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逃亡  作者: 柳岸カモ
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2・





 

長い長い授業が始まると、私は瞑想の中、いろいろ考える。

なぜこんなに授業はつまらなくて長いのか、なぜ高校生の女子は足が太いのか、いや細い人はいる、ごくまれに、いや、それはあたしの感じ方のせいなのか、いや、それは…違う、そんなことはいい、なんで受験までしてこんな高校に入ったんだっけ?黒板は緑。先生は教師で大人で、労働者。でも先生ってだけで無条件に尊敬されて、世間って変。そういえば今日の朝のパン、なんかおいしくなかったな。なんで? だってクリームが少なかった。甘いのが好きなのに、パンばっかりじゃ、味気ない。酸っぱかったのは、そのせい。そういえばコンビ二のパンって添加物が少ないんだったっけ? そこに掛かってるコンビ二の袋、リサイクルって書いてあるけど…

ふと、隣の席を見ている自分に気付いた。となりの席の机の横に掛かった、ビニールの袋。まるでそこから生えたように投げ出された、二本の白くて細い脚。その先にあるのは踵をつぶした靴と、揃えられた小さなつま先。じっとそれを見て大当たりだと思う。金色の玉が出たような、そんな感じ。ハワイ旅行に、風呂でも見られるテレビまでついてくる。カランカラン、鐘がなる、耳の奥。


カチカチカチ…

微かな音。合成樹皮の擦れる音。組み替えた脚から視線をあげる。ビニールよりさらに上。となりの女の子が、机で隠しながら携帯をいじくっている手が見える。横からだとハッキリしたものだ。時々が笑顔で、ほとんどが無表情のその子の横顔を眺めながら、あたしはやっぱり何もせずにいる。ぼんやりと、ただ何もできずにいる。

その子のエンブレムの刺繍が、日の光を受けてきらっと光った。きれいだな。あたしの刺繍は、曲がって錆びて、泣いているのに。どうして錆びた? あ、そっか、握りすぎたせいか。半分でくっきり曲がった自分の胸元のそれを見る。何も入っていないポケットと、への字に曲がった、かわいそうな、高級品。これは違反かもしれないぞ、ふっとそう思った。隣からは相変わらず、カチカチカチカチが聞こえる。教室は午後のまどろみの中、ぬるい空気が充満しているから、眠たくなるのは当然だ。酸素が薄い。時々どこからともなく大きな溜息が漏れる。「早く終われ」「時間、早く進め」そんな抗議みたいな、長い吐息だと思うと、ちょっとエッチだ。

相変わらず、隣は真剣に機械と向き合っている。相手は今どこにいるんだろう? もしかしてこの教室の中にいる? それとも地球の裏側? 

髪に手をかけて、微かに彼女が笑った。それは、小さい画面の中の文字に向けられた軽蔑なのか、つながっている相手に対する微笑なのか。おかまいなしの授業は進み、緑板は白の記号で埋まっていく。そんなのも全部、網膜に映し出された一枚のフィルム。でも、この子はそんなのに無頓着。機械でのやりとりに没頭していられるんだから。

(なんでそんなに楽しそうなんですか?)

そんな疑問が湧き起こるのは、あたしが、受け入れられない感覚を必死にかき集めているから。あたしが、生きているってことだから。


「真中さん」


指名されたのは、あたしのよそ見がばれたからじゃない。あたしの出席番号が、日付と重なったから。それだけの理由で、あたしは教師で労働者のあの人と目を合わせる。でも、次の一秒で躊躇うことなくうつむく。そして、空想する。

労働者がめくじら立てて叫ぶ。あたしに働けっていうの?そんなのお断り。こっち(の親)は金払って来てやってんのよ。もうちょっと配慮しろ、このタコ。

あたしは押川にやられたように労働者を突き飛ばし、頬をひっぱたいて、わき腹を思い切り蹴った。蹴ったほうの足は鉄のパイプみたいに硬くて冷たい。凍ったみたい。敏感に温度で解かされる。

ついでに顎を蹴り上げ、髪までむしりとってやった。荒い息。満足した顔。でも、そんなことだっていつかきっと、いい思い出になるのにね。悲しいはずなのに笑いが止まらない。悲しいのは、たぶん嬉しいからだ。不幸なのは、幸せだから。いいことは、悪いことがあるから成立していく。一等賞はね、ビリがいるから褒められる……

