案件A 天国
俺ほど惨めで情けない男はいない。
殴られた額が痛むので、濡らした布で拭うと思った以上に沁みた。「ひっ」と声が出てしまったので左右に目をやるが、車と人が行き交う国道に、俺を気にする人はいない。
布を作業着のポケットに詰め、そそくさと持ち場に戻った。
今日の班長は、機嫌が悪い。
普段なら肩や背中を殴打するくらいなのに、さっきは木材で頭を何度も叩かれた。なるべく顔を合わせない方がいい。
持ち場の端まで歩くと、道路沿いの下水に足を踏み入れる。膝まで水に浸かって、木の棒で布切れや落ち葉などのごみを取り除いていく。
毎日、朝から晩までこれを繰り返す。
そうして、ようやく15ポッチの日当が手に入る。アントニオの店では黒パンが5ポッチだから、一日三食を口にすれば、それでおしまいだ。
月に30ポッチのアパート代を出すには、時々晩飯を抜くことになる。
それが俺の精一杯の人生だ。
横を見れば、国道に人と車がひしめいている。スーツのビジネスマンも子連れの女性も、髭を生やした床屋も、道化みたいな恰好の宣教師も、誰も俺を気にしていない。
誰に知られるでもなく、下水を掃除して一生を終える。俺はそんな男だ。
ざぶざぶと水を掻いていると、軍服姿の一団が、通りがかりに空き瓶を投げてきた。
「それも捨てておけよ」
笑うでも怒るでもなく、ごく普通の口調で言う。あいつらにとって、俺の扱いなんてゴミみたいなものなんだ。
炭酸水の空き瓶を拾っていると、奴らは道端で演説を始めた。大声なので、内容が割合にはっきり聞こえてくる。
「親愛なる国民の諸君! 傾聴せよ! 我々の栄光ある未来について、大いに語ろうではないか!」
あんな風に大げさな言い方をするのは、たぶん政治演説だ。声のする方に、聴衆がぽつぽつと集まり始める。
最近は、ああいうのが増えてきた。何日かに一回は見かける。
「他に抜きんでて最も優れた種族である我々双眼人種にとって、今後の前途は全くの明かるいものであると約束する! 我々、双眼闘争連盟に任せよ! 諸君らはこれから、未だかつて父祖すら見たことのない偉大な躍進を体験するだろう! 諸君らの一票で我ら双眼闘争連盟がさらなる力を手に入れる!」
奴ら、双眼闘争連盟だ。
タバコ屋のオマール婆さんが言っていた。自分たちの目が一つ多いからと理由を付けて、単眼種にひどいことをしているらしい。自分たちとをエリートだと思い込んでいる。
同じ双眼種である俺に対してもゴミみたいな扱いをするんだ。単眼の人たちはもっと嫌な思いをしているんだろう。
想像するだけで気分が落ち込む。
「挙国一致の体制で、このアデノイド半島の平和と実りを勝ち取ろう! かつての敗戦の傷はもう癒えた! 我々が祖国ヒンケル帝国を立ち直らせるのだ! ヒンケル帝国は、双眼闘争連盟は、我々は、諸君の力を欲している!」
聴衆の輪で、演説をする男は軍帽以外はすっかり隠れてしまった。
オマール婆さんは、あいつらが戦争をしたがってるって言っていた。よく分からないけど、きっとそうなんだろう。
昔、ヒンケル帝国は、幾つかの国の連合軍と戦争をして負けたらしい。単眼種が多い隣国のトメニアは、小国だけど連合軍に加わっていた。だから、ヒンケルの双眼種たちは、いつかやり返してやるという思いで、単眼種とトメニアを目の敵にしているらしい。
俺は戦争なんて、まっぴらごめんだ。戦争がしたいなんて、イカれてる。
「いまこそ祖国復活を! 団結を取り戻そう! 頑張ろう!」
連盟の奴らと聴衆が、一斉に手を挙げて唱和している。
俺は背を向け、その場を離れた。
ゴミと掃除道具を片づけて、班長に二回殴られてから日当を貰い、家路についた。
途中でアントニオの店に寄って、パンを買った。夕方の冷えた硬いパンは、少し安くなっていることがある。今日は2つで6ポッチだったので、9ポッチの小さな酒瓶も買った。酒なんて、年に1回くらいだ。
少し浮ついた気持ちになる。
店の外では、別の一団が演説を始めていた。急に気持ちが冷えていくのを感じる。
「貧困を排除せよ! 単眼種を排除せよ! 伝統、偉大さ、自由を守るため、闘争に身を投じるのだ!」と叫ぶ男たちを遠くに眺め、家に帰った。
路地裏に立つ古びたアパートの一番奥が、俺の住まいだ。雨漏りは少ないが、日当たりは悪く薄暗い。俺みたいな底辺が住むボロ家だ。
街灯磨きの爺さんが、入口に座り込んで酒の空き瓶を舐めている。パンより酒に金を使うので、無精髭まみれの頬はこけている。どうせ、今日の稼ぎで得た酒を、もう飲み干したんだろう。
単眼種の男が、部屋から出てきた。顔中が傷だらけだ。「ちくしょう、誰が俺の自転車を……替わりに誰かの自転車を盗んでやろうか」とぶつぶつ呟いている。単眼種というだけで、いつも誰かに殴られているらしい。
クソみたいなアパートだが、ここだけが俺が唯一安らげる場所だ。
