不思議よね。…でも、存外ご先祖様の血を濃く引いてらっしゃるのかも。」
「ご先祖様?」
「御前様の…ひいお祖父様?一代で伊豆、相模を攻め取った豪傑らしいんだけど、すごい吝嗇だったらしいのよ。そうやって蓄えた銭を、ここぞという所で惜しみ無く使ったんですって。」
「じゃ…じゃあ、もし御前様が男子に産まれていらしたら…。」
「今川に輿入れする事も無く、あたし達が出会う事も無かったわね。…ちょっと、むくれないでよ。御前様は殿をお支えする、あたし達は御前様をお支えする。それでいいじゃない。」
「いやー、よく食べてよく飲んだ。」
日が傾く空の下、『一揆茶店』の暖簾をくぐった小春は自身の腹をぽんぽんと叩いた。
「小春さん、本日は本当にありがとうございます。」
両手に包みを提げて続いた雲雀が頭を下げると、小春は一瞬考える素振りを見せてから片手を差し出した。
「一つ持ってあげるから、寄越しなさい。」
「え、でも…。」
「この調子じゃ夕餉が入りそうに無いから、ちょっと体を動かして空かせておきたいの。」
そう言うや否や、小春は半ば奪い取るように包みの一方をもぎ取った。
「さ、日が落ちる前に屋敷に帰りましょ。明日も早い事だしね。」
「…はい!」
駿府館に向かって歩き出す小春の背を追って、雲雀も歩き出す。
その心中は混じりっ気無しの幸福感に満たされていた。
(世が乱世だなんて、とても信じられない。日々の務めや稽古は大変だけど、毎日の暮らしに不服は無いし、給金もお休みも十分いただける。こんな仕合せな日々がずっと続いてくれれば――)
ふ、と。
一瞬で夜になったかのように、突然暗くなった視界に、雲雀は反射的に空を見上げた。
しかしそこにあったのは月ではなく、分厚い雲に隠れた冬の陽射しだった。
「どーしたの?さっさと行くわよ。」
怪訝そうな声に我に返った雲雀は、慌てて小春の後を追う。
やがて雲が通り過ぎると、寒々しい日光が再び往来を照らし出した。
行き交う人々の中に、その一瞬を記憶に留めた者は、誰一人として、いなかった。
お読みいただきありがとうございました。