案件3-2 共存不可能の二者択一に答えを出してみよう
佐倉タケルといえば、桜木町界隈では有名だ。
齢十四にして、女だてらに中学校に通っていることも理由の一つだ。女学校ではなく、男たちの中に飛び込み勉学に身を入れ、そのうえ高等学校も目指している。
子を産み“おしめ”を替える事が女性の天職であるとされたのは一昔前までのことだ。だが、それでも学を成そうという女性は、まだまだ少ない。ましてや、男でさえ尋常小学校を出れば良しとされている昨今である。
また、その容姿も理由の一つだろう。10人が10人振り返るというわけではないが、顔立ちは整っている。背丈は低いが、美しい黒髪と、人の良さが分かるまっすぐな瞳は、見る人を安心させ、知らず知らず好感を抱かせる。
加えて、純朴素直にして元気明朗かつ利発な性格も、大きい。礼儀を失せず、かといって隔意を感じさせ無い振る舞いは、男女問わず多くのものが好ましく思っている。
だが、一番の理由は、彼女の苗字にある。つい先日まで一文字苗字の「櫻」だったのだが、やんごとないところから二文字の苗字「佐倉」を賜ったというのだ。一文字の市井の者であっても、世に名が響く手柄や勲功があれば、二文字を賜ることは、前例が無いことではない。だが、極めて稀である。
そして、彼女が何を成したかは、知られていない。
そんなこともあって、人の口に上ることが多いのだ。かといって、悪く言われることは少ない。それも、彼女の為人がなせる業だろう。
そんな彼女だが、今は腹を立てていた。
「坂伊乃様も、お上とは言え、勝手なやりようだとは思いません?二文字だなんて、私にはまったく過ぎたものだと言ったのですけれど、聞く耳を持って下さらないんです」
人気の洋食屋である増野亭のとんかつ定食を前に、タケルとしては憤懣やる方無いといった面持ちでいるつもりであった。だが、向かいに座る坂伊乃から見れば、愛らしい表情の一つに過ぎない。
「まあ、御所の方からお声かけがあったそうだから、これは推して戴くしか仕様がないだろう。さ、せっかくのとんかつだ。冷めないうちに、やっつけてしまうとしよう。それとも、口に合わないかい」
「いえ、滅相もありません。こんなご馳走、滅多なことではとても口にできませんもの」
そう言って慌てて箸を取り、出来立てのとんかつを口に運んでは目を輝かせるタケルを見て、坂伊乃は目尻を下げて口の端を持ち上げた。
「苗字か変わろうとも、貴方の人柄が変わらぬことが分かって嬉しい。まあ、苗字の文字の数なんて、節分の豆くらいに適当に数えておくことだ」
「いえ、そうは参りません。もともとはみなしごの苗字無しの私からすると、二文字を賜るなんて、驚天動地の出来事ですから」
「今からこの様子では、三文字になったときの騒ぎっぷりが、今から楽しみだ」
「まあ、三文字だなんて、ありえないことです。二文字を賜った今でさえ、こう、背中の辺りがむずむずとして落ち着かない心持ちですのに」
すると坂伊乃は、眉根を寄せて、わざとらしい深刻そうな顔を作って見せた。
「実は、佐倉さんに三文字をという動きがあるらしいのだ」
「あら、まあ、なんでまた、そんな。冗談でございますよね?」
目を白黒させるタケルに、坂伊乃は重々しく首を振ってみせる。
「これが如何ともし難い事実なのさ。佐倉さんがそうなった方が色々と都合が良い人がいるようだな」
「と、いいますと?」
「世に苗字は数あれど、五文字を名乗らせ給う御方はただ一人。次いで四文字となると僅かに七家。三文字が、宮家を除けば三十六家。二文字は全国に千あると言われているが、その他は皆、一文字か苗字無しだ。そして、男女が縁を結ぶとなれば、大抵は文字の数を揃える。よくて一つ違いだ。ここまで言えば何となく分かるだろう」
「いえ、とんと」
「つまり、貴女を娶るために東奔西走している、文字数の多い御仁がいるのさ」
「比呂佐和様の事を仰られたいのでしょうが、もしかすると見当が違うのではないでしょうか」
坂伊乃の物言いに、タケルは、侯爵家の貴公子を思い出した。白磁のような美しい肌と、艶やかな黒髪の美男子。タケルのために身命を賭して妖魔と戦い、歌や花を贈り、女が故に進学に困れば学校制度を変えた。
タケルの身に天上から何かが降りかかるとすれば、きっとあのあたりだろう。けれど、さすがの比呂佐和家であっても、私情で三文字下賜は大仰に過ぎるように思えた。
だが、坂伊乃の返しはあっさりとしたものだ。
「いや、違わないだろう」
