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初出勤

 クリーニングに出したばかりのスーツに身を包み、春風は、緊張に背筋を伸ばして歩いている。

 春風が2着しか持っていないスーツのうち、一張羅として使っている方だ。

 目の前には、すらりと姿勢良く歩くマオの後ろ姿がある。緊張を感じさせないその背中に、かえって春風の気が張り詰める。


「あまり緊張せずとも大丈夫ですよ。権能執行課は、みな良い人ばかりです。とくに第三係は少人数でアットホームな雰囲気ですから、すぐに馴染めますよ」

「…はい!」


 マオの気遣いを嬉しく感じるものの、そう簡単にリラックス出来るものではない。

 春香の胸は、緊張と気負いでいっぱいだ。けれど、新人はそれくらいでちょうどいいはずだと自身に言い聞かせる。


「新しい住まいはいかがですか? 昨日はよく眠れましたか?」

「すごく快適です。一晩ぐっすりでした。お部屋は想像よりずっと広くて清潔でした。昨日のうちに家から衣服や荷物などを持ち込んだんですけど、それでも、まだまだ余裕がありました」


 昨日、労働契約を終えた後、一度家に戻り、とりあえず身の回りの品をかき集めて持ち込んだのだ。

 家具は備え付けられているし、ベッドは綺麗にメイキングされていた。ちょっとしたアメニティまで用意されている。なので、本格的な引っ越しをする必要はない。


「それに、清潔な水は使い放題ですし、トイレは水洗ですし、お湯の出るシャワーまであるし。ばっちりですよ。水をそのまま飲んでお腹を壊さないって、すごく良いですね!」


 コウリュウ市では、上水道と下水道が整備されている。

 上水道の水は、飲用に適しており、日本人の脆弱な胃腸でも体調を崩すことは無い。下水道は、トイレットペーパーを流すことも出来る。このほか、神事や医療に使うことが出来る浄水道や、水車のために整備された動水道などがある。市の北側に位置する山から流れ出る二本の川がもたらす豊富な水資源を活用した結果だ。


「それに、街中に水路が巡らされているのに、少しも空気に湿っぽさがないです。部屋の中だけでなく、街全体が過ごし易いです」

 湿気を感じることもなく、乾燥しているわけでもない。

 時折さわやかな風が吹くが、肌寒さを感じることもない。

「朝食は近所のパン屋さんで買いました。美味しくてびっくりしました。マオさんに教えてもらったお店です」

「そうですか、よかったです。他にもお勧めしたいお店がいくつもあるんですよ」

「ぜひ教えてください」


 話しながら歩いていると、権能執行課という札が置かれたエリアに着いた。

 体育館ほどの広いスペースで、100に届こうかという大勢が仕事をしている。

 人のような姿であったり、明らかに人ではない異形であったり、無機物であったり、様々な外見だ。

 大半はデスクに向かって書類仕事をしている。


 仕事に没頭する人達が発する程よい緊張感が漂う中、マオの案内で隅の一角へ向かった。

壁際に木製のデスクが五つ並んでいる。


 こちらを見つけたらしく、一人が席を立ってこちらへ来た。

 一見すると50歳くらいの、ひょろりと背が高い普通の中年男性に見える。

 背広に似た服を着ているが、ヨレヨレのシャツは、年季が入っており、くすんで見える。

 目を引くのは、右の額から生えた角だ。

 いびつな形にねじれ、禍々しさを感じさせる大きな角だ。

 覇気の無いしゃがれた声でマオに柔らかく笑いかけた。


「……おはようございます、マオ主任」

「おはようございます。本日から第三係に配属になる朝日さんをお連れしました」

「朝日春風です。よろしくお願いします!」

 目一杯の元気で挨拶し、全力でお辞儀をした。


「あぁ……えぇと……私は執行課三係の係長で……ヤギと申します」

 一つ一つの言葉をゆっくりと確認するような、独特の間を持った話し方だ。

「さて……どうしようかな……。勤務条件の説明は……終わっていますよね? では……早速ですが……課長に挨拶に行きましょうか。……付いてきてください」


 そう言ってふらりとヤギが歩き出したので、春風は慌ててその後を追った。

 権能執行課のフロアの奥に、黒塗りの大きな扉があった。「課長室」と書かれたプレートが付いている。

扉の前に立つと、ヤギは春風の顔を見ることなく話し始めた。


「ここは課長室です。中には……権能執行課長がいます。課長は、大精霊コウリュウ様の水の権能を執行する権限を与えられています。その権限を使えば、世界を水で満たすことも海を干上がらせることも出来る。つまり……とても大きな力を持っている方であるということです」


 春風の気持ちを正直に吐露するなら、「勘弁してほしい」といったところだ。

 転職して初めての出勤で緊張しているところに、不安を煽られ、いやが上にも緊張が増す。

「……けれど、厳しくもお優しい方です。粗相の無いように」


 ヤギが扉をノックすると、重く硬い音が響いた。

「課長閣下、第三係のヤギです。失礼いたします」

 その重々しさに反して、扉は音を立てずに滑らかに開いた。


 室内は、扉から想像していたとおり、広く豪奢だった。

 50㎡はありそうな広さに、10メートル近い天井の高さ。応接セットの革張りのソファは、象が座れそうなサイズだ。部屋中にお香のような良いにおいが漂っているし、観葉植物はまるでハワイを思わせるし、チョコレート屋かというくらいシックな茶色と黒が多用されているし、書斎机はゴッドファーザーのようだ。


