#108 義母と息子のブルース
今回もよろしくお願い致します。
私は今、前世込みでトップクラスの驚愕に見舞われている。
何せ目の前では、朝廷より直々に派遣されて来たお公家様である山科権中納言内蔵頭言継卿が、それはそれは見事な土下座を披露しているからだ。
ただし、それは私に向けられたものではない。
無位無官の自称薬師――臼川越庵先生に対して、である。
ここに至るまでの経緯を振り返ってみよう。
今日の昼頃、満を持して山科卿とその母君、御黒木様――寿桂様の妹君でもある――を屋敷にお迎えしたものの、幸先が良いとは到底言えなかった。
山科卿は今年で50歳、年齢と肩書の割に筋肉質な体型で、公家ではなく、一線を退いて髭を整えた武士である、と紹介されても納得出来る風貌だったのだが、その健康的な外見とは裏腹にやたらと陰湿で攻撃的だった。門の構えから侍女の並びのちょっとした乱れ、挙句の果てには雲が一瞬太陽にかかった事まで私達の落ち度と見なされてしまい、あれこれ用意した催しは鼻で笑われ、厨人達が腕を振るった本膳料理はほとんど手付かずで突き返されてしまった。
僅かな期待を込めて、山科卿と並んで上座に腰掛ける御黒木様に視線を飛ばしてみたものの、彼女は終始うつむき加減で、息子に何ら進言しようとはしなかった。
これはやってしまったかも知れない。
五郎殿と下座に並んで座りながら、義元殿と寿桂様へのお詫びの文句を考えていると、大広間の襖が音を立てて開かれた。反射的に視線を向けると、そこに立っていたのは我が家の衛生と健康の責任者、臼川越庵先生だった。
「御免、どうやらお加減を見ねばならぬお方がいらっしゃるものとお見受けしましたゆえ。」
大事な宴席に部外者が乱入するという事態に、真っ白になった私の脳を正常に戻したのは、食器が床に落ちた時の特徴的な音だった。音源である上座に視線を戻すと、そこには盃を取り落とした体勢のまま、目と口を限界まで開ききった山科卿がいた。
「な、な、な、な、な…。」
「案の定にございますな。さあ、こちらへ。」
突然挙動不審になった山科卿に、越庵先生はずかずかと歩み寄ると、一切の遠慮なく片腕を掴んで立たせ、どこかへと連行して行った。
正気を取り戻した私は五郎殿にその場を任せ、百ちゃんを含む侍女数人を連れて越庵先生を追う。
やがて、現在は客間となっている空き部屋に辿り着き、障子を開けると…冒頭の光景が広がっていた、という訳だ。
「よくもそれがしの前に顔を出せたのう。」
「あ、あの、越庵先生。これは一体…。」
「お、奥方。どうかこの場は見なかった事に…。」
山科卿が土下座のまま言葉を絞り出すと、越庵先生が片足でダン、と床を鳴らした。
「若奥様、不肖の弟子に代わってお詫び申し上げる。それがしの指南が行き届いておりませなんだゆえ。」
で、弟子?誰が?
まさか…山科卿が?
