案件3 暁の恋風③
「いえ、その方の名前も知りませんし、お顔を見たのも、それきりなんです。ですが、街で軍服を着た方をお見掛けすると、自然と尊敬の念が湧いてきます」
「なるほど。そういえば、もう話したかな。俺は海軍兵学校の一年生なんだ」
「ええ、伺いましたわ。洋行の経験も生かしていらっしゃるとか。とても素晴らしいと思います。八重子おば様も大層褒めていらっしゃったわ。おば様は、本当にサカイノ様がお気に入りの様子で」
「……ああ、うん、そうだな。まあ、貴女が他に行かなければ、一先ずは良いのだ」
「それにしても、いつも思うのですが、私ごときのお話なんて面白いものですか?サカイノ様は、常々、見分を広げるためにいろいろな人とお話されているといいますから、私のこんな些細な会話でも、何かにお役立てされていらっしゃるとは思いますが」
「ああ、真にタメになっているよ。念のために言うが、全く見分のためであって、何ら下心は無い」
ゆっくりと力を込めて、子どもにでも言い含めるように丁寧に口を動かす。
そんな坂伊乃を、タケルは全く信用しきった様子で見つめている。
「ええ、それに関しては疑ってはございませんよ。ご安心ください」
「……そうか。さて、話題を転換して、最近の新聞の話題でもどうだろう。昨晩もまた鬼が出たそうだよ。場所は確か……」
その後、時事について話しながら昼食を摂り、日が傾かぬうちに帰路へ着いた。
道々ですれ違う人が、笑顔でタケルへ声をかけるので、少し時間をかけることになった。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい。光政さんとは楽しく過ごせて?」
坂伊乃と別れて大八商店の扉を開けると、主人の八重子が朗らかな声を飛ばしてきた。
「楽しくだなんて、とんでもない。サカイノ様の見分の肥やしにしていただくため、粗相の無いようにしなくちゃと、いつも気が気ではないです」
「あらそうなの。あの子も報われないわね」
「“あの子”だなんて、一個の男子に対する言い様としては、ご不満を抱かれてしまいますよ。あの方、きっと二文字苗字でいらっしゃいますもの。羽振り良くしていらっしゃるから、堺の方のご出身でしょうか。“堺野”とでもお書きになるんじゃないかしら。あら、でも訛りは無いわ」
自信満々に考えを披露するタケルに、八重子は頬に手を当てて息を吐いた。
「……まあ、そのあたりは、そのうちご当人が何か仰るでしょうよ。さ、夜支度の準備をしましょう。お店の方は、大丈夫なのよ。さっきまで、イズミちゃんが手伝ってくれていたし、総菜は全部出ちゃったの」
「今日は繁盛だったんですね。じゃあ、夕食の準備か、退魔札の支度でもいたしましょうか」
「それじゃあ、退魔札をお願い。最近は、帝都でも鬼が増えているらしいじゃないの」
「ええ、承知いたしました。昨晩も鬼が見られたそうですからね」
近頃は、文明開化の影響で逢魔が時の危険が減ってきている。とはいえ、まだまだ魑魅魍魎が現れる。最近は、船の往来が増えたからか、海外から新種の鬼が渡ってくることもある。
そのため帝都の家々では、神社仏閣で破魔矛や神札などを手に入れて悪鬼羅刹を遠ざける。懐事情の難しい庶民の家では、神棚に退魔の札を整えるのが一般的だ。
タケルは、北端の部屋に入ると、二礼四拍手一礼の後に神棚を整えた。水や米は朝のうちに取り換えている。榊が乱れていれば整え、お札に埃がかかっていれば払う。この札を置いてからまだ三日。しわや汚れも無いから、取り換えずとも大丈夫そうだ。
あとは家の四隅に張られたお札がはがれていなければ、枕を高くして眠ることが出来る。家中をぐるりと巡って、最後に二階の角部屋に入ると、座り込んで足元を見ていたイズミが視線を上げた。
「や、タケル。おかえり。坂伊乃のお坊ちゃんはご機嫌だったか?」
男性のような仕草で手を振り、さばけた物言いでタケルへニコリと笑いかけた。
