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これは夢だ。
あたしは西脇と手をつないで、でもやっぱりうつむいてホームに立っている。
「真中」
うん、何?
西脇はあたしの手をぎゅっと握って、あたしはちょっぴり痛い、この感覚に酔っている。
「今日、どうすんの?」
え?
映画、と西脇は機嫌悪そうに言った。
なんか、面倒かも。
すっかりうつった口癖。違和感がない。
「やめる?」
うん、やめる。
「帰る?」
帰らない。帰らない。
「じゃあ、どうすんの?」
わかんない。電車きたら、とりあえず乗る。
「そうだけど」
西脇はいろんなことを話してくれた。
漫画が好きなこと。数学は父親にしごかれて嫌いだったこと。でも今は好きなんだってこと。高校でたらとりあえずは大学に行って、サークルに入って、合コンの幹事とかするんだって。
「真中は?」
「あたしは、何でもいい。あたし、捕まるかもしれないし」
「は?なんで」
「人を、殺したから」
「は?」
ゴオーッと電車が入ってきた。
西脇が手の力を緩めた。その途端の悲しい気持ち。いつかは忘れそうな、その悲しみ。そういう瞬間、あたしはやっぱ一人なんだって、強く感じる。あたしは逃げているのかもしれない。今、こうやって、西脇と語り合うことさえも。
「真中、おまえ男と付きあってんだって?」
ヤクザみたいにぞろぞろと群れて歩く女達の、殺気立った空気と、いい加減な言葉たち。
それが押川と仲間のものだってことはすぐわかる。あたしの机を取り囲む。それが何を意味するか、それもあたしにはわかるけれど、これから何が起こるのかははっきりとはわからない。心の準備は済んでいるけど、今日は体が持ちこたえるか保障はない。
「お前さあ、なんにもできないような顔して…なあ、こっちこいよ」
「付き合って、ない」
その言葉は自然にでてきすぎた。あたし自身、本当にそうだったかもしれないと思うくらい。嘘をついて、後から後悔する気がしない。
「嘘つくんじゃねえよ」
押川じゃない、誰かが凄んで言う。
「嘘、じゃない」
「てめえ」
あたしは、ほっとしていた。この瞬間を待っていたのかもしれない。嫌なことも、忘れたいことも、どうでもいいことも、幸福さえ、全部、通りいっぺん、全部流す。
これがあたしのやり方だった。そう、忘れるとこだった。手に入れて悲しくなるくらいなら手に入らないほうがいい。離されるなら、最初から掴まれたくはない。
黄色とパープルのマーブル。今が、逃げる瞬間だ。
「真中?」
ぼこぼこに殴られて、教室の隅でうずくまっていたあたしの頭に、長くて細い、西脇の指が触れた。
「触らないで…」
「大丈夫か?」
「さわら ないで…」
西脇の指がすっと離れるのを感じる。ねえ、こんなに、こんなに嫌だと思っている。嫌なことがふりかからないように、頑張って避けてきたのに。こうなることは、全部わかってたはずなのに。
その時あたしを包んだのは、絶対に起こってはならないこと。
「真中、無理すんなよ」
西脇の手、胸、髪、指、制服の匂い、全部がぴったりあたしに張り付いて、包み込んでいる。すがりたくはないと思っていた胸が、離れたくても離れられないくらいに強くここにある。ねえ、どうして、あたしの感情はこんなに、こんなに揺れているんだろう。
「西脇、あたし、怖い。」
カラカラの目であたしは遠くを見ている。西脇の体温だけ、かろうじて感じている。
「大丈夫」
あなたを、失う自分が怖い。この、ポケットティッシュ一個。くだらなくて小さな自分が、怖い。