「この男は紛れもなく先代の山科内蔵頭殿の一粒種なれど…下働きの女官の腹より産まれ申した。それゆえ初めは嫡子として扱われず…。」
「せ、師匠!それ以上はどうか堪忍…!」
「黙っておれ!このお方はお主のごとき恩知らずにあらず!それがしの腕を見込んで、破格の俸禄と小屋を用立てて下さった!…嫡子として扱われず市井に交わって暮らしていた頃、それがしに師事して薬師の真似事をしておりました。ある時を境にぱったりとそれがしの仮宿に来なくなり…他に子が出来なかった山科内蔵頭殿の跡継ぎになったと、風の噂に聞き申した。しかしこ奴はそれ以来、それがしに一度として顔を見せず…。」
「ちゃ、ちゃう!ちゃいまんのや、師匠!親父の引き継ぎやら挨拶回りやらにてんてこ舞いで…気付いた時には師匠は京におらんようになっとった。師匠をないがしろにしたわけとちゃう、信じたってえな!」
山科卿の顔から嫌味なお公家様の仮面が剝がれ落ち、年を食ったガキに戻っていく一部始終を、私は呆然と見ていた。
…というか、山科卿の幼少期に薬師の師匠だったって、越庵先生の今の年齢は一体…。
「ふん、まあ挨拶抜きに転居したそれがしにも負い目はある。ここは手打ちとしよう。…若奥様が念入りに用意された本膳料理を、残さず平らげれば、だが。」
「やりますやります!そないな事で許してくれはるんやったら、喜んで!」
越庵先生は山科卿の返事に満足げに頷くと、私に視線を向けた。その意味を悟った私は、連れて来た侍女に、山科卿が残した本膳料理と、暖房用の火鉢、それに人数分の座布団と、温かい汁物を桶いっぱいに入れて持って来るよう命じた。暖房もない部屋で冷めた料理をただ食べさせるのでは、越庵先生が課したペナルティとはいえ厳しすぎると思ったからだ。
…この部屋で見聞きした事を他言しないよう、侍女が廊下の曲がり角を曲がる前に釘を刺せたのは我ながらファインプレーだったと思う。
ともあれ、部屋の中で待つ事しばし。
私と百ちゃん、山科卿と越庵先生の四人で客間の中心に置かれた火鉢を囲むように座り、山科卿が冷えた本膳料理をマナーも順番もお構いなしで食べる様子をみんなで観察するという、何とも言えない空間が完成した。
「不肖の弟子はともかく、それがしにまで…。」
汁物をよそったお椀と箸を手に呟く越庵先生に、正直助けられた気持ちになりながら、私は首を横に振った。
「越庵先生に倒れられては、今川の、いいえ、駿河の一大事ですもの。お体を冷やす事の無いよう…。」
「…味噌も出汁も無い汁物なんて、何十年ぶりやろか。」
山科卿の独り言に、今度は私が平身低頭する番だった。
「申し訳ございません。一刻も早く権中納言殿の体を暖めて差し上げねばと…。」
「文句言うとる訳とちゃいまんのや。親父に跡継ぎとして引き取られる前は、こんな汁物をよう飲んどったな思て…お気遣い痛み入ります。」
「あ、いえ、勿体無いお言葉…膳はいかがにございましょう。至らない点がございましたら、何卒ご教示のほどを…。」
「どれもこれも美味で、上品な味付けや。文句の付けようもあれへん。…ろくに箸も付けんと突き返してしもて、堪忍な。」
越庵先生が目を光らせている事を差し引いても、やたらと丁重な受け答えをしてくれる山科卿に戸惑っていると、大きな塊を飲み込んで汁物で口をゆすいだ山科卿が、ぽつぽつと語り始めた。
「さっき師匠が言うた通り、わての母親は下賤の出や。顔も名前も分からへん。わてを産んですぐ亡うなってしもうたさかい…。屋敷の片隅に部屋をもろたねんけど、初めは下人も同然の扱いやった。そやさかい、わては母親の同僚にすがったり、日雇いで働いたりして食ってくほか無かったんや。」
前世の経験上、私が山科卿にシンパシーを覚えている間にも、彼の独白は続いた。
「師匠と会うたんはそん頃や。公家や武家、商人からぎょうさん銭を取っとるんを見て、わても長者になれる思うて弟子入りしたんや。…借銭の方が多いっちゅう事を知ったんはその後やったけど。」
「その頃から、口を動かすより手を動かせ、と何度も申したはずだが?」
越庵先生がひとにらみすると、山科卿は思い出したように食事を再開した。
「飯を食うには、口も手も動かさんとあきまへんねん。」
そう混ぜっ返しながら。
