剣と盾
江戸末期。ペリー来航により、尊王攘夷、佐幕勤王のイデオロギーに日本の国論が荒れていた時代。今の高知県、土佐に岡田以蔵という男がいた。岡田以蔵は土佐勤皇党という組織に属していた。そこで彼はテロリズムに関与していた。28歳というその短い生涯の中で、多くの佐幕派人物に対するテロリズム事件に関与したと言われている。
然るに彼は土佐勤皇党という組織の末端の一人に過ぎなかった。土佐勤皇党員である以上、党首、武市瑞山の掲げた『勤皇』という思想に心服していただろう。しかし、彼個人が何を思い、何を感じたのかは分からない。
「(世の中はおもしろくない。)」
何が彼にそう思わせているのかは分からない。しかし、以蔵はときおり、いや、言葉にしないだけで、本当は二六時中そう思っていたのかもしれなかった。何かとてつもなく、大きな、そして、下らない何かがこの世の中を覆っているよう思えた。武市瑞山の唱えた『勤皇』という思想は、そんな彼を少しだけ、明るく、前向きにしてくれる言葉であった。そして、その『勤皇』という名の酒を飲ませてくれる手段が、彼にとっては剣を振るうことであった。
彼はただ酒を飲みたかった。そんな酒を飲ませてくれる人が武市瑞山であった。武市は『勤皇』という酒の作り手ではあったが、それを実際に作る仕事をするのは、技術者たる以蔵たちであった。彼らの利害が一致した。武市はこれから作る酒を提供し、以蔵はそれらを作る手伝いをして飲んだ。不思議な関係ではあるが、彼らの組織を貫いていた轄がひとつあった。それは純然たる縦の関係ということであった。彼らは同じ『勤皇』という酒に酔ってテーブルを同じくする酔客ではあったが、酔いが覚めてみれば、主従、身分、上下、高低などといった縦の関係の人間たちでしかなかった。それらは、長い年月の中で、人々の意識の中に植え付けられていたものである。
であるから、岡田以蔵という男も世の中のあらゆるものを縦の関係でとらえた。主従関係、上下身分、尊卑、強弱etc.それが彼の常であり、普通であった。
「(世の中はつまらない。)」
彼は剣を振るった。
1862年から1863年の約一年間、彼は同志とともに京都にいた。そこで、彼らは種々のテロ事件を起こす。
「(酔いが足りない。)」
以蔵は人並みに酒も飲んだ。しかし、彼にはそれだけでは足りなかった。イデオロギーという名の酒が欲しかった。
「行ってくる。」
ある酒席でのこと。彼は仲間を数人連れて席を立った。一刻ほどして彼らは戻って来た。次の日、佐幕派と言われた役人が斬られて三条川原に浮いていた。
そんな中、彼は一人の女子に出会った。同志がよく行く店の女中だった。当時、数々の暗殺事件に関与していた以蔵の名は知られており、その雰囲気は名を隠していても周囲は感じとれただろう。この頃の以蔵は既に依存症患者であった。彼には常に『勤皇』という酒がなければ呼吸さえもできないほどであった。そのようだから、同志の中からも恐れられて疎んじられていた。酒席ではいつも、酒を片手に壁にもたれかかって、刀の鐺をつついていた。その刀は『肥前忠広』という。知人の坂本龍馬から送られたものだった。
「お騒がしいですね。」
以蔵が無心に刀の鐺をつついていると、突然、その女子は以蔵の隣にやってきた。剣客として自分の間合いに入られたのは不覚であった。
「騒がしいのは嫌いですか?」
「(何のことだ…。)」
女子が何故、自分に話しかけてくるのか分からなかった。この場の者たちにとって、以蔵は従であり、下であり、卑であり、弱であった。剣に覚えがあるとしても、集団で襲われては適わない。以蔵たちが誰かを暗殺するときも集団で一人を狙った。今、この場で以蔵が弱い存在であるならば、黙って刀の鐺をつついているしかない。なのに、この女子は話しかけてくる。しかも、周りの者たちを騒がしいなどと言っている。
「(何が目的なのだろうか…。)」