言い切る坂伊乃と、面食らって目を瞬かせるタケルが暫し、見つめ合った。奇妙な間を破ったのは微笑む坂伊乃だった。
「俺なりに、ちょっと考えてみたのだ。よくは分からないが、未曾有の天変地異が三千世界を襲い、それを黄竜天満宮の水天神様が、佐倉さんを通して神力でお救いになった。これは禁裏の界隈でも有名な話になっている。それが故で、二文字の下賜の栄に浴した。ところが、国を守ったとなれば、本来であれば広く公表し大々的に論功行賞を行うべきという議論が生まれている。つまり二文字下賜では、賞に対して功が勝ちすぎているということだ」
これにはタケルが大いに慌てる。
「あれは、私が何かということではなく、水天神様の御利益を授かった河太郎がいたのです。ただそれだけでございます」
タケルの言葉は、確かに真実である。異世界の魔神によって焼き尽くされたこの世界は、黄竜天満宮の水天神こと大精霊コウリュウによって復元された。それが、たまたま居合わせた、コウリュウの眷属であるカワウソの河太郎を起点に行われただけなのだ。
だが、この世界の住人は、そんなことは知り得ない。
異変に気付いた者達が、霊的な痕跡を調べた結果、世界の崩壊と復元、その起点であるカワウソと飼い主の少女に行き着いた。そこからさきは、推測と誤解と忖度が微妙な力学的作用を働かせ、今日に至る。そして既に、事実より、事実であると認定された内容こそが重要視されているのだ。
「そうなのかもしれないが、それはもう重要では無いことだ。陰陽寮が事実と認定した以上は、貴女が世を救ったということが、政府見解となっている。そして、比呂佐和さんは、そこに乗っかっているだけで、発起人では無いのじゃないかな」
「それは……頭の痛い問題です。困ってしまいます」
元来、自分のものでない手柄で誉められて喜ぶ質ではないし、不用意に目立つのも嬉しくない。こうしている今も、嘘をついているようで心苦しくなる。また、こちらの言い分を取り入れないお役人に腹立ちを感じることもある。それが国家の一大事につながるとなれば、尚更だ。
細く形の良い眉を八の字にして悩むタケルを前に、坂伊乃が笑顔を少し固くして、歯切れ悪く言った。
「そこで提案があるのだが……。三文字の下賜を、変に話を壊すことなく回避する手立てについて……。どうかな、聞いてみないか?」
「どんなですの?」
「簡単なことだ。下賜される前に、先に三文字になってしまえばいい」
「えぇと、仰ることが、分かるような、分からないような……。とどのつまりは、どのようなことでしょう?」
「つまり、今更だが、俺は三文字の苗字持ちだ。つまり、そういうことなのだ。如何だろうか」
ここまで言われれば、好いた惚れたに疎いタケルであっても、求婚されていることに気付く。
「そんな、私ごときをお相手になさると、世間様から笑われてしまいます。坂伊乃様は、将来お国を背負って働かれる男子でいらっしゃいますけど、私は元は孤児の苗字無しです。お戯れはご勘弁くたさい」
「いや、戯れているつもりは毛頭無い」
坂伊乃は、腹を決めたのか、躊躇う素振りを拭い去った、すっきりとした口調で話し始めた。
「俺は、何れは正式な軍人になるものであるし、この国に尽くす志は持っている。次男ではあるが、家を守る気概もある。滅私奉公、家と国にこの身を捧げる心積もりだ。だが、そうであれば、生涯の伴侶くらいは自分の選んだ人でありたい。これが、偽らざる僕の衷心だ」
平素と変わらぬ柔らかな眼差しだが、想いを乗せた真っ直ぐな瞳で見詰められ、タケルは全身が揺さぶられるくらいに動揺した。そんな心の動きを知ってか知らずか、坂伊乃の口からは更なる言葉が紡がれる。
「比呂佐和家の嫡男が貴女に心を寄せて、貴女の為に、手を配り心を配っているのは知っている。あいつは、頭は切れるし腕っぷしも強い。家柄じゃ、全く敵わん。見た目も良いし、何より心根が男らしく潔い好漢だ。だが、貴女を巡っては敗北主義者に甘んじるつもりはない」
遠くで時の鐘の鳴る音が聞こえる。この辺りでは、日本橋の本石町に時の鐘がある。鐘の音が聞こえる範囲の家屋は、距離の遠近に関わらず一律に鐘料が徴され、鐘突役が時を知らせるのだ。
鐘と住居の距離に関わらず同じ額面である。この界隈は少し離れているので、音が小さいし遅れて聞こえる。
「佐倉さん、俺と結婚してはくれまいか?」
聞きなれた遠くの鐘の音が、普段とは違い、腹のそこに響くようなゴワンゴワンという大きな音に聞こえてきた。まるでタケルの動揺と衝撃を表現するかの如く。




