十八話
その夜、レイは目を覚まさず、ガイさんにはやることがあると断られ、僕は一人、飯屋に入った。
どうやら冒険者御用達の店らしく、客の体格がいい。僕を見た瞬間、もう出来上がっているのか顔の赤い男が呂律の回らない口でいう。
「おおらはむたぁーがきたぞー」
もしかして顔も覚えられてるのか?男が肩を組んでくると案の定アルコールの匂いが漂ってくる。相当臭い。
「今日の主役の登場だー」
店が歓声で埋め尽くされる。
「こっちで一緒に食おうぜ。酒奢ってやるよ」
「あ?俺が奢るんだよ」
男たちが睨み合うと拳の届く距離まで間合いが詰まる。僕が助けを求めて店員を見ると、その店員さえ両手にジョッキを持って大笑いしている。飯屋と思って入った店は酒場だったようだ。
もうなるようになれ。僕は酔っ払いたちを一瞥して店を出た。
まだ明るい夜道を歩くと、一人の女性が近づいてくる。
「ねえ。君がロアくんだよね」
近くで見ると何か妖艶な空気を纏っていて、そこはかとなく扇情的な服を着ていた。
「私、強い男がタイプなの。今夜一緒にどうかな」
耳元で囁くと同時に、細い指が僕の太ももを這う。まずいまずい。少し漂うアルコールの香りが頭を麻痺させる。
女性の体が僕にのしかかると、女性特有の柔らかさと豊かな双丘を感じる。
「ねえ。どうかな」
「......ごめんなさい!」
僕は女性を突き放し、走った。このままいったらどこまでもいってしまう。そんな直感があった。僕はとっくに居候になったガイさんの家に帰った。
大人たちに翻弄され、疲弊された日だった。
「はっはっは。英雄も女の前では無力か」
別れてからの出来事を話すと、ガイさんは話している最中からニヤニヤして、話し終えると堪え切れないように笑い出した。
「笑わないでください。こっちは必死だったんです」
呆れたようなジェスチャーをする。
「意気地なしじゃのぉ」
そう言われると返す言葉もない。確かに僕には度胸がない。
「まあ、女は一生分からんよ」
僕はガイさんの妻の顔が浮かんだ。
「メルダさんも?」
「おう。儂はいつもあいつの優しさに甘えて好き勝手しとったからのぉ」
ガイさんは昔を懐かしんでいるようだった。
「いい奥さんだったんですね」
「あいつほどいい女を儂は知らんな」
本当に愛していたのが伝わってくる。五年前に病気で亡くなったって言ってたな。
「一つ聞きたいことがある」
「何ですか」
「お前さんらは何者なんじゃ」
言葉に詰まった。
「最初から気になってはいたんじゃ。二角の変異オーガを討ち取ってきたと思えば、冒険者でもなく田舎から出てきたという。まあ言いたくないなら言わんでいい」
蘇る地獄のような日々とディル爺やレイとの淡い記憶。本当に話していいのか。
「名前を聞いたら戻れませんよ」
「老いぼれに戻るところもないわい」
僕とレイがシュテーゲン家の人間であること。ディル爺との訓練の日々。逃げてきた理由。追っ手が迫っていること。全てを時間をかけて話した。
「なるほどのう、暗殺一家か。お前さんらの強さがようやく腑に落ちたわ」
ガイさんは一際優しい表情をしていう。
「妹、守らなきゃな」
ソファで眠るレイを見て頷く。これ以上ガイさんに迷惑はかけられない。僕らといる姿を見られれば必ずガイさんも始末される。追っ手がどこまで来ているのかさえ分からない。
「あの、その、今までありがとうございました。色々助けてくれたし、ご飯も美味しかったし、笑ってご飯を食べたのは久しぶりで」
今日まで沢山の修羅をくぐってきたのに浮かぶのはここで食べたご飯のこと。ガイさんはベロベロになるまで飲んで、レイは呑んでないのに酔ったみたいに大笑いして、それにつられて僕も笑ったこと。
ただ僕の話を聞いたがいさんの反応は平然としていて、いつもの調子で淡々という。
「何をメソメソ言うとるんじゃ」
「だって楽しくて」
たった数日しかいないのにこの空間は暖かかった。
「別に明日もいればいいじゃろ」
「ここにいたらいつかガイさんも狙われます」
ガイさんは深くため息をつく。
「儂は刺客ごときには負けんわ」
ガイさんが笑う。
「刺客くらい儂が屠っちゃる。だから安心してここにいればいい」
その言葉が何よりも心強くて。僕が一番言って欲しかったことで。泣いているんだろう。頰を熱いものが伝う。
「でも……」
言い切る前にガイさんの手が僕の頭を優しく撫でる。
「お前たちのことは孫のように想っとる」
ガイさんの笑顔が優しくて穏やかで心に染み入るようで。
「今すぐ出て行くなんてせんでいい。まあ逃げる云々以外に理由があるなら別じゃがな」
ガイさんの手が離れる。
「これからもここに居ていい?」
「当たり前じゃ」
僕たちに新しい我が家が出来た瞬間だった。