新風2
このみは、柔らかな朝日を頬に感じて目を覚ます。開けた窓はそのままに、カーテンが揺れている。
「翔冴……」
微かに残る翔冴に抱きしめられた感触。翔冴の香り。乱れたベッド。
こんなに激しく愛されたのはいつ以来だろう……冷たいようで情熱的に、情熱的なようで冷静に、自分の身体は翔冴への捧げ物にされたかのように好き勝手に弄ばれた。
「翔冴、いないの?」
瀬尾このみは、ため息をついて寝返りをうつ。朝を共に迎えてくれなかった男への嫌悪感か、彼女の眉はしかめられていた。
それも、ベッドサイドに残された置き手紙を見つけると、すぐに花が咲き誇るような笑顔にかわる。
『午前中の診察が終わったら、また来るよ。昼食を用意して待っていてください』
角張った翔冴の文字。ベッドサイドに添えられた手紙は恋人に宛てられた甘い内容だ。
「やったぁ!」
誰もいない部屋で瀬尾このみは、手紙を握り喜びを噛み締める。だけど、部屋の壁にかけられた古い振り子時計を見て、慌てて飛び起きた。
「いけない……もうこんな時間だ。診察時間終わっちゃうわ」
ガウンを羽織り、窓を閉める。日差しは暖かいが、風は冷たい。ギギッと嫌な音がして、木枠の窓は閉まるが、隙間風がヒューヒューと入ってきた。
「嫌になっちゃう、このボロ屋敷」
クローゼットを開くと着替えを選び、髪を結って顔を洗った。
二階の寝室から、一階のキッチンへ入り、冷蔵庫の中身を確認する。昨夜翔冴が食材を買い揃えてくれたおかげで、隙間なくびしりと埋まめられた冷蔵庫に、このみは眉をしかめた。
「翔冴、買いすぎ……」
でも、それも自分のことを思っての行動だと考えると、全て許せた。
たしかに愛されている証拠。
久々の再会は思わぬ形でやってきて、一気に自分と翔冴の距離を縮めてくれた。
昨夜抱かれて、このみの中の翔冴は膨大に膨れ上がり、胸の内は翔冴で満たされていた。
このみは、食材を選ぶと綺麗に整頓されたキッチンで鍋を探す。
冷たい風にあたったからなのか、それとも別の理由か、暖かいスープを作るつもりらしい。戸棚の扉を開いて、適当な大きさの鍋に水を張る。古いが、まだ使えるコンロに鍋をセットして火をつけた。
このみは、時計を気にしながら野菜を袋から取り出す。時間は十一時を過ぎている。
キッチンの引き出しから、包丁を取り出した。
「っ……う」
包丁が、カランと音をたてて床に落ちる。このみは、口元を押さえてトイレに駆け込んだ。脂汗と涙で視界が歪む。
必死に呼吸を整えようとするが、沸き起こる嗚咽と吐き気は抑えられない。
もうあの男は此処にはこないはずなのに…………
大丈夫、大丈夫、大丈夫と何度も確かめるけど、その根拠なんてどこにもなく、募る不安は拭えない。フラッシュバックしながら脳裏にあらわれる過去を必死に拭おうとする。
大丈夫、大丈夫、大丈夫……翔冴は絶対にあの男のようなことはしない。優しくて……格好良くて、それに医者だ。
部屋の隅にうずくまり、深呼吸を繰り返した。
「まって……息が苦しい……」
瀬尾このみの母親は、強盗に殺されて亡くなった。警察の調べでは、留守宅に侵入した犯人とたまたま帰宅した母親が鉢合わせになり、衝動的に刺されたという。
大丈夫、大丈夫、もう終わったことだ…………暴力なんて大嫌い。
そして、父親は後を追うように崖から身を投げた。瀬尾このみは、天涯孤独の身。この広大な敷地と屋敷が遺されただけ────
「……このみ? このみ! 大丈夫か?」
「しょうご……?」
午前中の診察が長引いてしまい、翔冴が屋敷についたのは午後一時を過ぎていた。小さな田舎町でもインフルエンザが猛威をふるっていて、予想外に沢山の患者が診療所にやってきたからだ。
「大丈夫? 気を失っていたみたいだけど」
翔冴は、濡れたタオルでこのみの口元を拭う。このみは、リビングのソファーに寝かされ、体には翔冴のコートがかけられていた。
「ごめん……」
「謝らなくていい、過呼吸と貧血だ。少し横になっていたほうがいい。足は高くしておいて。
鍋を一つダメにしてしまったけど、俺が来なかったら今頃火事になっていたかもしれない。よかったよ、大したことにならなくて」
翔冴が心底安堵したため息を吐き出すと、このみは申し訳なさから泣き出しそうになる。
「安心して、ゆっくり呼吸してごらん」
その優しい言葉に不安が消えていく。
「ごめんなさい……」
冷淡なシルバーフレームの眼鏡を外すと、翔冴はそれを胸元のシャツにかけた。軽い乱視だという翔冴は、仕事中と運転する時にだけ眼鏡を活用している。
「だから、謝らなくていいよ。スープを作っておいた。疲れているんだろう……東京から、ここに戻って来たばかりなのに昨夜は無理をさせてしまったから」
翔冴は、このみの唇に指を這わす。このみは、びくっと反応して硬直した。
「ゆっくりと休んで……夜に薬を持ってまた来るよ。鉄剤も用意しておく。体調にまで気をつかえなかった俺の責任だ。これからは言うことをよく聞いて、薬は欠かさずに飲むように」
「わかったわ。また夜に来てくれるの?」
「来るよ。君が来るなと言うなら来ないけど?」
甘い吐息が耳にかかり、小さなキス。それから、頬にも柔らかなキス。
「来て、待ってるから」
「そうする」
このみの答えを予想していたのか翔冴はクスクスと笑うと、唇に優しくキスをした。
体を翔冴に委ねた。この男になら、すべてを委ねてもいい。このみを安心させるようなキスに心地よさを感じながら、このみは凄惨な記憶と恐怖が翔冴の温もりで消えていくことに喜びを感じた。
「さあ、これを飲んで。リラックスできるから」
「うん」
────この人が守ってくれる。
このみは、頭の片隅でそんなことを考えながら瞳を閉じて翔冴のキスに応えた。