瘡痕1
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翔冴の父親は県会議員を四期勤めた地元では有名な政治家だ。四期目の途中で辞職し、参議院議員選挙に出馬。
二十代の若き立候補者に敗れてあえなく落選。現在も機会があれば国政に……と闘志を燃やす熱い政治家だ。
翔冴の中で父親の思い出と言えば、過去四回の当選の際に一人息子である自分を力強く抱き締めてくれた。当選祝いの席で、見知らぬ大人とマスメディアの前だけで触れ合った思い出だけがぼんやりと漂っている。
モデルルームのような生活感のない家で、翔冴は一人幼少期を過ごしてきた。
選挙と公務に駆け回る父親。それを支える母親。邪魔者な自分。
夜遅くに帰宅する両親に『忙しいからお前はあっちに行って勉強してなさい』と自分の部屋を指さされた。
食事はいつも一人、好きな時間に食べる。冷凍させた食べものを解凍する。何を食べても同じ味がした。
誕生日やクリスマスには、自分の欲しい物はなんでも買ってもらえた。パーフェクトにラッピングされたプレゼントだけが机の上に置かれていた。直接渡されたことなんて一度もない。小遣いは銀行に振り込まれた。
両親は、数年後の確実な一票の為に自分を育てているんだと思っていた。
けれども、良い教育を与え、立派に育った息子は一票とはいわず、さらなる票を集める為の道具にしかすぎなかった。
今ではその両親とは、ほぼ絶縁状態だ。翔冴が道具にされることを拒否した。ならば、そんな息子は要らないと言われた。
自分の存在価値がわからない。
彼は人知れず、寂しさに埋もれて心に深い瘡傷を負っていた。それを理解してくれる人は誰もいなかった。
本気で愛されてみたかった。
翔冴は人が人を恋しく想う時にどんな手を差し伸べてやればいいかを、よく知っていた。
人が生きていく為に何が一番必要かも知っていた。
眠れぬならば、一晩中寄り添ってやればいい。
涙を流すならば、ただ背中を貸してやればいい。
寂しいのなら、温もりを。切ないのなら、労りを。辛いのなら、優しさを。翔冴が密かに欲してきたことばかりだった。
「クロックムッシュ?」
「そう、洒落てるだろ? この田舎町にもそんなものを販売する店があるんだ」
晴天の昼下がり。瀬尾家の庭園のベンチで遅い昼食をとる翔冴とこのみ。
部屋に閉じこもってばかりいるこのみに、庭で昼食をとろうと誘ったのは翔冴のほうだった。
コートにショールを羽織ったこのみは嬉しそうに翔冴が買ってきたクロックムッシュを頬張る。
「美味しい。翔冴」
「よかった。普段は行かない店なんだけど、君が喜ぶかと思って」
このみは満ち足りた顔をする。幸せで愛される女の一番慈愛に満ちた表情だ。
冬独特のピンと張り詰めたような空気。それを和らげる日差し。色合いが少し寂しい庭園だが、芝生は青々としている。蔦が這う洋館も今日は日向ぼっこを楽しんでいるようだ。
「ねぇ、翔冴。私いつまでここにいればいい?」
その質問に翔冴は動きを止めた。
このみは無邪気に首を傾げた。その胸中は淡い期待で満ちている。
────こんなに愛されている。自分も精一杯翔冴を愛している。だから、きっと新たな生活は二人一緒。凄惨な事件を思い起こすこの屋敷を離れても、二人は永遠と共に過ごせる。
翔冴の色素の薄い髪は、太陽の下でもキラリと輝く。月夜の白銀も美しいが、太陽の下でもその美しくミステリアスな容姿は健在だ。
光は翔冴の周りだけ特別な輝きを与えているのかもしれない。
「お喋りはやめて食事をしよう。少し痩せたかな」
その冷たい一言に、このみの視線は不安定に揺れた。自分の期待していた一言とは違ったからだ。
「なんで……?」
「このみ、俺は食事中に無駄な話をするのを好まない。それだけだ」
翔冴の柔らかな笑みに、このみも微笑んで小さく頷いた。
拒否ではなく答えを延期されただけ。
クロックムッシュは貧血のこのみへの配慮か、ほうれん草とクリームチーズをサンドしたものだったのでそれも愛情だと信じることでこのみは堪えた。




