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1.推古天皇崩御

 曖昧な表現の詔勅は混乱を招くことがある。

 歴代天皇の(みことのり)には曖昧な内容のものが多いとは言え、額田部大王(推古天皇)が晩年に二人の王に下した詔は曖昧過ぎたといえるだろう。

 9人もの子供の母であり、36年も大和の大王として君臨した女性である額田部大王。18歳で他田(おさだ)大王(敏達天皇)の妃となり23歳で大后になった彼女は75年の人生の大半を権力の中枢で過ごしたこととなる。

 その在位期間の大半は蘇我馬子や聖徳太子の影響下にあったとはいえ、この二人も額田部大王より先に亡くなったため、晩年の額田部大王の権力には絶大なものがあった。

 額田部大王は宮中の門をくぐる臣下は一度門の下で土下座してから入るように、等と言う命令を下したこともある。歴代大王の中でもそこまで厳しい命令を臣下に下した大王はいない。自らの権威付けを狙っていたのだろう。

 だが、その晩年の治世は決して評価の高いものではなかった。相次ぐ天災による飢饉により多くの民が苦しんでいた。治安は悪化し怪しげな風説が広まった。高齢の大王に打てる手は限られていた。


 命長元年(西暦640年、皇暦1300年)2月27日、額田部大王が病に臥せた。若い頃には子供を9人も産んだ体力のある女性だった大王はこれまで病しらずだった。病床に臥せた大王を見て群臣は大王の寿命の近い事を知った。

 3月2日、日食が起きた。日食自体は古来から繰り返されている現象であるものの、大王の不調と合わせて起きると不吉な予感がするものである。群臣は次の大王に誰が即位するかを協議するようになった。

 大王の長男の竹田王は既に亡くなっている。残る子供で最年長の息子は尾張王であった。しかし尾張王は大王の息子であるにも拘らず一切の権力を与えられていなかった。額田部大王は自分の次男の実力をあまり評価していなかったのかもしれない。

 生前、額田部大王が尾張王の代わりに太子に指名していたのは厩戸王、聖徳太子であったが聖徳太子は既に亡くなっている。では、と聖徳太子の息子の山背大兄(やましろのおおえ)王に注目が集まった。

 3月6日、額田部大王が田村王と山背大兄王の二人を呼んだ。このことが群臣の憶測を呼ぶこととなる。

 田村王は押坂彦人大兄王の息子である。押坂彦人大兄王は額田部女王の前に他田大王の大后であった広姫の息子であり、広姫が早死にした背景には額田部女王やその後見人である蘇我氏の存在もささやかれていた。田村王には額田部大王の血も蘇我氏の血も流れていない。

 先の太子の息子であり母親は有力豪族たる蘇我氏の出である山背大兄王とは格が違うかのように思われていたのである。


 神職の中臣御食子(なかとみのみけこ)は唐突に額田部大王に呼び出された。至急宮中に参れ、というのである。

 御食子が宮中に行くとそこにいたのは女性ばかりで男性の官吏は神職である自分だけだった。それは大王の看病のためではあるまい。

 そもそも中臣氏はかつて蘇我氏に敗れて失脚した家系であり、官吏としての地位は高くない。大王からするとこの微妙な時期に下手に地位の高いものを呼び出すと逆に混乱を生むと考えたのだろう。

 なお古代において名前に「子」がつくのは男性名だったとよく言われるが、それは正しくない。古代においては名前に性別による違いがあまりなかったと言う方が正確である。特に歴史書に掲載されるような名前は本名と言うよりも本人が職業等にちなんで名付けた自称の事が多い。

 「御食子」というといかにも食事係の女性のような名前だが、神職の家である中臣氏の御食子というと神様への神饌を捧げる職業の男である、という意味になる。

 もっとも中臣御食子は単なる神職ではなく内に野心を秘めた男であった。このことを額田部大王は最期まで見抜けなかった。

 部屋に入ってきた御食子に大王は命じた。


「まずは田村王から話がしたい。連れて来てまいれ。」

「承知致しました。」


 そう言いながら御食子は内心の動揺を抑えつつ宮殿の門の前の小屋で控えている二人の王の下へ行く。


「田村王様から大王様はお話がしたいそうです。」

「そうか、わかった。」


 そういうと田村王は立ち上がって奥に向かった。山背大兄王は睨みつけるかのように御食子を見ている。


「それでは私は失礼します。」


 御食子は山背大兄王の視線を避けるかのように自分も奥へ行き、大王の部屋の前で(はべ)った。


「大丈夫でしたか?」


 采女(うねめ)栗隈黒女(くるくまのくろめ)が声を掛ける。


「いや、鹿島の大神への祭祀よりも緊張した。」


 鹿島神宮は中臣氏の氏神である。


「山背大兄王様はどうでしたか?」

「やはり気になるか?」

「ええ。」

「やはり先に田村王殿下が呼ばれたことを気に為されているようだ。」


 その頃、大王は病床に横たわりながら田村王に次のように語っていた。


高御座(たかみくら)に昇って天下を治め(まつりごと)を行い国民(おおみたから)を養うということは、簡単に言えるものではない。とても重大なことだから、お前は謹んでよく考えるように。軽々しく発言をしてはいけない。」


