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逃亡  作者: 柳岸カモ
8/10



7・






喫茶ドルフィン。何かいいことがあったら、その日入ろうと決めていたお店。キオスクのパンをかじりながらベンチに座って、ここで飲むコーヒーを想像していた。きっと温められたカップが出てくる。いい味なんだろうな、なんて勝手に想像して、にやついて、気味悪い。


「ここ」

「ああ、ここね」

西脇は無感動に入っていった。後ろについて入る。

「いらっしゃいませ、何名様…」

 マスターの声に応えて西脇はVサインを作った。

「…かしこまりました。奥のお席へどうぞ」


西脇がここ、という席に座った。思った通りの柔らかい空間。椅子。壁。香り。

「何、する?」

西脇がメニューを広げてこちらに向けた。

「…どうしよ」

「真中さんと同じでいいよ、俺」

あたしは鳥肌が出るのを感じた。少しだけ、寒い。あったかいはずなのに、どうしてだろう。


「じゃあ、カフェオレ」

「ん」

西脇がマスターに手を振った。

「ご注文、伺います」

慣れた風なマスターに、慣れた風な西脇。ちらっとあたしを見てから

「カフェオレ、二つ」

と西脇。

「かしこまりました」

『わたしのお気に入り』っていう曲が流れてるのに気付いた。ちょっと伏線強すぎない? そんな偶然の産物。


西脇は鞄からノートを取り出した。それはベータでもなくアルファでもなく、現代文のノート。ぴらっとめくる。

「これ…」

 そこにあったのは所狭しと書かれた数式、図。書き殴ったそのページに目を奪われる。

「…これ、何」

「俺の数学のノート」

「すごい」

「俺、数学結構、好きなんだ。点は取れないけど」

 

しばらくそれを見つめて、考える。数式は、図は、どれもこれもベータの範囲だ。でも、

「でも、なんで現代文なの」

 西脇もしばらく黙って、考え込む。

「…いや、なんか、一生懸命みたいの、嫌いだから。この授業の時だけ勉強してんの。部活とかあるし。」

西脇は照れているのか、真剣なのかわからない顔で言った。

「俺、真中さんみたいになりたいんだと思うんだけど」

 今度は照れているのがわかった。

「いや、なんか、模試は取れる、みたいなさ、そういうの、かっこよくねえ? 普段は勉強してないけど、みたいなさ」

 みたいな、みたいな、のテンポが速い。この人もしかしたら、

「あたし、数学しか」

思い切って顔をあげて驚いた。そこにあったのは、西脇の怒ったような顔。

「数学で、いいじゃん。十分」

「でも(あたしいじめられてるし、はぶられてるし、それに)」


「何、」

「努力、してない。だって、数学は勉強するもんじゃないでしょ」

「腹立つこと言うね、あんた」

 西脇は何もわかっちゃない。あたしが、どんなに根暗で、ひきこもりみたいで、いちいち細かいこと考えて、気にして、そんなのもうどうだっていいけど、とにかく

「でもね、聞いて」

 慌てて付け加えるように言う。西脇は怒ったような顔を変えない。完全に、怒らせた。嫌な奴だと思われた。そう悟ったら、悲しくて痛かった。それなのに、少しだけ安心したような、落ち着いたような感じがした。


西脇はノートの一番後ろの白紙のページを出して、ペンを持った。

『真中』

そう書いて、あたしを見る。あたしは脱力した体を起こして覗き込む。

『たぶん』

またあたしを見る。

「なに」

その時の、西脇が何て書こうとしているか、あたしには二つの予想。一つは普通のこと。もう一つは、

「やめて、もういい。お願い」




「カフェ・オ・レ でございます」

コト、コト、と薄いカップのカフェオレが置かれたテーブル。ノートと、『真中、たぶん』と、沈黙。

マスターは察して、黙って奥に引っ込んでいった。その靴音は、ホームへ続くのかもしれない。



「俺、」

穏やかな表情の西脇。

「やめて」

 さっきからじっと、西脇を見つめている。あたしは、きっとこの人が、二つ目の予想を引き起こしそうで

「なんで」

「あたし」

怖い。無防備なあたしがどうやって西脇から身を守るかを考えただけで。あたしは、酷いことを言う。もしかしたら殴るかもしれない。目の前の温かな飲み物を、ぶちまけるかもしれない。

ごほっ、ごほっ。

咳き込むあたしに西脇が言ったのは

「好きかもしれない。」


 予想は見事に的中した。痛い、この人、痛すぎる。

「だから」

悪魔がささやく。黄色とパープルの渦巻き。胃空間へ逃げろ、脳がそう指令を出している。準備は少し足りなかったけど、多分間に合う。そういう指令。ドクドクと何か流れる。飲み込まれそう。倒れそう。


「だから、やめてって言ったのに」

「でも、好きかもしれないし」

西脇。

完全にやられていた。あたしのほうが好きかもしれないじゃないか。

 

『好き』

そう書いて、西脇はページをちぎった。二つに折って、『西脇 恭平』と書く。それを見ていた。見ていたら泣けてきた。

「泣いてんの?」

 こくこくうなずくと、西脇は困ったような、でも嬉しそうな顔をした。


喫茶ドルフィン。

私のお気に入り。

 ねえ、父さん、ここには父さんはいなかったけど、でもあたしは良かったって思う。こんなにしょっぱい涙、久しぶりかもしれない。

 手紙らしきノートの切れはじを受け取って、カフェオレを飲んだ。

 味は、まあまあ。

よく覚えてないとは言いたくはないから。


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