プロローグ
楽しんでいただければ幸いです。
「これ、やっといて」
ひたすらキーボードを叩き続ける私の横に、書類の束が置かれた。
置いたのは、私の直属の上司と思われる男だ。上司であると特定はできていない。
この会社で働いて、もうすぐ一年になるが、誰が業務に関する決定権を持っているかさっぱり判らない。
コイツは、私が仕事に就いた初日から、こちらにどんどん仕事を放り投げてくる。なので、たぶん私の上司なのだろう。
いつも貧乏ゆすりに合わせて、たっぷりと脂肪を蓄えたお腹を揺らしている。
勤務態度と服装と体型はだらしないが、他人に仕事と責任を押し付ける手腕だけは秀でている。
同僚の間では「コイツ」や「アレ」と呼ばれている。私以外の皆も嫌っているのは間違いない。
「上から急いでほしいって言われてるんだ。見積はとっておいたから、このとおり進めてくれ。3月中に終わるように、ヨロシク」
今は2月下旬だ。
一か月で仕上げろというわけか。
渡された書類の中から見付けた見積書に目をやると、日付は昨年の8月になっている。6か月以上放置しておいて、押し付けたことになる。この程度は、いつもどおりだ。
「この仕様だと、見積書の半分くらいの金額で出来そうですけど……見積を取り直しますか?」
「いいんだよ、それで」
ああ、自分の懐にいくらか入れるんですね。実に、いつもどおりですね。コンプライアンスも何も無く、今現在の自分が満足すればそれで良いというクソッタレだ。
しかし、何もコイツ一人に限ったことではない。会社全体に同じような考えが蔓延している。この会社に“常識”という言葉は存在しない。ついでに言うと“順法精神”と“倫理”と“思いやり”という言葉も存在しない。
先日、ボーナスと称して、会社で使い古したパソコンとプリンターが現物支給された。廃棄するコストをカットするため、ごみを押し付けたのだ。それをもってボーナスの現物支給と言い張るなど、常人にはとてもまねできない暴挙だ。そのような蛮行に至れる、経営陣の強靭な精神が恐ろしい。
改めて周囲を見渡すと、夜12時を過ぎようというのに、およそ30あるデスクのほとんどに人がいる。
そして、そこにいる人は2種類に分けられる。
私のように暗い眼の下にどす黒いクマをぶら下げてひたすら仕事をする人と、他人に仕事を擦り付け私腹を肥やす人だ。もちろん、6割を占める前者が会社を維持している。
隣のデスクでは同期入社のノリコちゃんが、干物のように干からびた眼でパソコンに向かっている。
私と同じ6割の側の人間であり、多くの苦難とトラブルを共に乗り越えてきた戦友だ。同時期に入社した20人のうち、18人は既に退社している。1年も経たずに。
ノリコちゃんがいなかったら、私も辞めていただろう。会社から無茶なスケジュールを示され、毎日2時間睡眠で3週間働き続けたこともあった。同僚の失踪的退職で業務量が倍増し、しばらく会社に泊まり込んだこともあった。力を合わせてそれらを乗り切ったことは、2人の絆を確かなものとしたのだ。
共に苦境を耐え抜く彼女は、私の親友であり、心の支えでもある。そんな彼女が、パソコンから目をそらさずに呟いた。
「私、来月で仕事辞めるんだ」
なんですと!?
「昨日、プロポーズされて……結婚することになったの」
心の支えを失った私… 朝日春風は、その日のうちに退職願を書き上げた。