2.命長の大設斎
大和が次期大王の座を巡って混乱している間、筑紫でも動きがあった。
そもそも当時の倭国は天孫降臨以来九州王朝が君臨していた。大和王朝はあくまで九州王朝の分家と言う格付けであった。
その筑紫倭国の天皇である上塔天皇は病に臥せていた。年号を「命長」としたのも天皇が少しでも長生きできることを願ってのことである。
大宰府の筑紫朝廷では上塔天皇の症状が不安材料となっていた。一方の上塔天皇も相次ぐ日照りで民が苦しんでいると聞き自分の不徳を気にしていた。
「最近の国の様子はどうか?」
「陛下、大和の額田部大王が薨御されたようです。」
側近の黒木臣が上塔天皇に報告をする。
「流行り病か。朕が天子の位に昇って以来、どうして災害ばかりが続くのだ・・・・。」
「陛下、しっかりなさって下さい。仏法によって国を治めるという陛下の方針は決して誤ってはおりません。」
「そんな判り切ったことを言われても慰めにならぬ!ならばどうして朕は病気に臥せておるのだ?月神様は朕を見捨てたのか?」
「では天照大御神様への祭祀を行われますか?」
「『天を以て兄とし、日を以って弟とする』我が国の伝統を変えるというのか?」
「元々、この倭国は天照大御神様によって与えられた国です。月読尊様への祭祀もよろしいですが、月が日よりも貴いという祭祀のあり方に疑問を抱く方も最近は増えております。」
「最近?そうだ、倭国が豊かな頃にはそんな疑問を抱く者は誰もいなかった。父君の頃は堂々と『天を以って兄とし、日を以って弟とする』と隋の皇帝にも自慢していたのだ。疫病が流行るようになってから臣共は朕の祭祀にまで文句を言うようになった。」
「――やはり仏法によって国威を掲揚しますか?」
「それしかないだろう。大設斎を開きたい。」
「御意。設斎――つまり仏法を聴く集いですね。陛下御臨席ですか?」
「当然だ。」
「期間は?」
「長い方が良いな。」
「しかしながら、畏れ多くも体調の問題もあるかと思いますが・・・・。」
「御仏の教えを聴くと元気が出るかもしれん。何よりも仏法によって倭国が繁栄するのであればそれに勝る喜びはない。」
「判りました。では先帝陛下の代より朝廷に仕えていた恵総に講義をさせましょう。」
5月5日、大設斎が始まった。筑紫朝廷の諸臣が集う。
招かれた恵総は言った。
「昨年新羅の船に乗って二人の若者がやってきましたな。」
「ああ、恵隠と恵雲の二人か。唐で仏法を学んでおったのだ。」
上塔天皇が答える。
「陛下に謹んで進言させていただきます。私の弟子に恵資というものが居ります。彼を論議者として恵隠か恵雲の二人のいずれかに問答をさせようと思うのですが、どうでしょうか?」
当時、設斎の際に論議者が立てた問いに答える形で講義を行うことが慣例となっていた。
「そうか、それは良いのう。」
上塔天皇の反応を見て黒木は言う。
「ではどちらが相応しいか、ですね。聞く所によると恵隠殿は『無量寿経』を、恵雲殿は『維摩経』をそれぞれ良く学んだとか。」
「ならば『無量寿経』の方が縁起が良くていいのではないか?」
黒木は声のした方を見る。そこには皇太子の甘木王がいた。
「父上、それでどうでしょうか?」
「良きに計らえ。」
「では黒木、早速明日から恵隠を呼ぶことは出来るか?」
「承知いたしました。」
甘木王は『無量寿経』と言う言葉に惹かれたのだろう。父の寿命が延びる何かを感じ取ったのかもしれない。
5月6日、恵隠が『無量寿経』の講義に来た。論議者は当初の予定通り恵資であった。
「まず問う。『無量寿経』とは如何なる経典か?」
「無量寿仏の御教えを説いた経典である。」
「無量寿仏とは如何なる世界に居る仏か。」
「極楽浄土にいる仏である。」
「極楽浄土とはどういう世界であるか。天界の事であるか。」
「否。天界ではなく輪廻転生から解脱した世界である。」
「では本文に入られよ。」
「われ聞きたてまつりき、かくのごとく。ひととき、仏、王舎城耆闍崛山のうちに住したまひき。大比丘の衆、万二千人と倶なりき。一切は大聖にして、神通すでに達せり。と、ある。これはお釈迦様が一万二千人の弟子と一緒に霊山浄土に行かれたということを記してある。」
「霊山浄土と極楽浄土の違いは?」
「霊山浄土というのはここに『神通すでに達せり』とあるように自力で悟りを拓いた衆生の行くところである。しかしながら、極楽浄土と言うのは――」
講義は連日にわたった。
無量寿仏がとても長寿であるということも上塔天皇の興味をそそったが、上塔天皇がもっとも注目したのは次の部分であった。
「つまり、ここで説く浄土というのは一生懸命修行に修行を重ねて、それでやっと到達できる境涯のことを指しているのではないのです。ただ一心に無量寿仏を信じれば誰でも行くことのできる境涯であります。」
そう説く恵隠の顔は自信に満ちていた。
「どのような衆生でも極楽浄土に行けるのか?」
「自分の親を殺したり仏教を攻撃したりしない限り、どのような者でも極楽浄土に往生できます。無量寿仏はあらゆる衆生を救わんとする本願を立てているからであります。自ら仏法に背を向ける者を除くと極楽浄土に往生できないものはいません。」
それを聞いて上塔天皇は感じた。
(政治に通ずるところもあるな。)
もしも優れた者だけが救われるのであれば政治などいらない。愚かな民衆など放置しておけばよいのだ。
しかし、上塔天皇にはそれができない。常に民衆のことが頭にある。民衆が愚かでどうしようもない存在であるということはわかりきっているのに、民衆を見捨てることは出来ないのだ。
(霊山浄土に登れない者を救うのが私の使命なのだろう。そのためにもこの病を早く治癒しなければ・・・。)
上塔天皇は病身のまま大設斎を続けた。大設斎が終わったのは20日の事であった。
この時、奇蹟が起きた。
「久しぶりの雨だ!」
講義が一通り終わった後、一人の臣下が叫ぶとみんな回廊の外を見る。
「これは奇蹟だ!」
「『無量寿経』の功徳だ!」
「恵みの雨が降ったぞ!」
これまで続いた日照りが噓のように一気に大雨が降った。廷臣たちはこの雨によって仏法の偉大さを感じた。
(いや、これは本当に良いことなのか?)
