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喫茶ドルフィン。何かいいことがあったら、その日入ろうと決めていたお店。キオスクのパンをかじりながらベンチに座って、ここで飲むコーヒーを想像していた。きっと温められたカップが出てくる。いい味なんだろうな、なんて勝手に想像して、にやついて、気味悪い。
「ここ」
「ああ、ここね」
西脇は無感動に入っていった。後ろについて入る。
「いらっしゃいませ、何名様…」
マスターの声に応えて西脇はVサインを作った。
「…かしこまりました。奥のお席へどうぞ」
西脇がここ、という席に座った。思った通りの柔らかい空間。椅子。壁。香り。
「何、する?」
西脇がメニューを広げてこちらに向けた。
「…どうしよ」
「真中さんと同じでいいよ、俺」
あたしは鳥肌が出るのを感じた。少しだけ、寒い。あったかいはずなのに、どうしてだろう。
「じゃあ、カフェオレ」
「ん」
西脇がマスターに手を振った。
「ご注文、伺います」
慣れた風なマスターに、慣れた風な西脇。ちらっとあたしを見てから
「カフェオレ、二つ」
と西脇。
「かしこまりました」
『わたしのお気に入り』っていう曲が流れてるのに気付いた。ちょっと伏線強すぎない? そんな偶然の産物。
西脇は鞄からノートを取り出した。それはベータでもなくアルファでもなく、現代文のノート。ぴらっとめくる。
「これ…」
そこにあったのは所狭しと書かれた数式、図。書き殴ったそのページに目を奪われる。
「…これ、何」
「俺の数学のノート」
「すごい」
「俺、数学結構、好きなんだ。点は取れないけど」
しばらくそれを見つめて、考える。数式は、図は、どれもこれもベータの範囲だ。でも、
「でも、なんで現代文なの」
西脇もしばらく黙って、考え込む。
「…いや、なんか、一生懸命みたいの、嫌いだから。この授業の時だけ勉強してんの。部活とかあるし。」
西脇は照れているのか、真剣なのかわからない顔で言った。
「俺、真中さんみたいになりたいんだと思うんだけど」
今度は照れているのがわかった。
「いや、なんか、模試は取れる、みたいなさ、そういうの、かっこよくねえ? 普段は勉強してないけど、みたいなさ」
みたいな、みたいな、のテンポが速い。この人もしかしたら、
「あたし、数学しか」
思い切って顔をあげて驚いた。そこにあったのは、西脇の怒ったような顔。
「数学で、いいじゃん。十分」
「でも(あたしいじめられてるし、はぶられてるし、それに)」
「何、」
「努力、してない。だって、数学は勉強するもんじゃないでしょ」
「腹立つこと言うね、あんた」
西脇は何もわかっちゃない。あたしが、どんなに根暗で、ひきこもりみたいで、いちいち細かいこと考えて、気にして、そんなのもうどうだっていいけど、とにかく
「でもね、聞いて」
慌てて付け加えるように言う。西脇は怒ったような顔を変えない。完全に、怒らせた。嫌な奴だと思われた。そう悟ったら、悲しくて痛かった。それなのに、少しだけ安心したような、落ち着いたような感じがした。
西脇はノートの一番後ろの白紙のページを出して、ペンを持った。
『真中』
そう書いて、あたしを見る。あたしは脱力した体を起こして覗き込む。
『たぶん』
またあたしを見る。
「なに」
その時の、西脇が何て書こうとしているか、あたしには二つの予想。一つは普通のこと。もう一つは、
「やめて、もういい。お願い」
「カフェ・オ・レ でございます」
コト、コト、と薄いカップのカフェオレが置かれたテーブル。ノートと、『真中、たぶん』と、沈黙。
マスターは察して、黙って奥に引っ込んでいった。その靴音は、ホームへ続くのかもしれない。
「俺、」
穏やかな表情の西脇。
「やめて」
さっきからじっと、西脇を見つめている。あたしは、きっとこの人が、二つ目の予想を引き起こしそうで
「なんで」
「あたし」
怖い。無防備なあたしがどうやって西脇から身を守るかを考えただけで。あたしは、酷いことを言う。もしかしたら殴るかもしれない。目の前の温かな飲み物を、ぶちまけるかもしれない。
ごほっ、ごほっ。
咳き込むあたしに西脇が言ったのは
「好きかもしれない。」
予想は見事に的中した。痛い、この人、痛すぎる。
「だから」
悪魔がささやく。黄色とパープルの渦巻き。胃空間へ逃げろ、脳がそう指令を出している。準備は少し足りなかったけど、多分間に合う。そういう指令。ドクドクと何か流れる。飲み込まれそう。倒れそう。
「だから、やめてって言ったのに」
「でも、好きかもしれないし」
西脇。
完全にやられていた。あたしのほうが好きかもしれないじゃないか。
『好き』
そう書いて、西脇はページをちぎった。二つに折って、『西脇 恭平』と書く。それを見ていた。見ていたら泣けてきた。
「泣いてんの?」
こくこくうなずくと、西脇は困ったような、でも嬉しそうな顔をした。
喫茶ドルフィン。
私のお気に入り。
ねえ、父さん、ここには父さんはいなかったけど、でもあたしは良かったって思う。こんなにしょっぱい涙、久しぶりかもしれない。
手紙らしきノートの切れはじを受け取って、カフェオレを飲んだ。
味は、まあまあ。
よく覚えてないとは言いたくはないから。