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#105 雇う者、雇われる者

読者の皆様のお陰で、総合評価が5,000ptを突破しました。

今後ともお付き合いいただけますようお願い申し上げます。

弘治2年(西暦1556年)正月 駿府館


 資本主義社会において、求人を出した側の人数が求職者の人数を上回る事はまず有り得ないと思われる。

 書類選考なり筆記試験なりに合格した求職者が、髪の毛をセットし、スーツを身にまとって、面接で一生懸命自己アピールを行い、ある者はお祈りメールに肩を落とし、またある者は新たな職場での居場所を得た事に安堵する。

 私の前世はどうだったかと言えば…まあ、黒星の方が多かったとだけ言わせてもらおう。

 前置きが長くなったが、私にとって『面接官』や『人事担当者』といった連中は長い間嫌悪の対象だった。ポーカーフェイスで意図不明な質問を投げかけて来たり、就職したらしたで突然自主退職を促して来たり…もっと採用枠を増やせ、給料上げろと、自宅で安酒を飲みながら愚痴ったものだ。

 ただ、この世界に転生して、人を雇う側になった事で、彼らに対する評価は多少変化した。人件費という削るに削れない対価を最低限に抑えながら、組織のパフォーマンスを向上させるという二律背反に、否応なく向き合わざるを得なくなったからだ。

 そんな私は現在、新しく侍女を雇うための面接に臨んでいる。




 きっかけは先日執り行われた、松平次郎三郎元信殿と関口瀬名殿の婚礼だ。一大イベントがつつがなく終わった事に胸を撫で下ろしていた所に、屋敷の警固役の侍や側付き侍女など、五組の男女から、大事な話があると申し入れがあったのだ。

 何か知らない内に不満を抱えていたのかと、戦々恐々で面談に臨んだ所、彼ら、彼女らから告げられたのは、自分達の婚姻を許してほしいとの申し入れだった。

 最初、私は純粋に喜んだ。カップルの中には、小田原からついて来た馬蔵さんと小春、牛吉さんとお栗がいたため、身近な人達が結ばれるという事が、何だかとても嬉しかったのだ。

 しかしそれも、過半数の女子が妊娠数か月であるという事実を知らされるまでの事だった。

 できちゃった婚が悪いとか言いたい訳じゃない。出産が迫るにつれて屋敷で働く事が難しくなるであろう事と、産まれた赤ちゃんの面倒を誰が見るか、という現実的な問題に直面したからだ。

 ひとまず五組の男女の婚礼については、身分や出自を勘案し、義元殿に相談した結果問題なしとのお墨付きを頂戴し、吉日を選んで式を挙げる許可を出した。

 その後、寿桂様の屋敷に相談に伺うと、寿桂様は婚礼については異議なしとした上で、急いで新しく侍女を雇い入れるようにと、私に言った。


「五郎殿の屋敷に務めるに相応しいかどうか、わたくしも口を出させていただきます。とにかく、身の回りが不自由になる事の無いよう、手配りを急ぎなさい。」


 確かに、私のグータラ生活が側付きのみんなに支えられている事に疑いの余地は無い。

 かくして、定員十名と定めた上で、駿府市中に求人をかけたのだが、義元殿の屋敷に集まった人の多さに、私は頭を抱える羽目に陥った。

 どう見ても三桁はいる。

 採用試験は数日に分けて実施せざるを得なかった。




 人数を絞り込むためにまず実施したのは、素性を確認しての足切り――現代風に言えば書類選考だった。ここで私は現代日本の面接において、雇用主が学歴や職歴といった項目を重視していた理由を思い知らされる事になる。

 候補者の二割弱は私に自信満々に書状を提出して来たのだが、そこには自分がどこの屋敷に何年務めただとか、どんな特技があるだとか、綺麗な字体で書かれていた。その他の候補者はと言えば、百姓町民の出身で字もろくに書けない人がゴロゴロしており、これで採用者を大きく絞り込めるかに思われた。

 が…そううまく事は運ばなかった。

 理由の一つは、華麗なる経歴の中に噓や隠し事が紛れ込んでいたという点にある。例えば、かつての勤め先に問い合わせた所、そもそも最初から出仕していなかったり、転職を現在の勤め先に相談していなかったり、というケースだ。特に後者の場合、元々の勤め先とトラブルになる事は目に見えていたため、今回の採用は見送らざるを得なかった。

 また、百姓町民出身者の中にも、見所のありそうな人材が混ざっていた。私の側付きに農民出身者がいる事を思えば、出自だけで足切りは出来ない。

 結局どうしたかというと、一次審査の合格基準は『正直さ』になった。つまり、自分の出自や経歴に噓が無い志望者のみを合格としたのだ。

 これでも候補者が半分以下にまで減ったという事実に、私は現代日本人が――戦国時代と比較して――素直で正直であると評価せざるを得なかった。少なくとも私が前世の幕を閉じるまで、日本人の大多数は、ちょっと調べればバレるような噓で急場をしのごうとする程、短慮では無かったはずである。

 ちなみに、今回の選考で大いに役立ったのが、かつての無宿人多数を収容し、瀬名殿を株主にいただく『駿河人足』だった。所属する労働者の名前、性別、年齢、得意分野などをおおむね把握してくれていたため、志望者の選考が非常に捗ったのである。