雨は次第に強くなり豪雨とも言うべき状態になった。これを悦ぶ廷臣を見て恵資はやや不安になった。
恵資が恵隠の方を向くと目が合った。恵隠は苦笑いをしていた。
豪雨は九日間も続いた。
これは「恵みの雨」等では決してなかった。むしろ大惨事をもたらしたのである。
洪水が起き多くの家が流された。田も荒らされ稲の苗は根こそぎ流れて行った。
多くの人間や牛馬が溺れ死んだ。怖ろしい事態になったのである。
もはや群臣は大設斎を歓迎しなくなった。そして上塔天皇はこの大惨事を受けてさらに体調を悪化させた。
天皇は常に病床に横たわるようになった。廷臣の間では静かに仏教への不信感が広まっていく。
「散々な結果になりましたね。」
甘木皇子に一人の男が声をかけた。
「高向王か・・・。」
「従兄様、お久しぶりです。大設斎ではご挨拶できず申し訳ございません。」
「いや、良いんだ。それにしても困ったものだ。」
「仏法への不信感が高まるのか、それとも陛下の不徳を問う声が高まるのか・・・・。」
「元々、私はあまり仏教が好きではない。殺生禁断と陛下は言われるが、皇太子たる私は狩りをすることが楽しみなのだ。」
「あまりよろしい趣味とは言い難いですね。」
「お前はいつも言いたいことをハッキリ言うな。」
「ええ。ところで大和の大王の件ですけれど・・・・。」
「ああ、田村王か山背大兄王かで揉めているという話か。」
「はい。――田村王を断じて大王にしてほしくはないのです。」
「それは――宝王のことが原因か?」
「・・・・私も父親ですから。」
田村王の妻は宝王と言った。その宝王は実は再婚であった。田村王と結ばれる前に高向王と結ばれていたのである。
「実はそのことが心配なのだ。」
「え?」
「お前が難波に派遣されたのは天王寺の造寺司長官としてだったな。」
「はい。」
「お前はそこで大和の大王家の者と親しくなり妻まで設けた。」
「何か問題でも?」
「ああ、問題だ。いや、問題だと思うのは私の個人的な考えだ。別に法を犯したわけではないからな。」
「どういうことですか?」
「私の政策に反するということだよ。」
「はぁ?」
「天王寺は筑紫朝廷直轄の寺。私はな、天王寺を拠点に難波、大和、さらには山代や摂津、播磨、紀伊までをも支配する拠点を築こうと考えているのだ。」
「しかし、難波は大和の管轄下にあるのではありませんか?」
「そうだな。難波で大和は独自に唐の施設を迎えたりもしたことがある。だが、それで本当に良いのだろうか?」
「何が言いたいのですか?」
「倭国の統治者は筑紫である。大和や出雲、伊予、毛野の輩が半ば独立国のようにふるまっていることが私には我慢ならないのだ。」
「要するに大和の大王家の権力を注ぎたかった、と。」
「そうだ。しかしながらお前が大和の女王と子を設けた。だから私は慌てて父上に進言しお前を呼び戻したのだ。」
「――そう言うことだったのですか。」
高向王は敵意の籠った目で甘木王を見る。
「お前の怒りはわかる。しかし、だ。私もお前の妻を奪った男が大和の大王候補に名が上がるとは想定外だったのだよ。そして各地の大王家に大幅な自治権が認められているせいで誰が大王になろうとしても筑紫朝廷は干渉できない。」
「――わかりました。『俺の政策に協力せよ』と、そう言いたいわけですね?」
「気を悪くしないでくれ。私だってお前を必要以上に苦しめたくない。むしろ幸せにしてやりたいからな。田村王みたいな男を大王にしたくはなくが、それができない体制なのだ。そんな体制は覆さなければならん。」
「叔父上は・・・・いえ、陛下はどうお考えなのです?」
「――私ほど中央集権化には積極的ではないな。」
倭国に不吉な影が忍び込んでいる頃、大陸では新たな動きがあった。
玄奘三蔵法師が途中で立ち寄ったことでも知られる高昌国(今の東トルキスタン共和国トルファン地区)が唐の侵略によって滅びたのである。理由はこれまで唐に服属して朝貢国の地位に甘んじていた高昌国が自主独立の姿勢を取ろうとしたからである。
唐の中華帝国としての侵略性が露骨に表れた一件だった。ちなみに三蔵法師がインドから帰路に就くのはこの翌年の事で、この時はまだ三蔵法師は高昌国が唐の侵略により滅んだ事を知らない。
当時の倭国ではこうした唐の脅威を受けて中央集権化を求める声が高まりつつあった。