案件A 天国②
「ちくしょう、最悪だ……。もう、どうしたらいいのか分かんねえよ……。助けてくれよ、宣教師の先生……」
目の前でやつれた男が、頭を抱えて座り込んだ。
夕暮れの路地裏は薄暗くて寒い。アスファルトは湿っているし、鉄製のごみ箱からは不快なにおいが漂っている。そんな道端に膝をついて座り込んでいる。
くたびれた作業服を着ているが、ほのかに石鹸の匂いがする。
この世界の下層階級には珍しく、体を洗っているのだろう。
「最初は、何とかなると思ったんだよ。あの娘の家族はみんな軍人に連れて行かれちまったけど、ああいうのは、どうせ一晩か二晩で帰ってくるもんだろ? それに、近くに知り合いも親戚もいないって言うんだ。単眼種で金も家族も無い女の子が、一人でいるなんて無理だ。見捨てるなんてできねえし、一日くらいなら面倒見れるかと思ったんだよ……」
うつ向いたまま独白を始める男を、私は黙って見つめた。
突然話しかけてきた者を相手にしているほど私は暇ではない。だが彼からは、そんな私の足を止めるほど強い思いを感じる。真摯な感情の発露だ。
「そしたら、家族はちっとも帰ってこないし、戦争は始まっちまうしよぉ……。戦争のせいで、単眼種ってだけで捕まっちまうようになったから、ずっと俺の家に隠してたんだ。最初のころは全然しゃべらないし、ほとんど食べないし、心配したんだよ。でも、しょうがないよな。家族が軍人に連れて行かれて帰ってこなければ、そりゃあ不安だよな。でも……」
地べたに這いつくばりながらも、真っすぐに私を見つめながら語る。
「しばらくしたらよ、ちょっとずつ笑うようになったんだよ。いらない布切れでぬいぐるみを作ってやったり、パンに焼いたハムを乗せてやったり、いろいろやってみたんだよ。あいつが嫌がるから、二日に一回はシャワーを浴びるようにしたし、シーツも洗ってベッドもきれいにして、たまに髯を剃って……」
穏やかな表情で訥々と語る男の口の端が、嬉しそうに持ち上がっている。
「一か月が経つ頃には、あいつも馴染んできたんだよ。あの娘に食わしてやるためと思えば、なんだか仕事も楽しくってさ。そしたらよ、下水掃除夫から街路掃除夫に格上げになったんだよ。日銭が増えてあいつに美味いもん買ってやれたし、臭いもつかないから嫌な顔もされなくなったし……」
「なるほど、状況は悪くなさそうですが、どうして私のところヘ?」
「これを見てくれっ……!」
男の投げ捨てた薄紅色の紙には、黒インクで召集令状と書かれている。簡素な文面で、充員召集である旨と、出頭の日時が分単位で指定されている。
「俺も戦争に連れて行かれちまう! 俺がいなくなったら、あいつはどうなるんだよ……。単眼種は外を歩いているだけで逮捕されちまう世の中だ。それに子ども一人だ……。ああ……ついてないよな、俺もあの娘も」
男の顔が皮肉気に歪んでいく。彼の頭の中では、怒りと悲しみと諦めがぐるぐると回っているようだ。私としては、彼に肩入れする方向に心が動いている。彼の未熟にして清らかな心は、大なる敬意を払うに値すると断言できる。
「大体よ、俺が街路掃除になったのも、前の奴らが全員戦場に連れて行かれちまったからなんだよ。そうだよな、世の中、上手くいくわけがないんだ。でもよ、俺はそれでいいけどさ、あの娘だけでもなんとかしてやりたいんだよ。なあ、宣教師さん。あんた、神様の名のもとに救いの手を差し伸べてくれるんだろ? 頼むよ、助けてくれよ」
ひざまずいて両手を合わせる男からは、神々しいほどの一途な思いやりの心を感じる。ああ、偶然にもここを通りかかってよかった。彼が私に話しかけてくれてよかった。彼が恥も外聞も無く縋ってくれたから、救いの手を差し伸べることができるのだ。
「分かりましタ。真実一路の神であるこのダンチョネの名のもとに、君たちを祝福し保護しましょウ」
「あ……ありがとうございます、宣教師様!」
この世界の庶民から見れば、今の私は奇抜な格好の宣教師に見えるのだろう。実のところ宣教師では無く、神そのものなのだが、その間違いは指摘せずにおこう。
「その娘は、家から出さないこト。水道とガスは、戦地から代金を支払えるようにしておくこト。食料品店に言って、毎週食料をポストに投函させるこト。そして君と娘が、必ず一日一回、神に無事を祈るこト。この四つを守れば、その娘の無事は神が保証すル」
「本当ですか? それだけで、あの娘は助かるんですか? よかった……」
「本当なら、寄進や供物が必要なところだけれど、特別ですヨ。ただし……」
「ただし?」
「必ず毎日一回の祈りを捧げるこト。祈りの回数が足りなければ、たちまち全てが失われるだろウ。これだけは、いかなる事情があっても曲げられないヨ」
「はい、必ず毎日祈りを捧げます。……ああ、本当に良かった、これで助かる」
男は、もう何も心配いらないとばかりに破顔する。
私は、その様子を一歩離れて見ていた。




