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偽者、艶のない革靴は、踏み鳴らしても、いい音がしない。トントン、と踵をコンクリートに打ってみる。想像したカツン、という音とは程遠い、パコパコという情けない音がする。気に入らない毎日の鬱憤を晴らすように、何度も何度も踵を打つ。リズムはめちゃくちゃだ。泥のついたつまさきをみつめて足を動かしていると、頭上から聞きなれた音楽が流れだした。その後の電子音。
「間も無く、3番線に、電車がまいります。お待ちのお客様は、黄色い線の内側までお下がりください。間も無く、3番線に、電車がまいります。」
階段を駆け降りてくる高校生達を見ながら、パンの入っていたビニール袋をくしゃくしゃにしてポケットに押しこんだ。
あれが私と同じ年の女の子なのか…次々に浮かんでは消える疑問。なんの不安もないように見える笑顔。その笑顔の裏には何が隠れているのか、わからない。なんだ、朝からそんなに話すことがあるのか、いや、そんなのは全部嘘なんだ。少なくとも、全てが本当であるはずがない。いや、でも、わからない。憶測で語れない何かがあるように思われてならない。私とは違う、何かが。それが何であるのか、私にはわかりはしないのか。いや、知ってはならないのか。前を通った彼女達の髪の香りが、鼻についた。
長い電車がつながって入ってくる。私の前を通り過ぎ、また通り過ぎ、追い越され、また追い越され、止まった。
ぼやけていた視界が色を持って肩に降りかかってくる。どんっと肩を押されたかと思った瞬間、私の体は列を組んで並んでいた場所から数メートル弾き出された。その場できゃははは、と歓声が起こる。突然のことに、私はその場に倒れた。バランスを崩したのは一瞬のことだ。視界が点、点、と切れる。目の奥がチカチカしている。
「いた、た」
漏れた自分の声のわざとらしさ。苦笑いをするのはあたしを殺した、あたし。こういうときに咄嗟に笑うのは、たぶん昔からの癖だ。殺されたあたしは、こんな時絶対に泣き出す。そして殺したあたしは、べらぼうに強くなる。
「真中、おまえ、邪魔」
倒れたあたしの前に、クラスメートの押川が近づいて言った。あたしの事を真中、と呼び捨てにするのは押川しかいない。ほかのやつらは、あたしを人間として扱っていないから、名前すら呼ばない。そういう点で、押川が唯一、あたしの相手といっていいかもしれない。あの声、あの、変な眉の、背のでかい、足の太い女。毎朝の、挨拶みたいなこの儀式。あたしは、今日も見事、はずれ籤をひいてしまったらしい。
「おまえさあ、この電車に乗るな、って言ったよなあ?」
そむけていた顔をあげると、太い足が目に入った。いけないとは思いながら、感情は先走って言葉が出る。
冷静さは欠片もない。こういう時ためらいがないのも、きっと昔からの癖か、何か。
「パンツ、見えてんだけど」
にやけた顔。自分でもわかる。負けたくない。せめて感情だけでも。押川の赤面が、わたしを強くする。膝を押さえながら立ち上がると、今度は平手が飛んできた。
「うっせえ、ごちゃごちゃ言ってんじゃねえよタコ!」
ばしっ
それでも笑みを浮かべて押川を見る。負けない。今日は負けない。ふらふらと別の車両に向かう。逃げなきゃ。逃げ切らないと。負けは認めたくない。
イマドキ、はずれくじだってポケットティッシュくらいはもらえるんだ。プラスチックの白い玉、それだって価値がある。価値が無いのは、ポケットティッシュかっていう落胆。そして受け取ったあとに情けなさを感じてしまう、気取ったハアト。押川、お前だってそうだろう? あたしなんかを相手に楽しそうに群れてるけど、家に帰ったら親と口げんかとかして、部屋で一人泣いたりもして、自分のこと考えたりもするんだろう。そうでなくちゃ、ポケットティッシュはあげられない。あたしの唯一の慈悲、そして抵抗なんだから。
にやけた顔に力を入れる。歯を食いしばる。甘い、クリームとパンの後味。酸っぱい。顎が痛いくらい。すっかり力の入らない身体に最後の痛みが襲った。タイミングは完璧。わき腹に蹴りの一発。ティッシュひとつに例えるには、ちょっと大きすぎる代償。
歓声。
胃液が逆流した。咽の奥が黄色く染まる感覚。予想はしていた。来ることは。だから衝撃も軽いはずなんだ。言い聞かせるのは簡単。思い込むまで、何度も何度も言い聞かせてやれば、錯覚を起こしていく。あたしの体なんて、所詮はそんな風に単純に出来上がっている。だからなんとか持ちこたえて、違う車両に向かえる。
まだまだやれる。
毎日こなしていることなんだから、大げさに痛がってみたって自分に嘘をついてるみたいで変だし。とにかくどこでもいい、乗らなくちゃならない。なんとか並びなおして乗り込んだ。
扉がゆっくりと閉まる。うつむいた顔を少しだけあげて車内を見渡す。少しだけほっとする。そこは他校の男子達でひしめく、最後尾の車両だった。
空いている席はもちろんない。立っていくしかないな、そう思って壁際にそっと移動した。視線が集まるのを感じながら、私は空想する。
これでいい、これがいい。幸せなんだ
そう言い聞かせる。
赤く腫れた頬と、擦りむいた膝。わき腹以外は、痛みを感じなかった。これは痛いんじゃない。痛いってのは、ここがどうしようもなくなる時に使う言葉なんだ。そう思って、左胸のポケットをぎゅっと押さえた。硬いエンブレムがぐにゃっと曲がる。それでもやっぱり痛みは感じない。あたしは不感症なのかもしれない。なにも感じない、そんな人間なのかもしれない。それは、良いことなのか、いけないことなのか、わからない。テキトウに生きているからだろうか、いや、自分は可愛い。それに、もしも本当に不感症なら、毎日せっせと生きなくてもいいはずだ。やっぱり何かしら感じているらしい。
それに…学校だって、半分くらいは自分の意思で行っている。というか、他に行くべきところがわからないし、ここでないところで今とは違う何か――それが何だってかまわない、どうせたいしたことじゃないだろうし――をしている自分が想像できない。やっぱり私は毎朝、クラスメートから文句を言われて、叩かれながら、こうして電車に乗って学校に通って、意味もない自分の存在を愛して、客観的に分析して、そうして痛みをやわらげているんだろう。なにもかもうやむやにしてしまえば、私は逃げられる。逃げるのは、得意だ。
流れる景色を見つめて、あたしはにやにやした。知らない誰かが気持ち悪いものを見るような顔で、あたしを指差している。