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一つの時代が終わっても

作者: 武庫川燕

 放課後の教室で、私は呪文の羅列と格闘していた。

 呪文というのはもちろんモノの例えで、ホントウは数学の教科書なのだが、分からない者にとっては呪文と同じだ。

 しかも、恐ろしいことに私はその呪文を明日までに解読しなければならない。

 なぜって、明日は期末テストなのだ。

 このテストで失敗すると、私は進級できないらしい。


「はあ~~~~」


 盛大にため息を吐く。

 はっきり言って絶望的な状況だ。

 だいたい、こんなことをして一体何の役に立つというのだ。

 こんなくだらないことのために私の人生が決められるなんて、全くもって不公平な世の中だ。


「どうしたんですか?そんなアホ面をして」


 やけになって机の脚をコツコツ蹴飛ばしていたら、そんな言葉が頭上から降ってきた。

 顔を上げると、正面に背の低い女の子が立っていた。

 首元のタイの色から1年生だと分かるが、見覚えはない。

 そもそも、1年生が2年生の教室にいるのはどういうことだろう?


「どうしたの、誰かを探してるの?」


 初対面の私をいきなりバカにしてきた後輩にこんな親切な言葉を掛けるなんて、私はなんて優しい人間なんだろう。


「探しているというわけではありませんよ。ただ、この辺りにアホな先輩が居座っている気配がしたもので」


 このっ、どこまで私をバカにするつもりなんだ。

 でも、私は怒ったりしない。

 なぜなら、私はとっても寛容なのだ。


「そっかー、よかったね~。アホな先輩を見つけられて」


 私はトビキリの笑顔を貼り付けてそう言った。


「とんでもない!私は大変不愉快なのです。この学校にアホな先輩がいるなんて、入学したばかりの純情な私の夢と希望がすっかり打ち砕かれてしまったじゃありませんか」


 なんで初対面の後輩にこんなことを言われなきゃいけないんだろう。

 しかも、こっちはこんなに友好的な態度をとっているというのに!

 でも、私はやはり怒ったりしない。


「ゴメンネ?でも、2年生の数学って、と~ってもムズかしいから、こうなっちゃうのもちょっとは仕方ないんだよ」


 私は、引き続き最上級の笑顔を貼り付けながらこの世間知らずの1年生に教科書を見せてあげた。


「ふんっ」


 なっ、なぜ鼻で笑われる!?

 心外だ……心外にもほどがある!!!


「こんなのも分からないんですかぁ?本当にアホなんですね。今までどうやって生きてきたんですか?」


 このアマ、私が優しいからってどこまで図に乗る気!?

 さすがの私もちょ~っとお怒りモードに入っちゃうよ?


「そういうこと言うなら、試しにここに書いてある問題解いてみてよ?」


 コイツは確かに頭が良いのかも知れない。

 でも、所詮は1年生。

 2年生の問題など解けるはずがないのだ。

 そのはずが……。


「本当にアタマ大丈夫ですか?先輩が指してるトコには問題なんて書いてませんよ?これは問題じゃなくて公式じゃないですか。もしかして、数学どころか日本語も分からないんですかあ?」


 なっ……確かに、よく見ると公式とか書いてある。

 というか、公式ってなんだっけ?


「いや、ちょっと間違えただけ。ほ、ほら、数式が書いてあったらなんか問題っぽいじゃん?」


「問題外ですね。ここまでアホだと、もう犯罪レベルですよ」


 プツリ。

 私の中で何かが切れる音がした。

 いくら寛容な私とはいえ、犯罪とまで言われたら黙っちゃいられない。


「犯罪?私がいつ他人(ひと)に迷惑かけた?何時何分何秒?地球が何回まわった時?そもそも、数学なんてやったって何の役にも立たないじゃん!出来なくたって生きていけるし!!」


「そうですね、犯罪というのは言い過ぎました。そこは素直に謝罪しましょう」


 ほう、少しは殊勝なところもあるじゃない。


「それに、いくら必死になって勉強したところで、先輩のようなアホにとっては何の足しにもならないでしょう。数学は、優れた人間が扱うことで初めて世のため人のためになるのです。そういう意味では先輩の言っていることはごもっともです」


 なによその言い方!

