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4・
日ざしに舞い上がる砂埃。
陽炎と眩暈。
緑と赤。
なぜ、なぜ。
脳は停止しようとする。
乱暴な命令がただそこにいるだけで、
ただ停止するのが時間で、あとは全部同じ。
走れ、速く、走れ!
足は不自然だ。
きっと粘りついた体液にまみれてしまったんだ。
地面にたたき付けた。
砂が口の中で分解される。
なぜ、なぜ。
風一つない。
起こしているのは私の鈍った体。
どうか、どうかこの耳を、目を、肌を、全てをここへ預けさせて。
登るんだ!
命令は、体の奥底からの慟哭。
荒い息。
なぜ、なぜ、なぜ!
走れ、速く走れば全てがお前を待っている…
もう、だめだ。
目の前の光景。
絶望と呼べないとしたら、
それはきっと最上の幸福だ。
もう…あたしは失うんだ。
何もかも、全てを爆発させれば救われる。
声は山を割り、
ひとつの命が、今、消えた。
救えなかった命と交換に、
一瞬で、巨大な岩山は轟音と共に砕け散った。
もう二年経つか、父さんが死んでから。
アルバムをめくりながら長い溜息をついた。
死んだ父さんとの思い出は、多い。
それは写真なんかじゃ残しておけない、断片的で細かなもの。
コンビ二のマフィン、車のダッシュボードの中のキャラメル、二人で行った、父さんの好きなお店、ホームセンター、休日の園芸屋。
父さんはいつだってへらへら生きていた。いつも何かに疲れていたり、何か考えていたり、何か歌っていたり。私は、そういう父さんを何とも思っていなかった。当たり前にそこにいて、当たり前にだらだらしていたからだろう。
私が何をしていたって、父さんは何も文句を言わなかった。なぜだろう。今となっては、もう誰にもわからないことだ。
葬式は泣いた。涙はしょっぱくなかった。本当にしょっぱかったのは父さんの頬だ。父さんは泣いていたから。それを見て、私も泣いた。本当は父さんの顔に塗られた死化粧がしょっぱかったのかもしれない、と今になって思う。
病院に担ぎ込まれ、息を引き取ったのは午後一時くらい。
カーテンの中で、父さんは静かに固くなっていた。母さんの嗚咽。響いて、胸に突き刺さった。立つことさえできなくなった母さんは、車椅子に座って、開いた瞳孔であたしを見た。
嗚咽。嗚咽。
叫び声。
塞げない耳。
まだ鳴っている。いつ鳴り止むのかはわからない。多分、あたしの頭痛の原因はこれ。キイン、キイン、ゴン、キイン、キイン。左手で耳をそっと塞いでみた。
何度夜を重ねても、癒されない悲しみがある。
でも、何度朝を迎えても消えない喜びは、ないのだ。
なぜ、父さんが死んだのか。私は目をつむる。
あの時放ったあの言葉。
「今日は、いいや」
それが父さんを追い込んだのでは?そんな気がする。
そして今、あたしは逃げながら生きて、そしてそれでもやがてくる父さんの命日を何度も迎え、過ごし、やがてこの苦しみを抱えたまま死んでいく。私だって、いつまでも逃げているわけではないだろう。いつかは入るべきところに入って、一生を終える。そう考えると、少しは楽になる。
「今、行くよ」
そういう一言が頭をよぎらなかったといえば、それは嘘になる。なぜあの時のあたしは、その世界へ行けるはずだったのに選ばなかったのだろう。まだわからない。たぶん、センスがないんだ、今も昔も。咄嗟の判断のセンス、タイミングみたいなのが苦手だ。
際限ない悲しみはあっても、際限ない命はない。私は死にたいんだろうか、それとも、生きたいんだろうか。
おや、ここに落ちているのは死への切符か。私は握り締めて、改札へ向かう。ホームには父さんがいるんだろうか、いないんだろうか。やってみなければわからないだろう。
かつ、かつ、かつ、
「ちょっと、あんた危ない!」
はっと我に帰る。黄色い線を越えた体は、あと少しで電車のスピードにもって行かれるところだった。サラリーマン風の男の人が駆けよってきて「あぶないよ、あんた。ぼんやりしてちゃ」と真剣な顔で言う。その顔がすごく現実離れしていて、あたしはちょっと笑いそう。
(あたしは死に損ないの、くずだ。死ぬことさえできない。)
大きく溜息をついて2、3歩戻って、元のように電車を待つ。
「気をつけなよ。」
この人はきっと、あたしに施した善意で明日も生きていけるんだ。そうしみじみ思った。
何の意味もない救い。それは自分から発して、自分にだけ戻ってくる、利己的で幼い感覚に似ている。あたしはその男の背中を見つめて、いつか天罰が下ればいいと願った。