#104 大抵の場合、酒は人間関係の潤滑油である
今回もよろしくお願い致します。
前回からだいぶ間隔が空いてしまい、申し訳ありません。
弘治2年(西暦1556年)正月 駿府館
自分の結婚から一年と半年、私は、駿府館は義元殿の屋敷にて、義元殿の立会いの下、別のカップルの結婚式に参列していた。今川家重臣、関口刑部少輔殿の庇護下にある松平次郎三郎元信殿と、同じく関口刑部少輔殿の娘、瀬名殿との婚礼である。
この時代、と言わず、日本では長い間『女性が男性に嫁ぐ』という表現が一般的だったらしいが、それにもかかわらず、今回の婚儀はどこかチグハグな印象を与えるものだった。
端的に言うと…格が違うのである。関口家と松平家の。勿論、関口家が格上で、松平家が格下だ。
参列者の衣服一つ取ってみても、そんな格の違いをひしひしと感じさせられる。関口家の方は、遠目にも上質な着物を、いかにも普段から着こなしてますって感じで振る舞っているのに対し、松平家の方は、どうにか晴れの舞台にも恥ずかしくない着物を一着用意してきましたという感じで、動作もぎこちない。
ただ、当人の意思はどうあれ、主君の婚礼のためはるばる三河からやって来たという点に、私は岡崎における元信殿の、隠れた人望を感じ取っていた。
一通り儀式が終わると、例のごとく、出席している武士やお公家様達に、ごちそうやお酒が配膳され、宴会が始まる。
しかし、私達『親族枠』の出席者には、飲み食いする前にやるべき事がある。そう、挨拶回りである。
厳密に言えば、五郎殿と私は『新郎新婦の目上の親戚』という立場なので、私達が立って挨拶するのは新郎新婦くらいのものだ。
しかし、そこから一段下――三河からやって来た松平家臣の人々あたりは、この機にあちこちとコネを作っておく必要があるため、フットワークの軽い中間管理職のごとく、あちらに頭を下げ、こちらにお酌をしてと、せわしなく歩き回っている。
いずれ私の所にも来るかもしれない、と思いつつ、まずは松平元信、瀬名夫妻へのお祝いに、私は注意を向けた。
「此度の婚礼、目出度い限りじゃ。これからも頼みとしておるぞ、次郎三郎。」
そう言いながら、元信殿が両手で掲げた朱塗りのお椀に、五郎殿が清酒を注ぐ。私もそれに倣って、瀬名殿が掲げるお揃いのお椀に清酒を注いだ。
「勿体無きお言葉。今川を支える…御免、今川を支え、松平を盛り立てるべく、死力を尽くしまする。」
返答の途中で、またも今川だけヨイショする発言内容になっている事に気付いたのだろう。さり気なく言い直した元信殿にホッとしていると、元信殿は五郎殿にいただいた清酒をぐっと飲み干し、何事か考える素振りを見せてから誤魔化すように言った。
「と申したものの、拙者は未だ太守様のお支えなくして立ち行かぬ若輩者。しばらくは大叔母御の助けを借りる事になりましょう。至らぬ点も多いかと存じますが、何卒ご容赦のほどを…。」
元信殿の言い訳じみた発言に、私はかえって二種類の安堵を覚えていた。
まずは事前情報通り、元信殿がいきなり岡崎領の統治にあたるのではなく、大叔母のお久さんが実質的に差配するという決定を元信殿が理解し、何かトラブルが発生した際の予防線を張るという、いい意味でのずる賢さを身に付けている事。
もう一つは、いずれ三河はおろか天下も取ってやる、というような、徳川家康らしい野心が微塵も感じ取れない事。
この分なら、元信殿を頼れる御一家衆としてあてにしても問題無いだろう。
「わたくしも…次郎三郎殿を奥向きよりお支えして参ります…。」