 ちょっと見直して損したわ。


「とにかく、あなたは基礎からして何も分かっていないのですから、今更勉強したところでムダです」


「そんなことは分かってるけど、明日のテストで失敗したら留年確定なの!」


「そうしたら私と同学年になりますね。おめでとうございます」


「めでたくないわこのチビ!」


「あ゛?今なんて言いました?」


「いや、だからこのチビ」


「初対面の可愛い後輩に暴言ですか?イジメです!パワハラです!コンプライアンスって言葉を知らないんですか?」


 どの口が言うどの口が。


「おっと、アホに向かってマジになって怒っていてはアホがうつってしまいます。しょうがないので、私がトクベツに先輩の勉強を教えてあげましょう。感謝することです」


 ぐぬぬ……、こんなのに教わるなんて悔しいにもほどがある。

 といっても、こんな猫の手も借りたい状況では、背に腹は代えられないか。


「ホントに教えてくれるの?やっさしー。でも、あなた1年生でしょ?2年生の私に勉強なんて教えられるの?」


「愚問ですね。そもそも、あなたの学力はまず1年生どころか中学生にも劣っています。そこからやり直さないことにはどうしようもありません」


「何言ってるの?テストは明日なんだからそれじゃ間に合わないじゃん。ちゃんとテスト範囲のトコ教えてよ」


「アホは指図しないで下さい。……まあでも、あなたの言うのも分かります。ただ、残念ですが諦めてください。どうあがいても明日のテストに間に合わせる方法なんてありません」


「それじゃあ勉強する意味なんてないじゃん!!!」


「はあ……これだからアホは。考えてもみて下さい。あなたは、明日のテストで落第して留年します。すると、1年後にまた同じテストを受けることになります。そこでまた落第したらどうなりますか?」


「1年もあれば何とかなるって」


「そんなんだからアホになるんですよ。言っておきますが、このままでは先輩は永久に卒業できません。確かに、先輩にとっては数学なんて役に立たないしくだらない。でも、そんなくだらないもののために人生が狂わされるなんて、もっとくだらないとは思いませんか?」


 ぐぬぬ……そう言われると反論できない。


「分かりました……中学の勉強から教えてください」


 素直に教えを乞うしかなさそうだった。


 中学校まで遡って分かったことだが、私は思った以上に何も分かっていなかったようだ。

 認めるのは癪だが、どうもこの生意気な後輩の言う通り、私の学力は中学生未満だったらしい。

 そんでもって、これもまた認めるのは非常に癪なのだが、この後輩は教えるのがなかなかに上手だった。

 おかげで、ちょっとずつだが問題が解けるようになってきて、解けるようになってくるとなんだか楽しかった。


「そうそう、ようやく分かってきたようですね。あなたのようなアホでも、私の手にかかればこれくらいのことは出来るようになるのです」


 一問解けるようになる度にイチイチこんなことを言われるのが非常に不愉快ではあるのだが……。


「そろそろ休憩にしましょう」


 そう言われて顔を上げると、どっと疲れが押し寄せてきた。

 私は思いっきり伸びをして、それから窓の外を見た。

 普段なら学校の横を流れる川がすぐ近くに見えるのだが、今はもう真っ暗で何も見えなかった。

 静かな教室の中で、水の音だけが絶え間なく聞こえていた。


「そういえば、先輩ってもしかして友達がいないんですか?」


 え!?なにその失礼な質問。

 せっかく川のせせらぎにちょっと浸ってたっていうのに!


「いるよ!そう言うあんたこそ誰も友達いなそうだけど?」


「私の話は今は関係ないのです。ただ、こんなにアホなのに誰にも勉強を教えてもらえず、放課後の教室で一人寂しく勉強をしなくちゃいけないくらいにはボッチなのかなー、と推察したまででして」


「みんなも自分の勉強しなきゃいけないから私に構ってられないだけ!確かに、勉強に関しては呆れられてるところはあるけど……でも、普段遊ぶ友達はちゃんといるから!」


「そうムキになるところがまた怪しいですよねえ。あ、そういえばそろそろクリスマスじゃないですか。まさかお一人で過ごされるなんてあり得ませんよね?」


「なに、一人じゃ悪い?」


「えーっ、本当に一人なんですかぁ?」


 うわー、にやけ顔マジでムカつく!!


「可哀想ですねえ。ご学友も恋人もいないなんて」


「そういうあんたはどうなのよ?一緒に過ごしてくれる人なんているの?」


「私には家族がいますから」


「それ言ったら私だって家族と一緒だけど」


「家族は生まれたときに既に与えられている存在ですからね。いわば、神様からの贈り物のようなものです。ですから、神様のお恵みである家族とクリスマスを過ごすという考えもあるでしょう。ですが、ここは日本なのですから、もっと日本流のクリスマスの過ごし方というものがあるのです。具体的には、与えられずとも自らの力で得た友人や恋人と一緒に過ごすということです」


「日本流がどうとかはよく分からないけど、あんただって家族と過ごすなら一緒でしょ」


「あー、ちょっと説明不足でした。家族とはいっても、私の場合血の繋がりはありません。中学校に上がる時に今の家に養女として迎えられたのです。今の家族とはとても良い関係にありますが、そこに至るにはお互いに努力もあったわけです」


