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「あの、」
廊下ですれ違った男子に引き止められた。私はうつむいて歩いているから顔は見えない。見ないようにしている。決して顔はあげない。顔をあげて堂々と歩く自分のいる世界は眩しすぎて、きっとあたしは宇宙服でも着ないと生きられない。栄養はチューブか何かから補給する。酸素はボンベから送られてくる。あたしの体は、人工物によって完璧にコントロールされている。
「あのさ、これ」
厚いゴーグルを通して見えたのは、試験の順位表。それを持った男子の手。硬そうな、指。大きな爪。
「真中さん、だよね、あんた」
こくり、と垂れた頭をさらに深く曲げる。ガシャ、ガシャとロボットの動く音がしそう。笑いそう。
「あのさ、これ、いつも見てんだけど」
向き合っていた男子は、私に並んで続けた。
「いつも載ってるよね、名前。」
黄色のラインマーカーで印のついた名前。ゴーグル越しに見える黄色はきっと、地球では赤か、ピンク。なんてね。どれどれ、といった具合に覗き込む。
数学2B 1位 4H 真中 淳
「すげえよな、ってかさ、あんた、いつも1位じゃん。」
瞬間、男子を振り切って私は走りだす。
ついてくるな。
その声はもちろん声にならない。顔が熱い。顔も、身体も、変。宇宙服は重すぎてすぐ脱げない。遅いのはそのせい。
思春期の男子の笑い話みたいだ。エロ本隠しといたのに、母親に見つかった、そんな感じ。しかも読んでた現場を押さえられた、そんな大きなショックと、どうしようもなさ。悲喜劇、ワン・ツー・スリー。
「まーなかさん! あんた、なんでアルファは受けてないんだよ!」
男子の声が廊下中に響く。
「まーなーかさーん!」
恥ずかしい。バカ。
あたしは、その男子に何もかも知られた気がして、ただただ、思考を停止させようとする。それでも思考は巡る。くるくるくるくる、次々に起こる思考。回路はショートする。もう、ダメだ。普通に、考えよう。走りながら、ゆっくりとだけど風を感じながら、何処で立ち止まるか考える。ここを曲がったら、とりあえず止まろう。
廊下は滑りやすくなっている。
試験の順位表は初めて見た。いつも成績表で順位は知っていけど、あんな風にみんなの目につくところに自分の名前が載っているとは…おちつかない。担任の教師からもよく言われた。数学ができるんだから、何も卑下することはない。ここは進学校。君みたいな生徒はみんなの刺激になるんだ、と。
あたしは「はい」「はい」「はい」と言いながら空間を移動する。いろんな空間の扉を引いたり押したりしながら時間をつぶす。くだらない教師との出会いに、開ける扉はみつかりっこないから、別の扉を必死で探す。うつむいたまま、手の甲をさすりながら。
「アルファも、受けてくれて構わないんだ。他の生徒のことを気にする必要なんてないんだ。」
「はい」
こんなとき、父さんはこう言うと思う。
「テストなんか、別に受けなくていい。淳は普通でいい。」
この言葉が、あたしを救う。愛は地球を救う。
あたしも父さんも、他人のことを思いやるほど、優しくは絶対ないけれど。
私の中の悪魔が動き出すのは、ベータの試験の時だけ。その時だけ、私は逃げることさえ忘れる。悪魔がささやくから。
お前が親父を殺したのか!
そうだ、と認めたくない私と認めてしまった私。マーブルに混ざっている。黄色とパープルの渦。飲み込まれないように、かじりついてペンを走らせる。気付けば試験時間は終わっている。真っ黒の解答用紙。達成感とは程遠い感情。あれは逃げた後の、落ち着かない感情。誰かが追ってくる。また、逃げなくちゃいけない。休む暇はない。
でももうへとへとなんだ。
「あ!真中さんだ」
成績表男子は、あたしを廊下で発見すると、決まって声をかけてくるようになった。最初は無視していた。でもしつこいので無視しても意味が無いことに気付いた。それから、不覚にもあたしはこの男子の前で宇宙服を脱いでしまった。すぐに逃げられるようになのか、慣れてしまったからなのか。
「今度―俺にすーがく教えてもらえないっすかー」
靴の踵がつぶれている。
踏み潰したんだ。
最低。
そんなかしこまった風もない男子に、何か言いたくなってつい、
「それは、」
言ってしまった一言。
「うん、それは?」
男子の顔が、あたしを覗き込む。背が高い。威嚇されてるみたい。負けないぞ。見ないぞ、うつむく。ゴーグルだけ着けた、へんてこりんな武装。
「ただで?」
「えっ」
本当に驚いたように言う。ゴーグルを外して、ふっと顔をあげる。考え込むように顎に手をあてる仕草が、少しわざとらしい。
「いや、ただ、んー、うん、そう。ただで。だってさ、教えるとためになるよ?」
ため…。なんて、テキトウな言葉。どこから出てくるの、 そんなの。聞いてやりたくなる。意地悪な、性格。宇宙服はきっと、宇宙の果てで粉々になっている。集めることはもちろん可能だけど。
「ためになることって、ただなの?」
沈黙、数秒。
なにかおかしなことを言ったような気がして、訂正しようか考えていると
「そう、うん、たぶん、ただ。だって真中さんにも得になってんだよ?」
男子は爽快に言った。
くそ。ふうん、と言いながら考える。あたしの得。じゃあ、あたしの損は? 並んで歩く男子の、骨ばった手首を見ている。ふっと浮かんだ計画。
「いいよ。教えてあげる。」
まじ?
男子のその声がこびり付いて、引っかき傷みたに痛かった。