続く瀬名殿の発言に、私は眉をひそめた。内容ではなく、言葉に元気が無いように感じられたからだ。
「瀬名殿。何か気がかりでもおありで?」
私の問い掛けに、瀬名殿は一瞬にらむような視線を返すと、元信殿と同様に清酒を飲み干したものの、そのまま押し黙ってしまった。端的に言って嫌われている。
まあ、無理もない。
良かれと思ってやっていた慈善事業を大勢の目の前でこき下ろされ、『恩人』を犯罪者扱いされて殺された…彼女の認識はそんな所だろう。
私は聖人でも天才でもないので、関係各位に優先順位をつけた解決策しか実行出来なかった。それで瀬名殿に恨まれるのは仕方ないのだが、悩みがあるなら早目に相談して欲しい。事が大きくなってからだと、後始末が大変になる。
「いかがした、瀬名。この場では口に出来ぬような事であろうか。」
私に代わって、五郎殿が柔らかい口調で語りかけると、瀬名殿は不承不承といった感じで口を開いた。
「『駿河人足』の差配に難儀しておりまして…人足の給金を引き上げるよう株主に求めても、なかなか首を縦に振っていただけないのです。ある時など、左様にわたくしの言い分を聞き入れぬのであれば、株札を取り上げると言いつけました。すると友野屋が、左様であれば、今後一切駿河人足への口入れ(業務斡旋)は致しかねる、と…。」
思った以上に駿河人足の株主総会がギスギスしている現状に、私はため息をぐっとこらえた。
給金の引き上げ。労働者にとっては、これ以上有難い事は無いはずだ。
だが『株札』を介して経営に携わっている友野屋殿にしてみれば、人件費の高騰は当然面白く無いだろう。
「短気を起こしてはならぬぞ。かつての無宿人どもも、屋根付きの長屋に毎朝毎晩の食を得て、暮らし向きが随分落ち着いたと聞く。お主にはまだ不満やも知れぬが、商人の都合も汲み取って、事が丸く収まるよう尽力せよ。」
五郎殿の言葉に、瀬名殿が――未だに納得がいかないといった感じで――頷くと、私と五郎殿は新郎新婦の前を辞して、自分達の席に戻った。
小腹が空いたため、何か口に入れようかと膳を見渡していた所、やや荒っぽく足音を立てながら近づいて来る人影があった。
「此度は我らが主、松平次郎三郎の婚儀にご出席いただき、感謝の念に堪えませぬ。」
徳利を脇に置いて深々と頭を下げたのは、三河からやって来た、松平家の親族代理にあたるお侍さんだった。
「苦しゅうない、面を上げよ。…松平家中の者であったな。名は何と申す。」
「ははっ!酒井左衛門尉と申しまする!」
がばっと跳ね上げた顔は、元信殿より一回り以上年上の、ベテラン武将といった風格を滲ませていた。
「次郎三郎様の父君の代よりお仕えして参りましたが、そのご嫡男がこうして無事元服にご婚礼まで…今川のご厚情には、頭が下がるばかりにございます。」
しきりに今川を持ち上げながら、五郎殿が差し出したお椀にお酒を注ぐ姿に、私は、取引先の大企業の役員を接待する中小企業の社長をイメージした。多分、あながち間違いでもないと思うが。
「見上げた心掛けよ。今後も次郎三郎の配下として、今川に忠節を尽くす事、期待しておるぞ。」
「ははっ、心得て…。」
「それにしても、松平殿はまっこと仕合せなお方におじゃりますなぁ!」
突然聞こえてきた都言葉に、私達は会話を中断した。音源は、元信殿と瀬名殿の前にいた、お公家様だった。
その刹那、私は、しかめっ面を作ろうとした表情筋を必死で引き締めた。
騒音の原因が三条西実澄殿…私と五郎殿の婚礼の際に酔って絡んで来たお公家様その人だったからだ。
