犯人2
大槻は力いっぱい窓ガラスを蹴破った。古いガラスは簡単に粉砕される。施錠を解除すると割れたガラスを踏み屋敷の中に入っていく。
悠希も黙って大槻の後に続く。
あの殺人事件では、瀬尾家の窓ガラスは破られていなかった。施錠の習慣がなかったという都心で暮らす悠希には理解できない調書が残っていた。
「悠希、二階だ!」
「わかった、行け」
古い木の階段を無防備に駆け上がる大槻の後を、悠希は懐の拳銃に手を添えて追いかける。
「来ないでよっ!!」
女の狂気に満ちた叫び声。
「っやめろ!」
大槻が識別証を片手に部屋に突入する。
「大槻! 待て!」
────しまった。
悠希の手は無防備な大槻を掴むことができない。
女の手にはナイフが握られている。
悠希は再度腕を伸ばして大槻を止めようとしたが間に合わない。使命に駆り立てた責任。自分が放った言葉の恐ろしさを、悠希はいきなり痛感させられることになる。
ナイフの矛先は、窓辺に佇む翔冴に素早く向いている。
「いやぁああああ!!!!」
狂った獣のような叫び声と共に、鋭いナイフが翔冴を目掛けて突進していく。
大槻は身を呈して翔冴を庇うが、その体は庇うはずの相手に目一杯突き飛ばされた。
真っ赤な鮮血が飛び散った。
翔冴は女の手を優しく握りしめると、それをさらに自分の体に深く突き立てた。
「……くっ」
血の塊を吐きだして、膝から崩れ落ちる翔冴。凶悪な事件に何度も直面してきた若い刑事たちは、自分たちが何をすればいいのか一瞬わからなくなる。
「翔冴…………嘘でしょ? なんで? 私を愛してくれていなかったの……? 私はなんだったの?」
パニック状態なのか、錯乱状態なのか恋人の名前を呼ぶ女は自分が刺してしまったことが信じられない様子だ。
血に濡れた両手を見つめて放心した。
「直ぐに救急車一台寄こせ!!!」
悠希が携帯電話に向かって怒鳴ると、突き飛ばされた大槻が我に返って翔冴の応急処置をはじめた。
「…………ムリだよ」
掠れてくぐもった翔冴の声。
大槻はベッドカバーに引きちぎり、刺された翔冴の腹を強く圧迫した。
真っ白なベッドカバーは、すぐに赤く染まった。噴き上げるように流れ出る血液は止められない。
「諦めない……なんでこんなことをしたんだよ。他の選択肢もあっただろ」
大槻はまたカバーを引き裂いて止血する。
「俺は、このみを愛していた……それなのに、不幸にしてしまったから……」
「おまえのせいじゃない!」
「俺の……せいだ……」
翔冴の手には、黒々とした女の髪が握りしめられていた。
「これで……いいんだ………」
「いやぁ……翔冴っ!」
翔冴の瞳が光を失っていく。
知的で優しかったり冷たかったりする瞳が弱まっていく。
「ありがとう……このみ」
「イヤァアアア!!!」
翔冴の手が床に落ちる。手にしていた切り取られた髪が翔冴の身体を覆うように舞った。
最後に大きく息を吸い込み、その瞳は二度と開かれることはなかった────
大槻は諦めずに必死に蘇生を試みも翔冴は人形のように横たわる。
「大槻……もうやめろ」
「悠希も手伝えよ! この先生からは、まだ聞かなきゃいけないことが沢山あんだよ!」
「大槻、やめろ。命令だ」
「煩い! おまえも手伝え!」
「やめろと言ってるだろ! もういい勝手にしろよ!」
悠希は床で号泣している女の手を掴む。
「刑法二百四条傷害罪により現行犯逮捕する。おまえ……倭凛菜だな?」
翔冴が東京に姿を見せ、その夜に倭凛菜が失踪している。
「違う……私は倭凛菜じゃない……翔冴が突然現れて私を瀬尾このみにしてくれるって言って……愛してるって言ってくれた」
悠希は情け容赦なく、凛菜に手錠をかけた。
「法の元では、人は他人になりすますことはできない」
砂利道を駆け上がるサイレン音が聞こえてきた。
「本当に愛してくれるって言ったの……だから、私も本気で翔冴を愛した。それなのに翔冴は、嘘をついた。私にナイフを渡して、俺はこのみしか愛せないって言うの……ねぇ、なんで私を愛してくれなかったの……なんで? ねぇ、なんでよ! 翔冴!」
翔冴は、もう答えをくれない。
真っ赤な血の海に白い薔薇の花が散っていくわ。その凛として美しく穏やかな顔を悠希は睨みつけた。
しがない田舎の県警では、黒山の人集りと報道陣が溢れかえっていた。パトカーの後部座席に悠希と大槻、その真ん中には凛菜が座っている。
「この様子だと、明日の新聞の一面は決まりだな……」悠希が悠希らしくないことを呟いたが大槻は反応しない。
「本庁の捜査官が来たぞ!」とカメラマンが声を張り上げた。フラッシュが一斉にたかれる。
大槻はくたびれたスーツのジャケットを凛菜に頭からかけてやる。
「翔冴の血の匂いがするね……」
「仕方ないだろ、それしかない。我慢しろ」
「ううん……嬉しいの。私が愛した唯一の人は、私のモノね。このみじゃなくて私が殺したんだもの」
悠希がバックミラーで凛菜を睨み付けた。血だらけのジャケットを愛しそうに抱き締めて泣く女に腹がたった。
「おまえ、身代わりにされたんだぞ? 自分を刺すために用意された身代わりだ。愛してるならそんなことに利用したりしたい」
凛菜はハラハラと涙を流した。大槻は、黙って俯いた。その横顔は落胆が隠せない。
「いいの……私は幸せだった。翔冴は優しい人だったもの」