以蔵が言葉に詰まっていると、その女中は空いた以蔵の杯に酒を注いだ。
「はい。どうぞ。」
以蔵は言われるがまま酒を飲んだ。まずい酒だった。
「もうひとつどうですか?」
「いらん。」
以蔵がそう言うと女中は黙ってしまった。そのあと、女中は店の者に呼ばれて座をあとにした。
「(なんだったのか…。)」
店を出たあとも、以蔵はさっきの女子の出来事が理解できないでいた。
「(俺を探っていたのか…。)」
そうとも思った。
その後も、度々、その店に行くことがあった。以蔵たちの天誅も相変わらず続いていた。
「今日は、蒸し暑いですね。」
「(知ったことか…。)」
隣にはあの女子がいた。以蔵は相変わらず杯片手に座を見渡している。
「(下らない連中だ。)」
この頃の以蔵は仲間たちをも見下すようになっていた。
「この前、八坂神社の縁日に行ってきましてね。」
女子は一人でしゃべっている。以蔵のところにも遊女の類は来る。しかし、この女子はそれらと違った。目的が分からなかった。以蔵がわけも分からず話を聞いていると、やがて、女子は店の者に呼ばれて行く。そんなことが度々であった。半年も経つと、以蔵はこの不思議な関係にも慣れてしまった。以蔵が刀の鐺をつついている横で、女子がしゃべっている。女子は名をおせいと言った。おせいは奈良の生まれで、今は住み込みでこの「直木屋」で働いていた。
「鉄三さんは生まれはどこですか?」
「土佐。」
土井鉄三が以蔵の変名であった。おせいの話に以蔵は言葉は紡ぐが、相変わらず、杯片手に刀の鐺をつついている。しかし、以蔵にとって、おせいとの、この空間は案外、居心地の良いものであった。
「この前、妹と弟が川へ遊びにいきましたよ。」
たわいもない話を聞いているうちに、おせいのことも知った。おせいが話しかけているとき、以蔵はおせいの存在に飲まれる。おせいにその気はなかったが、元来、以蔵は酔いやすい体質だったのだろう。その酔いは、しばらくは以蔵の体内に残っているが、やがて消えてしまう。そして、また、もとの以蔵に戻ってしまう。
「(おせいは何を考えているのだろうか。)」
以蔵にとって、おせいは相変わらず、得体の知れない相手ではあったが、大切な存在にもなっていた。
ある日も、以蔵たちは直木屋で飲んでいた。以蔵が厠に立ったが、気づく者はいない。座敷を出て、廊下を渡って行くと、厠へ向かう奥の座敷の方で騒がしい声が聞こえる。座敷の障子は開け放たれていた。どうやら客である役人の一人が酔っ払って暴れているようだった。
「(関わることもない。)」
以蔵は無用な詮索を受けることを恐れて、座敷の方には構わずに厠へ向かった。そのとき、ふと、以蔵の目に入ったのはおせいの姿であった。奥の座敷におせいがいた。
「(おせい…。)」
気がつくと、以蔵はその場で座敷での乱行を見ていた。やがて、役人は刀を抜いた。女中や遊女たちの叫ぶ声が聞こえる。機転の良い者はその場から立ち去ったが、何故かおせいはそこに留まったままだった。役人は刀を振りかざし始めた。
「(まずい。)」
とっさに以蔵は瞬速の刀を抜いた。役人の刀を抜き撃ちに叩きつけた。役人の刀は畳に刺さった。
「ちっ。」
役人は素面になったのか、これ以上の乱行はお咎めになると気づいたらしく、畳に刺さった刀を抜くと座敷から出ていった。そのとき、既に以蔵の姿はそこになかった。以蔵は店の前の通りを歩いていた。
「(俺は何故、刀を抜いたのだ…?)」
役人と争い事になっては多くの事件に関わってきた以蔵としてはまずい。しかし、先ほどは、それも構わずにとっさに剣を抜いていた。以前、坂本龍馬の紹介で勝海舟の護衛をしたことがある。勝は特別、以蔵に酒を与えてくれる存在ではなかったが断る理由もないので引き受けた。そのときも、勝の命を狙って現れた不逞の輩を斬ったことがあるが、それとは違った。勝に向かってくる相手は、以蔵にとって弱虫であり、弱者であった。
「(おせいは無事だろうか。)」
