案件3 暁の恋風②
「やあ、櫻さん」
「あら、サカイノ様。昨日ぶりですね」
タケルより頭二つ分は背が高い、柔らかな顔立ちの偉丈夫が手を振っている。
オールバックにきっちりと固め、襟が高く丈の長い学ラン風のジャケットを身に着け、ボタンを一番上まで留めている。
タケルがひらりと自転車を飛び降りて押しながら歩くと、坂伊乃光政は、彼女の歩幅に合わせて自然に並んで歩きだした。
「ちょうど出会えてよかった。これから貴女を昼食に誘う栄に浴するつもりでいたんだ。どうだい?」
「ごめんなさい。この後、下宿のおば様をお手伝いしなくっちゃ。もちろん、お誘いは嬉しいんですよ」
「それなら問題ない。さっき大八商店に立ち寄ったのだ。俺が、一人で食事をするのが苦手だなんて話をしていたら、女将さんが櫻さんを推挙して下すったのだ。ここで俺の誘いを断っては、かえって女将さんに不義理になろうというものだ。煉瓦屋のサンドウィッチか、増野亭のとんかつでも如何だい?」
大八商店とは、タケルの下宿先の商店である。
二階建ての木造家屋で、一階部分では店主の大野八重子が手作りの総菜や日用品を販売している。二階部分は下宿として使われており、今はタケルともう一人が起居している。
その大八商店へ、ここのところ坂伊乃は通い詰めている。
総菜を買っては味を誉め、近所にある老舗和菓子屋の今佐田で手に入れる芋羊羹を土産に現れ……と、持ち前のマメさですっかり八重子を味方に付けていた。夫と息子を戦争で亡くしている八重子は、坂伊乃をすっかり気に入り、今では、まるで実の子のように贔屓している。
「まあ、手際が良いですね。でも、お世話になっているおば様への不義理になると言われては、とっても断れないわ」
タケルが笑顔で応じると、二人で連れ立って煉瓦屋まで歩き、同じ卓へ着いた。
「何でも注文してくれたまえ。勘定は気にしなくて良い」
「いいえ、結構です。これでも私、自分の食い扶持くらいは、世話できているんですもの」
「そうか。では俺が先に注文する。山ほど頼むとしよう」
「まあ、腹ペコでいらっしゃいますの?」
「君といると食欲がわくのさ。そして、もし食べきれなければ、手伝ってくれないか?」
そういって、無邪気に片目を閉じて見せた。何とも軽薄な仕草だが、彼がやると様になってしまう。
「もう、仕様の無い。その代わり、珈琲代は私が持ちますからね。それで手を打ちましょう」
「うん、結構」
坂伊乃は朗らかに笑い、店員にオーダーを飛ばした。
「さて、昨日は俺の話で終わったのだったな。ということは、今日は貴女のお話をお聞かせいただく番だ」
「ええ。サカイノ様の洋行のお話は、とても興味深かったわ。本当はもっと伺いたかったくらい。それで、私は何をお話すれば?」
「前回は、故郷の尋常小学校で成績抜群だったから、上京して中学校に通い始めたところまで聞いた。今日は、そうだな……最近の様子とか、今後の生涯の展望なんかどうだい? 何か考えているのかい?」
随分と踏み込んだこの問いに、タケルは屈託なくまっすぐに答える。
「高等学校に進学するつもりです。そして、可能であれば大学へも。医師の勉強をしたいのです」
タケルの言葉に、坂伊乃は大げさに目を見開いて見せる。
だが、驚きはあっても決して否定する気配はない。にこりと笑って頷く。
「それは大きく出たものだ。女性で中学校というのも珍しいのに、高等学校、そのうえ大学までも。おまけに医師ときたものだ。いや、最初から医師を目当てに大学を目指しているから、中学校にお入りになったのかな」
教育制度上、大学へ通うには高等学校を卒業する必要がある。そして、高等学校へ進むには、中学校を修了しなければならない。なので、多くの女子が小学校を卒業して学業を終えるか高等小学校や女学校へ進む中、男子に交じって中学校で学んでいるのだ。