そんな空想に飽きれば窓を見る。教室はしんとして私の発言を待っている。なめらかな午後の時間の、ピリッともしない空間に、あたしの存在みつからない。どれだけ手を広げても、ここにいるのはあたしではない、何か。だから答えることは無い。でも、これは正しいやりかたじゃない、そのことは理解している。でも答えることだって、正しいはずはない。たとえ答えが分かっていたって。

シェリル・クロウの曲。突然にして必然に流れ出す。めちゃくちゃの英語で覚えた歌詞。大声で叫びたくなる。



それで幸せになれるんだったら

そんなに悪いことでもないんじゃない?

それで幸せになれるっていうのに

いったいどうしてそんなに悲しいの?



気付けば空はいつも青くて、鳥が飛ぶのは当たり前みたいだけれど、でも

「真中さん」

もしかしたら鳥だって、あたしと同じ、嫌嫌ながら生きて、不感症を気取ってるだけなのかもしれない。ねえ、あたしもっと、違う空間で生きていたいんだけどな。はばたきながら、そう叫ぶ鳥。私も、そう思うよ。さっきから聞こえる声、これも、たぶん異空間からの呼び声なの。耳を傾ける必要は、ないんだ、きっと。


「じゃあ、次の人。」


ほら、こうやって、じっと身を硬くしていたら、全ては通り過ぎていくじゃないか。嫌なことも、忘れたいことも、どうでもいいことも。それを知ったら、それがあんまり楽で、そうせずにいられなくなった。だからあたしは、大切かもしれないことも全部、通りいっぺん、全部流す。掴みたくないものまで嫌な思いして掴むくらいなら、あたしは全部知らないほうがいい。


隣のビニール袋が揺れる。

携帯をいじっていた隣の女の子があたった。それは携帯をいじってたことがばれたからじゃない。ただあたしの隣だった、それだけの理由。携帯を折って握りしめたまま答えようとしている。それをうつむき加減で見ている、あたし。

「どこですか?」


次の一瞬でその子が教室の中に戻ってきたのを感じる。存在も、必要性も、彼女の意思も、感覚も、一つひとつが集まってくる。放射状に集まる光線みたいなもの達。色がある。奇麗だ。見とれてしまう。そこに人の息や、教師の思っていることが溶け合っていく。ねえ、どうして、そんなに奇麗でいられるの。


「聞いてなかったのか?」

労働者は教師らしく、より人間らしくなる。

「はい、すいません、あはは」

 コンビ二の袋がまた揺れる。かさかさした音が響いて、あたしの耳をくすぐる。

その子はどこにだって居場所を作り出せる。住む世界が違う。これは、うらやましいんじゃない。もっと、別の感情。手も、足も出ない、そんな敗北感、疎外感。それは全部自分が作り出した幻想。でも、この心の中の暗雲は何? 朝のわき腹の痛み、それさえ吹き飛ばすくらいの、この痛み。異空間からの使者は、もういない。見えない。


はっ、と我に帰ると授業はとっくの昔に終わっていたように、教室に酸素が満ちていた。




 


やっぱり私はひとり、ホームに立っている。よく晴れているのは知っている。けれど、私は一人、今日もうつむいている。首が顔より黒いのは、いつもうつむいているからだ。これが私のスタイルなのか、何なのか、母はいつも、姿勢が悪いと言い、それが父に似ていて、また父が叱られて、私と父と、がっくりしながら食事する。そんな十七年を過ごしてきた。

ホームに立つ。

食卓、静かな台所。食器のすれる音。かちゃかちゃ、箸。かきこむご飯。薄い味付けのおかず。青色のテーブルクロス。みそ汁でながしこむ。嫌な空気から、この場所から、一刻も早く、逃げたい。そんな気持ちで居た子供のころ。ねえ、母さん、あたし、だから今も、ご飯食べるのはやいよ、すんごく。ねえ、父さん、あたし、今も昔のまんま、背中丸めて立ってるよ。

逃げながら、立ってるよ。




 



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