「あー……なんか、ごめん」


 生意気なだけの後輩と思っていたが、こいつはこいつなりに苦労して生きてきたのだろうか。


「お気になさらず。私は、今の家族をむしろ誇りに思っています。話を戻しましょう。あなたがボッチだという話です」


「だからなんでそんな話になるのよ!」


「では、今からあなたがボッチであることを証明してみせましょう。耳を澄ませてみて下さい。何の音が聞こえますか?」


「川の……水の流れる音」


「そうですね。学校のすぐ真横を流れる川の音。川といえば、どちらかというと夏の風物詩という感じがします。川遊びやキャンプは夏の娯楽ですからね。では仮に、あなたは今、夏の川にいるとします。どんな光景を思い浮かべますか?」


「うーん、サワガニを取ったり、冷やしたスイカを河原で割って食べたり、あとは水切りをして遊んだり……。何人かの友達でワーキャー騒いで、うん」


「いいですねえ、典型的な川遊びの光景です。では、それはあなたの実体験ですか?それともただの空想ですか?」


「空想、かな……」


「そういうことです。あなたは、川遊びというものに、もっと広くいえば夏というものに理想を抱いている。ありもしない夏に憧れを抱いている、違いますか?」


「そう言われてみるとそうかも……」


「憧れ……、いや、憧れているのは私も同じです。夏休みが終わるときに感じる『今年の夏もまた何も出来なかった』というあの何ともいえない虚しさ……それを引きずっているうちに、気づいたら一年が終わるのです」


 それはよく分かる。

 いつも、何か消化不良のようなもやもやの気分で二学期を迎え、そしていつの間にか一年が終わってしまうのだ。


「なかでも今年は尚更です。一つの時代が終わる、そんな節目の年だというのに、結局は何事もなせぬまま終わってしまうのだと思うと……」


 さっきまでの生意気で自信過剰な態度はどこへ行ってしまったのか、彼女は自分の言葉にしんみりしているようだった。

 しゅんとした彼女は、ただでさえ小柄だというのに尚更ちっぽけに見えた。

 自分でもそのことに気づいたのか、彼女は


「あははっ、何の話をしているんでしょうね」


と誤魔化すようにして笑って、それきり黙った。


 私がボッチなのを証明してやる、などと息巻いていたが、本当はただ内にある虚しさを誰かに聞いて欲しかっただけなのだろう。


 でも、彼女の虚しさはきっとどうすることも出来ない種類のものだ。


 なぜなら、その根底にあるのはおそらく、これまでも、そしてこれからも決して手に入ることのない、血の繋がった家族との温かな時間なのだから。


 おそらくは、そのことに彼女自身もまだ気づいてはいないだろう。

 あるいは、気づかないふりをしているのか。

 いずれにせよ、彼女の心は穴の開いた水がめのようなもので、代わりになるものを注ぎ続けなければ枯れてしまう。


 だから彼女は足掻いている。


 見ず知らずの私にいきなり失礼な言葉を掛け、恩着せがましく勉強を教えてくれたのも、もしかしたら年の瀬にほんのちょっとでも何かしらの爪痕を残したかったからなのかも知れない。


「なーにを達観したような顔をしているんですか」


「おっ、元気なあんたに戻った」


「私はいつも元気です。あなたのようなアホと違って、弱っている暇はないのですから」


「ふーん?しおらしくしてる時はちょーっと可愛いかな、って思ったのに」


「か、可愛い!?」


「あー、顔真っ赤」


「なっ、そんなわけないでしょう!アホの癖に図に乗らないで下さい!」


「もうアホじゃないもんねー」


「くくっ、明日のテスト後に真っ青な顔を見るのが楽しみです」


「私はもうどんな問題でも解けるし余裕余裕」


「その余裕も今のうちです」


 この時の私は、人のことをとやかく言えないくらいに自信過剰だった。

 そして翌日、彼女の予言は現実のものとなった。


「ああ……」


「ほら、私の言ったとおりでしょう」


「なんで……昨日あんなに勉強したのに……いろんな問題解けるようになったのに……」


「当然です。あれは中学校の範囲ですから。そんなことも分からないなんてさすがはアホです」


「ぐぬぬ……」


 真っ白な答案用紙を前に、まるでどこまでもつづく雪原をさ迷い歩くようなあの時間――思い出しただけでも身震いがしてくる。

 本当に雪が降っているのではないかと、私は窓の外を見た。

 雪は降っていなかったが、灰色の川がごうごうと音を立てて流れていた。

 今年はいっそう寒いクリスマスになりそうだった。

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