逡巡
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腕の中で眠るこのみを起こさないようにベッドから抜け出した。
もうすぐ夜明けだな……と翔冴は目を細めてみた。昨夜から一睡もできずにいて、睡眠不足で少し体が重い。
瀬尾家の二階の南側には一際大きな出窓がある。木枠にはめ込まれた六枚のガラス、そこからは消えてしまいそうな月が見えていた。
丘の上に建つ屋敷の窓からは、暗い海と町もよく見渡せる。
切ない程に少ない町の明かりは、白みだした空によって救われるだろう。
翔冴がため息を吐き出すと、ガラスは白く曇る。
「車がいるな……警察か」
屋敷の敷地外の道から、微かに白い煙があがっている。車の排気ガスだろう。こんな時間にあの道に路上駐車をしていなければならない車。その正体は容易に想像できてしまう。
「俺は逃げないよ……ご苦労様」
ガラスに触れると、冷たくて氷に触れているみたいだった。翔冴の体温で曇る窓ガラス。月はますます弱々しく見えた。
「……もう終わらせようか、このみ」
太陽が顔を出すと、翔冴の薄茶色い髪が銀色に光る。額もガラスに押し当てた、太陽の暖かさなんて僅かなものだ、ガラスから体中の体温が奪われていく。
寝室のベッドには、何も知らないこのみが眠っている。その姿を見ていられるのも、あとわずかだ。
いや…………時間なんてものは、あの時から止まってしまっていたんだ。自分は何を見ているんだろうか。
「終わらせないと……」
翔冴の声が震えた。曇った窓ガラスを伝って涙もこぼれ落ちた。
「このみ……愛してる」
愛しい名前をあと何回声にすることができるだろう。
人を愛することを教えてくれた、喜びと希望で満ち溢れた時はあまりに儚くて短い。
女なんてただ温もり欲しさに利用するだけの玩具だと考えていた。
愛する本当の意味なんて理解していなかった。
だから、愛することがこんなにも苦しいなんて知らなかった。
もし、自分が普通の家庭に生まれていたなら……もし、自分が親からの愛情を受けて育ったならどんな恋愛をしたのだろう?
翔冴は自分が普通の家庭に育つことが想像すらできない。普通というのが、どんな正体なのかを客観的にしか知らないからだ。知っているのは自分が普通じゃない両親のもとに産まれてきてしまったということだけだ。
基準を替えてみる。
今日やってきたあの大槻という刑事はどんな家庭に育ちどんな愛情を受けてきたんだろうと……
彼は真っ直ぐな目をしていた。普通の両親がいて刑事になったに違いない。
頭は良さそうだった、きっと努力はしている。
体も丈夫そうでいて顔つきから見ても健康そのものだ。それに女にもモテそうだ。あの喋り口調と風貌で、全く女に縁がないなんてことはないだろう。
やましい心など持たずに、クリアでいて深く澄んだ心を持っている。
彼ならば、普通に恋人をつくり、愛し合い、結婚をして子を持つかもしれない。
そして愛情を与えて子を育てていくことをいとも簡単にこなし、人生の大仕事を終えていくことができる。
……あの大槻という男ならば、そういう未来が容易く想像できる。
自分には、それを叶えることができない。そんな資格はない。愛情を与えてやることの本質を自分はどこかで見落としてしまった。いや、最初から備わってなかった。
指先の感覚が消えていく。生きている証が奪われていく。
窓の外は明るくなってきた、真っ白な月は間もなく消えてしまう。
あの月が全てを見ていた。
月が全てを知っている。
────助けて欲しい……こんな苦しみから早く解放してくれ……俺なんか、生まれてこなければよかったんだ。
翔冴の涙は止まっていた。神々しい程美しく、そして冷めた表情で太陽に照らされていた。
「愛してる……このみ」