「そうなんです。私の生まれた村には小学校はありませんし、お医者様もいらっしゃらないのです。両方とも、片道二時間をかけて隣村まで歩くわけです。ですから、医か学かを修めて故郷へ戻りたいのです。故郷の篤志家の方が助けて下さったおかげで、上京は叶いましたけれど、学費は奨学金を取らなければならないので、毎日必死に学んでいますわ」
「そうか、それは大変だ。でも貴女なら、援助をしても良いという人が現れても不思議じゃあないと思いますが」
「まあ、そんなお偉い方に知己はありませんわ。そもそも私なんて、里親から“櫻”の一文字苗字を頂きましたが、生まれは苗字なしの孤児です。二文字苗字ですら、知り合いとなると、学友を除けば数えるほどでございます。三文字の方など、新聞で名を見かけるくらいで、実物を見たことすらありません」
この国には、苗字に関して慣習的な規則がある。
ごく一般的な者であれば、一文字の苗字である。これが、町区の顔役や上流階級などであれば二文字、伝統ある由緒正しい家系であれば三文字だ。二文字苗字であれば、その日食べるものに困ることは無い資産家が多い。
これが三文字ともなれば、経済界であれば財閥級、学問であれば教授連中、軍人であれば閣下と呼ばれる者達になる。
誰かの後援者になろうというのであれば、二文字の中でも上流以上にいる者か三文字であろう。
「それなら、俺がパトロンに立候補を……」
「そもそも、気軽に援助をしようなんて方は、何か腹積もりがあるに違いありませんもの。どこまで信用できるかしら。あこぎな考えでも持っていそうだわ。……あら、サカイノ様、何か言いかけました?」
「いや、何も?」
「もちろん、高い志の下に援助されていらっしゃる方も多くいらっしゃるでしょうけど。でも、女子が教育を受けるというのは、まだまだ理解が無いのです。“女は学問なんて修めなくてよろしい、さっさとお片付きなさい”と言われることが多くて……。先日など、学校の先輩の男性から言われたのは、“君に天職を与えよう。俺の家へ来ておしめを替えると良い”ですって。何とも旧式で、傲慢な物言いだと思いません?」
「それは……“君の味噌汁が飲みたい”と同じ言い回しなんだが……櫻さんが断ったのであれば俺としては、言うことはない」
「まあ、お味噌汁?よく意味がわかりませんが、変わった慣用句があるものですね」
「男女が親しくするために、色々と工夫されてきたという事さ」
この言葉に、タケルの頬がぷっくりと膨らむ。
「年若い男女が親しくするなんて、ふしだらです」
「俺の知人に、三人四人の男性と仲良くしている女性がいるが……ふしだらとは、そういう事を言うのでは?」
「そのご友人は、随分と変則なやり方をなさってますね。私には到底理解が及びません。軽々にあちらこちらで色恋に現を抜かすなんて、破廉恥もいいところです。そういう事は、ただ一人、“この人”と決めた相手でなければ」
「それには全く賛同だ。相手はしっかりと定めないと。……もしかして貴方には、夫婦の約束をした相手でもいるのか?」
何気なく問いかけているように見えて、坂伊乃の目には探るような気配がある。
「まさか。私の夢は、大学でしっかりと学び、故郷に帰って医師か教師になることです。どなたかとお約束など、していられません」
「それはそれは。結構結構。……ああ、約束は無くても、岡惚れしている相手などがいるということも無いかな?」
「そうですね……色恋の話ではないのですが……」
「構わない、是非とも聞きたいな」
「ほんのひと月くらい前に悪鬼暴漢に襲われそうになったところを、軍人さんに助けていただいたことがあったのです。お怪我をされ軍服を朱に染めながらも、勇ましく軍刀を繰り、私を守って下さいました。それ以来、その軍人さんには感謝の気持ちでいます」
「それは災難でしたね。貴女が無事でいらして、本当に良かった。しかし、それではその方に大分思い入れがあるのではないですか?」