 これは「軽々しく大王の位に昇ろうとするな」という意味にも解釈できるし「お前は大王になるのだから発言を慎重にせよ」という意味にも解釈できる。永らく権力の中枢にいた額田部大王は曖昧な表現で自分の意思を伝える癖がついており、崩御の寸前までその癖から抜けることは出来なかったのだろう。


「山背大兄王を呼べ・・・御食子はどこだ?」

「御食子卿は部屋の前で黒女と共に侍っております。」


 女孺(にょじゅ)(後宮の女官)の鮪女(しびめ)が答えた。


「そうか、御食子も大儀であったろう。もう帰ってよいと伝えよ。そして黒女には山背大兄王の案内を命ずる。」

「承知しました。」


 鮪女は部屋の戸を開けると


「山背大兄王殿下を呼ぶように。御食子様はもう(まか)って良いとのことです。黒女は殿下を案内せよとの大王様の命令です。」


と伝えた。


「わかった。それでは失礼する。」


 そう言って御食子が立ち上がると黒女もそれに続いた。


「私はここで待っています。」


 黒女は庭で立ち止まった。


「そうか?山背大兄王様を案内するのが任務と聞いたが。」

「采女に御食子様が手を出した、との噂が広まると困るでしょ?」


 黒女の冗談っぽい言葉に御食子も笑いながら言った。


「まさか!・・・・わかった、山背大兄王様に逢うのが怖いのだな?」

「ええ、自分から呼びに行くのはちょっと・・・・いえ、案内はさせて頂きますから。」

「わかった、ではそこで待っておくが良い。」


 そういうと御食子は門に向かった。

 門では山背大兄王が馬に乗っていた。


「殿下!どうなされたのです?」

「いや、私に用がないというのであれば帰ろうと思ってな。」

「そんなことはございません!たった今、大王様がお呼びになられたばかりでございます。」

「そうか・・・・、では宮中に参ろうかの。」


 そういうと山背大兄王は馬を折りて門をくぐった。

 山背大兄王と入れ違いに御食子も門をくぐった。彼は出る際に宮殿の方を向いて膝を折り、額を地面につける。

 これが額田部大王の定めた臣下の作法であったからだ。大王は権勢を誇っていた蘇我氏にさえもこの作法を守らせた。このことが後の悲劇の遠因となることを大王本人が知ることはない。


「殿下、こちらでございます。」

「おお、黒女か。久しぶりだな。」


 父親が皇太子だったということもあり女官や采女には山背大兄王の知り合いが多かった。

 彼が宮中に入ると大王の側近である栗下女王を始めとする数十人の女官・采女と田村王が額田部大王の部屋にいた。


「先ほどお呼びになられた山背大兄王が来ました。」


 栗下女王が言う。

 すると額田部大王は病床から起き上がって山背大兄王の方を向いていった。


「山背大兄王か、逢いたかったぞ。私の寿命も長くはない。今から言う言葉は遺言と思って聞いてほしい。」

(かしこ)まりました。」

「お前はまだ若い。もし心の中に望んでいることがあってもあれこれ言ってはならない。必ず群臣の言葉を聞いてそれに従うように。」

「肝に銘じます。」


 そういうと山背大兄王は頭を下げた。


「二人とももう退室するように。」


 大王がそう言うと田村王と山背大兄王の二人は部屋を出た。


 翌日、額田部大王は崩御した。

 4月10日と11日に雹が降った。かと思うと夏には日照りが続いた。

 大王の崩御と相まってこのことは大和王権の前途に暗い影を落とした。

 そうした中で、群臣や民衆にとっては一つだけ厄介ごとが減る話があった。


「今年は五穀が実らず、百姓は飢えている。朕のために陵を作って厚く葬令を行うことはない。竹田王の陵に朕を合葬せよ、との大王様の遺言です。」


 栗下女王が蘇我蝦夷(そがのえみし)以下群臣たちにそのことを告げるとみんなほっとした顔をした。

 御陵の造営と言う国家事業を行う必要がこれで無くなったのである。

 だが余計な国家事業がなくなった分、群臣たちの権力闘争は激しさを増すこととなる。

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