「かの公方様につながる名門、今川の御一家衆になられるのでおじゃりますからなぁ!ああ勿論、松平殿の家格が低いなどとは申しておりませんぞ。三河では知らぬ者無きお家柄だとか、三河では。」
実澄殿の言い回しに、元信殿は強張った笑みを浮かべて答えに窮しているが、瀬名殿は――私の見る限り――額面通りに受け取って無邪気に喜んでいる。
もし瀬名殿が実澄殿の本意に気付いていないなら問題だ。松平の家格が低いとは言っていない、などと言いながら、『三河では有名』だと繰り返している。遠回しに、全国レベルの知名度が無いと言ってるようなものだ。
どうにか黙らせてやれないだろうかとにらみつけていると、酔いに任せて視線をさまよわせていた実澄殿と、目が合った。
「いかがなされた、若奥様。ご実家はかの鎌倉の執権殿にまでさかのぼる、由緒ある血筋におじゃろう?若奥様が気に病む事など、おじゃりますまい。」
赤ら顔でニタニタしながら発せられた言葉は、彼の頭脳の回転がアルコールにもかかわらず絶好調である事の証明だった。
恐らく彼は知っている。実は北条が、鎌倉幕府の北条とは縁もゆかりも無くて、足利や今川に比べれば血筋が圧倒的に格下である、という事実を。
さすがにこの場で吹聴する積もりは無いだろうが、私と五郎殿への牽制としては十分過ぎた。
「さ…さあさあ皆様ご覧あれ!」
重苦しい空気をぶち壊すかのように声を張り上げ、立ち上がったのは、突然始まったトークバトルに巻き込まれて固まっていた、左衛門尉殿だった。
「この酒井左衛門尉、この宴席を一世一代の大舞台と見定め、得意の舞いを披露致しまする!とくと御覧じろ!」
そう言うや否や、左衛門尉殿は扇子を開いて持ち手の方を両手でそっと持ち、腰を低くして何かをすくい上げるような動作を、大きな身振り手振りで繰り返した。
「これぞそれがし得意の『海老すくい』!どうぞ皆様お手を拝借、ソレ、あソレ、あソレソレソレソレ!」
酔いが回った武士を中心に手拍子が始まり、左衛門尉殿が大広間の注目を集めていく。
しかし、実澄殿は冷笑を浮かべるのみだった。
「ほほ、これが三河の舞いでおじゃるか。いかにも、三河者らしい…。」
左衛門尉殿の必死な様子を嘲笑う口調に、目をとがらせていた私の視界に入ったのは、唇を引き結び、目をうるませながら、左衛門尉殿を見つめる元信殿の姿だった。
元信殿は三河者としてのプライド、三河への愛着を完全には失ってはいない。
そう判断した私は、彼の勇気に賭ける事にした。
「まあ、なんと賑やかな事。半年前に関口刑部少輔殿のお屋敷を訪れた折の事を思い出します。」
私の大きな独り言に、実澄殿は戸惑い、元信殿は何かに気付いた様子を見せた。
「…よし、拙者もやってみよう。左衛門尉!拙者にも海老すくいを教えてくれ。」
言うが早いか、元信殿は席を立って左衛門尉殿に近寄り、扇子を広げて全く同じ姿勢をとった。
「若殿⁉そのような…。」
「よいから教えてくれ。こうか?それとも…こうか?」
今川の御一家衆になったその日に、低俗な踊りを披露する元信殿をどう評価するか。気になる面々の顔色を伺うと、義元殿はいつにも増してニコニコし、寿桂様はいつにも増して仏頂面だった。
…場合によっては、二人のカミナリを食らわなければならないかも知れない。
避雷針となる覚悟を固めて、私は胸の前で両手を打ち鳴らした。さも、いい事を思いついたと言わんばかりに。
「いかがにございましょう。お二方に京の舞いというものを指南なさっては。」
「おお、それはよい。しかし儂は酔いが回ってしもうてのう…三条西殿、代わりに舞って下さらぬか。」
「は…?」