 彼女達は選考に落ちても帰る場所があるという事実も、私の罪悪感を軽減する手助けをしてくれた。




 書類選考で絞り込めなかったとなれば、次は面接である。筆記試験や実技試験が無いのは、義務教育も専門学校も無いためだ。

 試験官として出席したのは私と侍女頭のお梅、それに百ちゃんで、もっぱらお梅と百ちゃんが志望者と質疑応答を行い、気になった点を私が質問する、という流れになった。

 引き続き義元殿の屋敷の一角をお借りして実施した面接試験では、お梅と百ちゃんという双壁の前に、数々の挑戦者が沈む事になった。

 お梅が重視したのは、見ず知らずの他人と共同生活を送る協調性を備えているかどうかで、下手に才能をひけらかした志望者はここで脱落した。

 百ちゃんに至っては、前世ドラマで見たスパイ映画さながらの話術で志望者の本心を暴き出し、採用試験に紛れ込んでいた他国の間者(スパイ)を数人摘発するに至った。

 私はと言えば、一人シンパシーを感じる志望者がいた。農民出身ながら、綺麗に身なりを整え、やる気に満ち溢れた少女である。何でも、この日のために借金をしてまで諸々の準備を整えたのだとか。


「二度と家に戻らない覚悟で(めえ)りました。なにとぞ、お引き立てくださいますようお(ねげ)え申し上げます…!」


 その気迫にほだされて、私は彼女の採用を決意した。志望者全員の面接が終わった後、その旨をお梅と百ちゃんに伝えると、いかにも異論ありげな表情が返って来た。


「わたくしとて、乱破(らっぱ)から若奥様に取り立てていただいた身の上。百姓町民からのお引き立て、否とは申しませぬ。されどあの者…わたくしの見立てでは、己が望みのために背伸びをしすぎるきらいがあるかと。」

「わたくしも同心にございます。あの者はいささか…。」


 百ちゃんとお梅に相次いで反対されて、私は半ばムキになった。


「いずれにせよ、残り一人の決め手が無いのであれば、一人くらいそうした者がいても良いのではないかしら。背伸びをする性質(たち)だと言うのなら、側付きの務めも必死に覚えるはずよ。」


 私がそこまで言うなら…という感じで二人は引き下がり、ようやく十人を合格者として迎え入れる事が出来た。

 そして、合格した全員に支度金を配分し、三日後に改めて出仕する事を確認して、帰らせたのだった。




 三日後の朝、私は、五人の欠員に対して十人の求人を出すようにとの寿桂様の申し付けの理由を理解した。屋敷に現れた新人侍女が七人だけだったからだ。

 しかもその中に、私が気に入ったあの少女はいなかった。

 お梅の予想によれば、三人とも、支度金を持って駿河から逃亡したのだろう、との事だった。

 私は憂鬱な内心を押し殺して新人のみんなと挨拶した後、一部始終を義元殿に報告した。


「ほっほっほ、気に病むでないぞ。人を使う事の難しさ、学ぶ事が出来たと思い、今後の(かて)と成すがよい。」


 義元殿は何でもないように言ってくれたが、私は二重の意味で憂鬱だった。

 そもそも、合戦や謀略で他国を攻め取る事が常態化している世の中で、一般庶民に良識や良心が完備されているものと無意識のうちに信じ込んでいた自分が情けなかった。

 同時に、支度金を持ち逃げした少女達の事も気にかかった。

 彼女達は今後、お尋ね者として追われる身となる。今川の若奥様をコケにして、支度金を持ち逃げしたからだ。

 『あの子』の場合、借金の踏み倒しも罪状に加えられる。捕まったらタダじゃ済まないだろう。

 今川の追及を逃れるためには、今川の領国を遠く離れた所へ逃げるしかない。

 逆に言えば、私が『あの子』達を採用して支度金を渡さなければ、犯罪者として逃亡生活を送らずに済んだのではないか…そう思ってしまったのだ。




 次の日、私は五郎殿の提案で、駿府館の中を歩いて回る事になった。

 表向きは未来の当主の視察に付き合う形になるが、前日の夕餉の席でしきりにため息をついていた私を、五郎殿が気遣ってくれた事は明白だった。


「今日は良い日和じゃのう。」

「左様にございますね。」


 そんな他愛もない会話をしながら、お昼まで駿府館の敷地内を歩き回り、午後は自宅で御世論(おせろ)をしたり、お菓子をつまんだりして過ごした。

 五郎殿は新当流の稽古や歌詠みの話を、私は贈答品や株主を務める商会の話をした。

 最後の最後まで、五郎殿が私の失敗に言及して責め立てる事も、慰めたり励ましたりする事も無かった。

 そんな五郎殿の気遣いが、何だか無性にありがたかった。




 半月後、屋敷の広間で馬蔵さんと小春、牛吉さんとお栗を始めとした、五組のカップルの祝言が執り行われた。

 準備も後片付けも大変だったが、新婚夫婦が微笑み合う様子を見ていると、その苦労が報われたような、不思議な感じがした。

 やがてそれぞれの間に子供が産まれ、その子育ての経験が、後々になって私の助けとなるが、それはまだ先の話である。

 数えで五郎殿が19歳、私が11歳の、年の始めの出来事だった。

お読みいただきありがとうございました。

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