大通りを急ぎ歩く以蔵はそんなことを考えていた。
それから少し経った頃、以蔵らは再び、直木屋へ行く機会があった。
「(おせいはいるだろうか。)」
いつもの如く、以蔵は同志たちの議論には参加しないで、隅で酒を飲んでいた。
「(まずい酒だ。)」
最近、以蔵は実際の酒にも『勤皇』という酒にも酔いにくくなっていた。代わりに彼のテロリズムはエスカレートしていた。
「鉄三さん。」
おせいだった。
「この前はありがとう。」
彼女は以蔵の手にすっと何かを握らせた。数珠であった。
「この前助けてくれたお礼です。」
そのままおせいは以蔵の横に座った。
「(どこの数珠だろうか…。)」
以蔵は手の中の数珠を見つめた。その手には先ほどのおせいの手の感触が残っていた。おせいの手は冷たかった。その間も、いつものようにおせいは以蔵にたわいもない話をしている。しかし、その話は以蔵の頭には入ってこない。もうおせいの話は以蔵には理解できるものではなかった。ただ、ここにおせいと同じ時間と空間にいるということが、以蔵にとって意味のあることであった。
その後、ひと月ほど経った頃。いつものように直木屋で以蔵ら土佐勤皇党の志士たちが議論をしていた。突然、入り口の方で大きな声音がした。党士の一人が見に行くと町奉行所の役人らが来ているという。
「人改めか。」
党首の武市瑞山ら数人ははそっと裏口から出て行く。以蔵たち数人の末端の志士はその場に残ることになった。
「岡田。手を出すなよ。」
去り際にわざわざ武市がそう言って行った。この前の出来事を誰かが武市の耳に入れたのかもしれない。
「人改めでございまする。」
店の主人とやってきた役人は、この前の酔客であった。以蔵は着物の袖で顔を隠したが、役人はすぐに立ち去った。
「出るぞ。」
同志の一人が合図をした。以蔵はそれに従って廊下を歩いていく。役人たちは人改めとは口ばかりで実際は、この前の腹いせに来たようであった。無理無体を言っては、店の皿や掛け軸などを破壊していった。以蔵はその光景を廊下から見ていた。そこにはおせいがいた。
「なんの用だ!」
奉行所の捕吏の一人が以蔵に気づいた。おせいの顔も以蔵に向かった。
「岡田。手を出すなよ。」
武市の言葉が以蔵の脳裏に刻み込まれていた。卑屈に塗れた顔を俯かせながら、以蔵はその場を後にした。それ以来、以蔵ら土佐勤皇党士たちが直木屋へ行くことはなかった。そのうち、佐幕派公卿暗殺事件の嫌疑をかけられて、以蔵は姿をくらました。
「(世の中はつまらない。)」
『勤皇』という酒も、所詮は世の中の下らないもののひとつなのではないだろうか。以蔵はそう思い始めていた。酒や博奕も以蔵を酔わせてくれることはなかった。
「(これはなんだったのだろうか。)」
以蔵の手には、おせいからもらった数珠があった。何度も捨てようかと思ったが、捨てられずに持ったままになっていた。
一年も経ってはいないが、以蔵はあの店のことやあの女中のことを思い出せなくなっていた。大切な何かを失い大切な記憶も失っていく。その中で以蔵は自分自身も見失っていくような気がした。もちろん、おせいの手に触れたあのときの感触も、おせいの隣にいたあのときの感覚も、今では以蔵という存在からは欠け落ちて剥がれていき消えてしまった。
「(あの女子は今何を考えているのだろうか。)」
京の町をうろつく土井鉄三は思った。他に考えることもなかった。しかし、その感性も土佐へ護送投獄される頃には消えていた。残ったのは岡田以蔵という物体であった。武市瑞山ら土佐勤皇党士たちは土佐藩に捕まった。武市瑞山は、自白の危険がある以蔵を毒殺しようとしたが見破られて、以蔵の自白により切腹。他の党士も処刑されたという。以蔵も斬罪に処された。「君がため尽す心は水の泡消にし後は澄み渡る空」が岡田以蔵の辞世の句といわれる。「君がため」とは武市瑞山のことだと言われる。しかし、以蔵が尽くしたかった君は武市の他にもいたのかもしれない。