 そして、書斎机に部屋の主と思われる影があった。

 明らかに人ではないと分かる。

 頭部に水牛のような大きな角が生えている。

 この世界では珍しい短い黒髪が特徴的で、両手には同じ色の長い爪が生えている。髪色に対比するかのように、肌は白磁のように白く透き通っている。剣呑ささえ感じさせる鋭い三白眼が、春風に向けられている。

 不機嫌なのか、口元は、への字に結ばれている。が、怖くはない。

 椅子に座っているので正確には分からないが、身長はおそらく140センチくらいだ。頬はぷっくりとしており、あどけなさを感じる。大きな目に長いまつ毛が女性的な雰囲気を醸している。

 要はちょっと眼付きの悪い女の子なのである。

 可愛らしい少女に向けて、ヤギは慇懃に礼をした。


「……お忙しいところを失礼いたします。本日から当課で勤務をする臨時の職員です」

「朝日春風です。よろしくお願いします!」

 先ほど同様、勢いよくお辞儀する。


「権能執行課長のメリーアン・メリーアンだ」

 春風を一瞥すると、メリーアンは重々しく口を開いた。

「アサヒ・ハルカ。偉大なる大精霊にして開闢を司る神なる竜であるコウリュウ様の麾下に名を連ねることを光栄に思い、真実の忠誠をもって職務に励め」

「はい、全身全霊で目一杯、毎日一球入魂の全力投球をします!」

「その意気は良い。しかしいたずらに労働に浸るのではなく、自身を含めた森羅万象の在り方に気を配ることを忘れるな」

「はい、がんばります!」

 何を言っているのかよく分からないが、とりあえず全力で良い返事を返しておく。

 新人のうちはこうしておけば問題ないと、春風は前職から学んだのだ。


「……当課の業務の意義や仕事の進め方などは、仕事を進める中で私や第三係の係員が伝えていきます。非常に……真面目で……熱心な性格です、心配はいらないでしょう」

 ヤギの言葉に一つうなずくと、そこで話は終わりだと言うように、メリーアンは手元の書類に視線を落とした。気配を察し、ヤギは一礼すると春風を連れて退室した。


「ふぃ~」

 部屋を出たところで、春風は思わず一つ息を吐いてしまった。

 極太の神経を持つ春風でも、緊張することはあるのだ。

「……よくできていました。……安心してください……あなたが課長と接する機会はあまり無いでしょう。さて、次は……第三係を紹介しましょう」


 ヤギに連れられて先ほどの場所へ戻ると、2つの人影があった。

 一つは見知った顔。

「えぇと……マオ主任の紹介はもう不要ですか?」

 ヤギの問いに、春風ではなくマオが答えた。

「いえ、改めて自己紹介させてください」

「では……お願いします」

 マオが一歩進み出た。


「マオ・ウーです。第10世界の子爵級悪魔でしたが、縁あって大精霊コウリュウ様の下で働かせていただいています。第三係に配属されて30年、職名は主任です。まだまだヒヨッコですけど、よろしくお願いします」

 マオを真面目なお姉さんだと思っていた春風だったが、悪魔と自己紹介されてやや面食らった。が、それ以上に引っかかったことがある。

「30年も働いているんですか?」

「ええ。でも30年くらいでは新人もいいところなのよ」

 思わず口をぽかんと開けてしまった。


「……ここには様々な世界から、多様な人や精霊、悪魔、神などが集っています。それぞれの時間とのかかわり方は、あなたが見知ったものとは異なるでしょう。マオ主任もそうですし、課長もあなたが見た目から受けた印象とは異なるでしょう。……まあ、これから慣れていきましょう」


「次は俺だ」

 進み出たのは、輝く金髪に、青々とした月桂樹の冠を戴いた青年。

 微細な刺繍が入った豪奢な服を着け、上質な肌触りを思わせる艶のある布をたっぷりと体に巻き付けている。地球上で最も近い服装を当てはめるとすれば、チュニックとトーガになるだろう。貴金属や宝石をふんだんに使った装飾品が、腕や首でじゃらりと音を立てた。


「本当は名乗りを上げたいところだが、俺の名前はかなり長い。単にジュゲムと呼んでくれ」

 明朗快活で生気に溢れた振る舞いが、鮮烈に印象に残る。

 瞳は活力に満ち、手足の端々まで若さと知性を感じさせる。

 顔は美を結晶化したように整っている。

 これは目の保養だなあ。春風は心中でつぶやいた。

 だが、それ以上に気にかかることがあった。


 ジュゲム?

 寿限無のことかな?

 確か落語だったか。「寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ……」と続く、縁起のいい言葉ばかりを並べた長い名前だったはず。音の響きが似ているのか、何か縁起の良い言葉が並ぶ名前を謎の翻訳機能が神変換したものなのか。


「第三係で300年になる。分からないことがあれば、何でも聞いてくれ」

 ジュゲムは胸に手を当ててふんぞり返っている。

「……以上です。本当はもう一人いるんですが、えぇと……休暇中なので割愛しましょう」


 おや?と疑問がかすめる。

 権能執行課のフロアには100人ほどがいるように見える。しかし、第三係はわずか5人。

「あちらの大勢の方は、別の係ですか?」

「ああ。あっちは第一係と第二係だ。それぞれの係に50人ほどの係員がいる」

 事も無げに言うジュゲムの言葉に、首をかしげる。


 人数が、他の係の十分の一……もしかして第三係って、窓際?


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