#103 転生チートでこんな事してる奴、多分他にいない
今回もよろしくお願い致します。
誤字報告にて、『堀越』が『ほりこし』ではないか、とのご指摘を頂戴しましたが、複数の文献を参照した所、当時の呼称としては『ほりごえ』が正しいようなので、このままとさせていただきます。
ご指摘誠にありがとうございました。
竹千代殿の来訪から数日後、私は週に一度のお稽古のため、寿桂様の屋敷を訪問していた。いつものように楽器の演奏などを練習し、寿桂様にOKをもらった所で、お茶をいただく。そのタイミングで、昨日屋敷に届いたボードゲームを取り出すと、寿桂様はこれまで見た事が無いほど怪訝な顔付きになった。
「これは…碁、ではありませんね…枡目が少ない上に、碁石が平たく…その上、白と黒が表裏一体になっているではありませんか。」
ここまでの説明で分かってもらえただろうか?
そう、リバーシである。
友野屋殿を介して材木加工の工房にお願いした仕様は概ね次の通りだ。
盤は碁盤を流用してもらっても構わないので、とりあえず細かい装飾などは後回しで、立場ある人間が部屋に置いても不自然ではない程度に綺麗に仕上げてほしい。マス目は墨で区切って、八かける八の64マス。駒は上記のマスにすっぽり入る大きさで、平たい円盤状に。表裏を白と黒に塗る事もお忘れなく。
朧気な記憶を頼りに絵図入りで仕様請求書を送った所、昨日になって予想していたものとほぼ同じ盤と駒、それに駒を入れる容器の一式が屋敷に届けられた、という訳だ。
短期間で予想通りのものを仕上げてくれた工房の職人さん達と、仲介してくれた友野屋殿に送るお礼の品に当たりを付けながら、私は寿桂様に、リバーシの遊び方の解説を始めた。
「まず中央に、白と黒の駒を二つ、互い違いになるように置きます。」
ここで私は、実際にプレイした方が話が早そうだと気付き、寿桂様と対戦しながら話を進める事にした。
囲碁では強い方が上手で白の碁石、弱い方が下手で黒の碁石を使い、下手が先攻で始めるから…寿桂様が白、私が黒で始めよう。
ちなみに、囲碁と違って駒が共通だから、容器も一緒でいいのだが、そこは職人さんが気を利かせてくれたのか、駒を入れておく容器は二つ用意されている。
「では、私から参ります。」
そう言って、白の隣に黒を置き、挟まれた白をひっくり返す。
「なるほど…挟まれた駒を裏返すため、白と黒を表裏一体にしているのですね。」
さすがに寿桂様は察しが良く、リバーシのルールを早くも理解しつつある様子だった。
「ご慧眼、恐れ入ります。…では、次は寿桂様の番にございます。」
私が促すと、寿桂様は自分の持ち分から駒を取り出し…。
「これはもしや、相手の駒を裏返す位置にのみ置けるという事でしょうか?」
一瞬、囲碁のように、中心から離れた場所に置こうとしていた寿桂様にそう聞かれて、私は短く頷いた。
「はい。余程の事が無ければ。そうしてお互いに駒を置き合い、盤面が埋まった所で、白と黒の数を数えます。無論、白と黒、いずれか多い方の勝ちです。」
寿桂様はためらいがちに頷くと、さっき私がひっくり返した駒をもう一度取り返す位置に白を置いた。
これでまずは3対3。しかし、リバーシは最後まで分からない。
それからしばらく無言で駒を置き合い…中盤には、盤面の大半が白に染まっていた。
「…まさかとは思いますが。このわたくしに手加減しているのではないでしょうね。」
不機嫌そうににらむ寿桂様に、私は微笑んだ。
「いいえ寿桂様。この遊戯の面白い所は…これにございます。」
待ってたぜ!この時を!
私は高揚感に包まれながら、空いていた隅に黒を置いた。そして、別の黒との間に置かれていた白を裏返していく。三方向に、次々と。
一通り終わると、盤上の形勢はすっかり逆転していた。
「…なるほど。碁と違い、一手で多くの駒を裏返せるのがこの遊戯の醍醐味という訳ですね。」
悔しさを滲ませる寿桂様を前に、私はそっと片袖で口元を押さえてほくそ笑んだ。
いつもお稽古で散々ダメ出しされてきた事への、ささやかな復讐だ。
この勝負、転生者特典をフル活用して勝たせてもらう…!
やがて、最後の駒を寿桂様が置いて勝負あり。
駒を数えた結果は、黒31、白33。
つまり私の負けである。
「ええと…わたくしの勝ち、という事でよろしいかしら?」
んのぉぉぉぉぉ‼
戸惑いがちに勝利を宣言する寿桂様を前に、愛想笑いで頷きながら、私は畳の上でジタバタしたい衝動を抑えるのに必死だった。
そうだったぁぁぁぁぁ!私、特にリバーシに強い訳でもなかったぁぁぁぁぁ!中盤でたくさん取れたからって調子乗ってたぁぁぁぁぁ!
「これは…確かに面白い遊戯ですね。碁よりも簡単で、決着がつくのも早い。名はなんと?」
寿桂様の言葉に――若干自らの失態を引きずりながら――冷静さを取り戻した私は、当然の疑問に答えを用意していなかった事に気付いた。
「名、ですか…南蛮人の遊戯だとかで、私も名前までは…。」
「では、わたくしが命名しても?あなたが駒を一つ置いただけで多数を裏返した有様に、少し思う所がありました。」
予想外の申し出に急いで居住まいを正すと、寿桂様は近くに置いてあった文机を引き寄せてしばし沈思黙考した後、かっと目を見開いて紙に何事か、すらすらと書き付けた。
墨取り用の紙で浮いた墨を吸い取ってから、寿桂様が私に見せた紙面には「御世論」と書いてあった。
ご、ごよろん?