実澄殿の真っ赤な顔から血の気が引くのにも構わず、五郎殿がダメを押す。
「かような折でもなければ、三条西殿の指南を受けられるはずもありますまい。もしや、三河の舞いに気圧されたなどという事は…。」
「ま、ま、まさか。そ、そ、そのような。…ほんなら、まろの舞いをご覧に入れましょうぞ。」
声を震わせながら立ち上がった実澄殿は、元信殿と左衛門尉殿に割り込むように舞い始めたものの、左右から大声で『海老すくい』を歌われ、位置取りも散々邪魔されたため、すぐに青い顔をしてへたり込んでしまった。
「どうやら三条西殿はご気分が優れぬ様子。誰か、お休み所へご案内を。」
私の言葉に、背後に控えていた侍や侍女がわらわらと実澄殿を取り囲み、大広間の外へと連れ出して行く。
邪魔者がフェードアウトした事を確認した私は、五郎殿と一緒に、『海老すくい』を舞う二人に向かって手拍子を送るのだった。
大広間での酒宴が一段落した後、松平元信は義元邸の一室で、岡崎から来訪した家臣達と向き合っていた。
「若殿!申し開きのしようもございません!かような席で、若殿に恥を…。」
平身低頭する酒井左衛門尉忠次に、元信は首を横に振った。
「何が恥なものか。儂のために泥を被らんとしてくれた事、嬉しく思うぞ。盃を持て。」
「ははあっ…有難き仕合せにございます…!」
左衛門尉が掲げた盃に清酒を注ぎながら、元信は考え込んでいた。
あの時…三条西殿に松平家をこき下ろされた時、自分は何の反論もしなかった。反論の材料が思い浮かばなかった…否、それ以前に、自身の矜持を守る気が起きなかったのだ。
そんな自分の背中を押してくれたのが、若君の幼妻だった。
彼女のお陰で、自分は今まで気付かなかった事実を知る事が出来た。誰も信用ならないと思い込んでいた岡崎の家中にも、忠誠を示す家臣が存在するという真実を――。
「わ、若殿?若殿⁉」
慌てた様子の声に我に返ると、左衛門尉が掲げた盃には、今にもこぼれそうなほどなみなみと清酒が注がれていた。
「あ、ああ、済まぬ。少し考え事を…。そうじゃ、こう致そう。」
ふと、過去に読んだ物語の挿話を想起した元信は、左衛門尉の手からそっと盃を取り上げ、こぼれないよう一口含んだ。
「折角じゃ、この盃で酌み交わそうぞ。今日という日の固めの盃じゃ。」
「おお、何と恐れ多い…皆の者、有難く頂戴しようぞ。」
喜色満面で一つの盃を回し飲む家臣に微笑みながら、元信は自身の冷めた声を聞いた。
『酔いの勢いとは恐ろしいものよ。この程度で感極まりおって…大体、口先では忠義と申しても、いつまた寝返るやら…。』
また別の声が聞こえる。今までになく熱を帯びた、自分の声だ。
『左様に薄情な者が、万座で田舎踊りなどしようか!三河にも頼りになる者は少なからずいよう!その者らを従えて、いずれは――。』
いずれは。
自分は何をする積もりだ?
決まっている、今川家の御一家衆として、その覇業を支えるのだ。それ以外に何がある。
だが…恩人は、若奥様は以前、こうも言っていたはずではないか?
『いずれ生まれ故郷に戻り、岡崎城の主となるお積もりはございませんか?』
…いや、何もおかしくはない。
こうして元服を果たしたからには、軍役を果たすために岡崎城に入る事もあるだろう。
それもこれも今川のため…そのはずだ。
「どれ、皆が眠りこけてしまう前にもう一戦、舞おうではないか。」
元信は心の中の迷いを飲み込むと、そう言って立ち上がった。
やがて松平の君臣は輪となって、拍子を揃えて踊り出す。
雲一つない、よく晴れた冬の日の一幕だった。
お読みいただきありがとうございました。