「ともかく…師匠の下で修業を積めば、一端の薬師になれる思うとったんや。その矢先や、親父が不治の病にかかってしもて…他に男子がおらへんさかい、わてを跡継ぎにする言うて。…ホンマ勝手な話や。屋敷に押し込められて朝から晩まで作法やら歌詠みやらの稽古稽古。お陰で一端の公家にはなれたんやけど、師匠とはそれっきりになってしもた。まさかこないな所で会えるとは思わへんかったわ、何せ名前も…。」
「そこから先は無用の事。いい加減若奥様のもてなしを粗略に扱った訳を申すがよい。」
越庵先生が話を遮ると、山科卿はしばらく無言で咀嚼音を響かせてから、渋面になって口を開いた。
「訳っちゅうんは他でもあらへん、御黒木様の事や。」
やたらと他人行儀な物言いに戸惑っていると、山科卿は忌々し気に汁物の碗を置いた。
「わては御黒木様の養子っちゅう事になっとるけど、血は繋がっとらん、所詮他人や。母親らしい事をしてもろた覚えもあらへんしな。山科の跡継ぎとして親父にしごかれとる間も、親父が死んでからも、ろくに口を利かへんかった。寿桂殿を頼って駿河に移る言い出したんは三年前。帝の命で駿河に来てみたら…何や寿桂殿の屋敷の隅っこでせせこましゅうしよってからに。…それ見て何や腹が立って来たんや。何を今更、わてのおっ母に当て付けるみたいな真似しよるんや、てな。…せやから駿府のどこに行くにも御黒木様を連れ回して、今川につれなくしとったんや。わてが浅はかやった。…治部大輔殿と五郎殿には後日詫びを入れさせてもらうわ。ホンマ、堪忍な。」
途中から語気が弱々しくなった山科卿に、了承の意思を込めて会釈しようとした私の耳に、長い長いため息が聞こえた。
越庵先生だ。
「この有様では、内裏の壁は当面崩れっぱなしであろうな。」
「…どういうこっちゃ師匠。わてじゃ力不足っちゅうんか。」
さすがにプライドを刺激されたのか、眉尻を持ち上げる山科卿に対し、越庵先生は一ミリもたじろぐ素振りを見せなかった。
「御黒木様がお主に何ら母親らしい事をしなかったと、本気で思っておるのか。」
「ホンマの事を言うて、何が悪いんや。」
「おかしいと思った事は無いのか、なにゆえそれがしがお主の指南に手を貸したのか。お主からはビタ一文受け取っておらぬと申すに。」
「…?…!ま、まさか…有り得へん、そんな…冗談きついで師匠…。」
再び驚愕の表情を見せる山科卿に、越庵先生は幾度も首を横に振った。
「虚言ではない。お主が足繁く通う様子を、いずこかより耳にしたのであろう。ある時それがしの仮宿に、御黒木様直々にお出でになったのだ。毎月謝礼を払うゆえ、お主に薬師の指南をしてほしいとな。」
「なんでや。なんで御黒木様がわての修業を手助けするんや。」
「御黒木様はこう仰った。薬師として大成すれば、どこに行っても身を立てられるであろうと。たとえ山科内蔵頭殿との間に嫡男が産まれ、お主が屋敷を追い出される事になろうとも、生きていく事が出来るであろうと。…お主が嫡子となって早々にそれがしが居を移したは、お主が来なくなってからも謝礼を寄越す御黒木様に申し訳が立たなかったからでもある。」
越庵先生が明かした真実に、私は衝撃を隠せなかった。
御黒木様は、夫の浮気相手の息子の将来まで案じていた。そして、先代山科卿が亡くなってから今日に至るまで、その事実を当人にさえ明かす事無くひた隠しにし続けて来たのだ。
あまりにも慈悲深い――それ以外に言葉が見つからなかった。
「…くっ、ぐううぅぅぅ…。」
いつの間にか俯いていた山科卿は、うめき声を上げたかと思うと、掻き込むように食事を再開した。
その両目に光るものがある事に、私は気付いていた。
「しばらく駿府に留まるのであろう。恩に着る心があるのなら…今からでも遅くない、多少なりとも御母堂に孝行するが良い。」
越庵先生に言葉を返す間も無く、山科卿はひたすら『口と手を動かして』いた。
私はそっと背を向けると、部屋の外で待機していた侍女を小声で呼んだ。障子の隙間からそっと覗いた顔に囁く。
「大広間でお待ちの御黒木様にお伝えして。権中納言殿はかつての御師匠に診ていただいたお陰で、すっかり元気になられたと。今は旧交を温めておられますゆえ、心配ご無用にございます、と。」
この先、山科卿と御黒木様が和解し、実の親子のような関係を築けるかどうか、私には分からない。
ただ、そうなればいいなと…打算抜きでそう思った。
お読みいただきありがとうございました。
なお、山科卿の出番はもう少し続きます。