「たった一つの駒を打つだけで、白が黒に、黒が白に塗り替わっていく様子…ただ一つの醜聞や武功で、世間の評判が様変わりする有様を思い起こしました。よって、この遊戯の名は御世論…いささか聞こえが悪いですね。御世論…音が濁っているのもよくない…。御世論…ええ、御世論と呼ぶ事に致しましょう。」
まじかー。
私はノーヒントでリバーシの別名に辿り着いた寿桂様のセンスに脱帽していた。
いやいや感心してばかりもいられない。御世論に関連して別のお願いがあった事を忘れる所だった。
「ご立派なお名前を頂戴し、かたじけのう存じます。つきましては、寿桂様に二つほどお願いしたい儀がございます。お聞き届け願えませんでしょうか?」
「一体何事でしょう?」
心なしかはしゃいでいるようにも見える寿桂様に若干の申し訳なさを感じながら、私は続きを口にした。
「まず、雪斎殿についてですが…近く、寿桂様が雪斎殿のお見舞いに向かわれる際、御世論の盤と駒を雪斎殿にお譲りいただけませんでしょうか。もし御世論を気に入られたのであれば、寿桂様には後日、新たに作らせたものを改めて献上致します。意匠が今川の家風に相応しくないと仰るのであれば、そのように作り直させますゆえ、どうぞ存分に…。」
私の申し出を聞いた寿桂様は、先ほどの浮かれた雰囲気とは一転して、鋭い目付きで御世論の盤と駒、そして駒の容器を観察した。
「…確かに、良く言えば素朴、悪く言えば物足りなく思えますが…雪斎殿は質実剛健を貴ばれます。何より、わたくしも雪斎殿も出家の身。出来栄えはこのままで結構です。より美麗なるものを作るのであれば、太守様や若君に進呈されるが良いでしょう。」
それで?と無言で続きを促す寿桂様に、私はもう一つのお願いを開示した。
「此度、御世論を作るに当たり、友野屋殿の手を借りたのですが、出来上がった品を見た友野屋殿が、安物を町民向けに作って売り出したいと。ついては、河東造船で船を造った際に出る木材の余りを御世論を造るために用いる事と、出来上がった安物の売り買いを友野屋が担う事、次の株主総会で賛同していただきたい、と。」
御世論を作ってもらうために仕様請求書を書いた時、同時に遊び方も大まかに記入しておいたのだが、実際にプレイした友野屋殿は、これが一般向けでもバカ売れすると判断したらしい。武家や公家向けの凝った細工が必要な高級品は専用の工房で作るとして、庶民向けに販売する量産品は、造船所で余った木材を再利用する事を考えているとのことだ。
私が頼まれたのはそのための布石…要するに寿桂様への口利きである。河東造船で御世論を大量生産したとして、それをどう売るかが問題なのだ。
普通に考えれば、河東造船で造ったものは河東造船で売るのが筋だが、そうなると利益――より正確に言えば売上に基づく配当金――は株主に分配されてしまう。つまり、株札の40パーセントを保有する外郎屋に儲けが流れてしまう訳だ。
しかしここで、友野屋殿が手を回して、製造は河東造船、販売は友野屋が担当するとなればどうなるか。その場合、御世論の売上がごっそり友野屋グループに転がり込む訳だ。しかも原材料は造船工程で発生した廃材だから、今までゴミ扱いしていたものが金儲けの種になると来れば、友野屋殿が前のめりになるのも無理はない。
そんな私の予想を汲み取ってか、寿桂様は少し物憂げにため息をついた。
「抜け目のない…いえ、頼りになると、そう評するべきでしょうね。よいでしょう、安く御世論を造る手立てと、御世論の売り買いを友野屋が請け負う事、次の総会で味方するよう、名代に言い含めます。ですが、外郎屋殿も名うての商人。河東造船の棟梁を抱き込むなり、わたくしの名代を言いくるめるなりするでしょう。最後は友野屋殿の器量次第と、そう伝えなさい。」
「かしこまりました。」
純粋な遊び道具が大人同士の争いの種になってしまった現状に、前世たびたび耳にしたパクリ、著作権騒動が重なって見えてしまい、私はほんの少しだけ、罪悪感に襲われたのだった。
その後、御世論一式は無事に雪斎殿の枕元に届けられ、彼の寿命が尽きるまでの間、その退屈しのぎに貢献した。
予想された通り、御世論を巡って論争が起こった河東造船の株主総会は、何と河東造船の棟梁が最終決定権を握る展開となり、御世論の製造には材料のみならず人手も必要である事から、友野屋や外郎屋の発注を河東造船が受注し、一定の代金と引き換えに両商会に卸す、という協定が結ばれた。
友野屋の独占販売という野望は潰えた訳だが、後にして思えば、造船所の職人達が不当に安い賃金で本来の領分を超える仕事をさせられる事態を、避けられたと言えるのかも知れない。
そして年末、ついに竹千代殿が元服の時を迎える。
私は義元殿の屋敷の大広間で執り行われた儀式に、親族同然の席次で出席しながら、竹千代殿の新しい名前が発表されるのを、固唾を飲んで見守った。
『松平次郎三郎元信』
仮名は実家の安城松平家当主が代々継いで来たもので、実名の『元』は義元殿から、『信』はご先祖様にちなんだものだそうだ。
ともあれ、私は竹千代殿の新しい名前に肩を撫で下ろした。『徳川』姓ではないのは勿論、実名に『家』も『康』も無かったからだ。
――そんな心の平穏が、波打ち際の砂の城のようにじわじわと崩れ落ちていく事になろうとは、この時の私は予想だにしていなかったのである。
お読みいただきありがとうございました。