タケルのルームメイトであるこの友人は、四つ年上で、昨年に身請けされた元遊女だ。最初こそ、遊郭上がりということで気を張っていたが、彼女の竹を割ったような気持ちのいい性格は、すぐにタケルの心をつかんだ。彼今では互いの髪を結うほどの仲でもある。とはいってもイズミは耳が出るほどの短髪なので、タケルがすることと言えば櫛付け程度だ。
彼女を身請けしたのは、将来を約束していた郷里の幼馴染であり、今はまだ別で暮らしているものの彼の都合が整えば祝言を挙げるつもりである。このことも、タケルの心象を良くしている。過去はどうあれ、現在の彼女は、まっすぐなのだ。
今も、少年のように膝丈のズボンをはいており、健康的なすらりとした長い足をのぞかせている。
「ええ、相変わらずの健啖家だったわ」
「それだけかい。あの坊ちゃんも気の毒だね」
「なんだかよく分からないけど、イズミとおば様は、同じようなことを言うのね」
「勘が鈍い人でなければ、誰でも同じことを言いそうだけどね。それより、これ、可愛いだろ」
そう言ってイズミは、胡坐をかいた自身の足元を示して見せた。
そこには、手のひらに乗りそうなほど小さな動物が、寝息を立てていた。
「あら可愛い。子犬……ではないわね。タヌキかイタチかしら」
「これはカワウソ。お店の前で水を撒いているときに見つけたんだ。ゴミ捨て場のところに丸くなってた。生ごみでも漁ってたのかな」
「可愛いわね。丸い顔だけど目元は凛々しいわ。そうね、ぽん太と名付けようかしら」
「……ぽん太は止しとこう」
「あらそう?可愛いと思ったんだけど」
「感じ方は、人それぞれだからなあ。さて、お願いがるんだけど、いいかい?」
「勿論よ。で、何かしら?」
「明日の夕方までこの子をお願いできる?」
「いいわ。旦那様のところ?」
「そ。今晩は戻らない」
そういうとイズミは、ニコッと笑って、手をひらひらさせながら出ていった。
「私も、あんな風に誰かを想い、想われてみたいものだわ」
イズミの後ろ姿を眺めながら、タケルはひとり呟くのだった。
☆
不如意な表情で、春風は水鏡から顔をあげた。
「脈ありそうに見える?」
「見えないわね」
春風の問いに、マオがバッサリと切り捨てる。
「全く意識されてないよね。どうしよう。このままじゃ、想いを伝えても玉砕確実だよね」
「ハルカが悩むことでは、無いのじゃないかしら。今回の案件での願いは、想いを伝える事。その結果がどうなるかは、本人のこれまでの心がけ次第ですもの」
「でも、わざわざ恋心を伝えるっていう事は、心を通じ合いたいっていう想いがあると思うの。だから、少しでも成就する確率が高くなるように気配り、手配りをしなくちゃ」
「そこまで考えが及ぶのは、すごいと思うわ。“ハルカならでは”の視点だと思う」
マオの視線は、感嘆を帯びている。
「そうかな?」
「そうよ。私の見てきた限り、この精霊府の職員達は、届く願いを四角四面に字面のとおりにとらえて、請願強度と発現する奇跡のバランスだけを考えて、権能を行使しているの。もちろん、大精霊コウリュウ様の威信が揺らがぬよう、その権威を高めるように工夫をすることはある。でも、ハルカみたいに願いに託された想いやそれに至る状況を読み解いて、より良い状況を導こうとはしない」
「うわぁ、優先順位の付け方が、お役所的だ。顧客第一主義とは言わないけど、少しはお客さんのことも考えればいいのに」
「ハルカは、そういう考え方が普通である世界にいたのね。少しうらやましいわ。けれど、この組織の皆が賛同する考え方ではないと思うの。大精霊コウリュウ様こそが全知全能にして唯一無二の至高の存在であると考える者もいるし、自分のためにこの組織と権力を使う者もいる。そんな中にあっては、ハルカの考え方は受け入れられないかもしれないし……排除されるかもしれない。だから……」
マオがニコリと笑う。
「私は、全力でハルカを応援するわ」