安らげる場所だったのだ。
だが、それは失われた。
部屋の前に軍服の一団がいた。双眼闘争連盟の腕章を着けた五、六人の男たちが、銃を見せびらかしつつ単眼種の親子を囲んでいるのだ。
あの家族は、隣の部屋に住んでいたはずだ。
「何だ、お前」
「いえ、その奥が俺の部屋なんですよ、へへ……」
じろじろと見ていたら睨まれたので、精一杯の笑顔を作りながら頭を搔いて見せた。
軍人の一人が「早く行け」と顎を動かしたので、「すいやせん」と言いながら通り過ぎた。双眼闘争連盟の単眼種狩になんか関わりたくない。
鍵を差し込んだら、するりと回った。鍵がかかっていない。
ボロアパートだから、鍵穴に針金を差し込んで適当に回せば開いてしまう。誰かが開けるくらい、簡単だ。でも、そもそもこんな貧民街のアパートの一室に泥棒が入るわけがない。
近所の子供がいたずらでもしたのか。顔をしかめながら部屋に入ったが、驚きで「あっ!?」っと声を上げてしまった。単眼種の子どもがいたのだ。扉の脇に、目を閉じ耳をふさいで座り込んでいる。
そういえば隣室の単眼種は、夫婦と子ども3人の5人家族だったはずだ。でも子どもは2人しかいなかった。1人だけ、ここに逃げ込んだのか。
扉が叩かれた。
「おい、どうした。変な声が聞こえたぞ」
軍人どもだ。俺の声が聞こえたんだろう。
どうしよう。子どもを匿う義理は無い。むしろ単眼種を変に庇って目を付けられたくない。
けど、この子を突き出せば、ひどい目に合うかもしれない。それを思うと、それはそれで良心が痛む。
ああ、いやだ、いやだ。何をどうしたって、俺は嫌な思いをするんだ。怖い思いをするんだ。
きゅうっと痛む心臓に手を当てて、子供を見た。
両手で必死に耳をふさいで、ぎゅっと目を閉じている。しゃがみこむ肩は震えている。
そうだよな、怖いよな。
とっておきの酒瓶を持つと、扉を開けた。
「すいやせん、ちょっと忘れごとを……」
そう言ってアパートの入口に向かい、座り込む街灯磨きの爺さんに声をかけた。
「爺さん、頼まれていた酒だよ! いや、渡し忘れるところだった!」
軍人どもに聞こえるように、わざとらしいくらいに大きな声で言った。
「ん? 頼んでたっけかなあ? 頼んでたか?」
「何だよ、酔ってるのか? あんたは確かに頼んでたよ、爺さん。礼は後でいいから」
酒瓶を押し付けると、そそくさと部屋に戻った。
何度も軍人どもの前を行ったり来たりするのは緊張したが、奴らはもう俺なんかに興味を持っていないようだった。抵抗する父親を何度か殴りつけると、家族4人を外へ連れ出していく。「収容所で可愛がってやるよ」と下卑た笑いを浴びせている。
聞いたことがある。単眼種への嫌がらせで、適当な理由をつけて1日か2日くらい、牢屋にぶちこんだりするらしい。
事件の捜査とか何とか言えば、それくらいは裁判所も認めちまうそうだ。
吐き気がする。あいつらにも、怖くて何もできない自分にも。
でも、子どもを一人でも助けられたのは良かったのかもしれない。部屋に戻ると、さっきと変わらずに子どもが震えている。
「なあ、おい」
肩を叩くと、びくりと飛び上がって目を開けた。大きな一つの目から、ボロボロと涙を流している。
「軍人どもから逃げて、この部屋に入ったのか?」
俺の質問に、首を振る。
「ん? お前、隣の部屋の子どもだろ?」
今度は、頭が縦に動いた。
「自分でここに来たわけじゃねえってことは、父ちゃんか母ちゃんがやったのか?」
もう一度縦に動く。
きっと、危ないと気づいた父親か母親が子どもをどこかへ逃がそうとして、一人だけこの部屋に放り込むのが間に合ったんだろう。まいったな。
「お前の家族は連れていかれちまったよ。近くに知り合いか親戚か、いないのか?」
泣きながら首を振るだけだ。弱った。
「きっと、大丈夫さ。すぐに帰ってこれるさ、な?」
一晩くらいなら、面倒見てやろう。きっと、すぐに親が戻ってくる。そうすりゃ、この子だって泣かないですむ。
「よし、じゃあ今日は俺が晩飯を食わしてやる。パンを焼いて、ベーコンを乗っけてやる。絶対にうまいぞ。だから、泣かないでくれよ、なあ!」
精一杯の笑顔で捲し立ててやる。
「今日はうまい飯食べて、ぐっすり寝るんだ。明日には皆が帰ってきて、元通り。どうだい、元気出てきただろ?」
少しベソが小さくなってきた。
「来月の家賃に貯めてたのを使って、甘いお菓子も買ってくるか。な? 楽しみだろ? だから、今日だけ我慢してくれよ」
ようやく泣き止んだ子どもを見て、ほっとした。ちょっとの間なら、何とかなるだろう。
そんな俺の希望は、あっという間に砕かれた。
翌朝、街は大騒ぎだった。ヒンケル帝国が、単眼種の国トメニアと戦争を始めたらしい。
単眼種は次々と捕まり、単眼種を庇う人達も同じように扱われた。
一か月が経っても、隣室の家族は一人も帰ってこなかった。




