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逃亡  作者: 柳岸カモ
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駅前南口。

閑散とした路地を通りぬけると、噴水をぐるりと囲むロータリーに出る。

石を敷き詰めたようなコンクリート。足元の白黒の石は削り取られたダルメシアンの毛肌。その感触を靴の裏で確かめる。

ぼこぼこだ。

撫でるのは、どうしたって足がそうしたいから。そう感じるのは、きっとここが痛いからだ。

ぎゅっと胸元を掴む。


…艶があるのは健康な証拠。でも歳には勝てないわよね…。

飼っていた犬のドンが死んだ時、母さんが言った言葉。今思い出したのはたぶんわざとだ。

本当に足元にあるのは花崗岩。右足は白、左足は黒のところ。肩幅に開いた足。ここがあたしのあるべきところ。立ち止まって佇んで、ふっと顔をあげる。

空は、憎いくらいに青い。そして濁ったあたしの目を熱く焼く。白だ。青は透明になって消える。


まだ晴れそうにない、何かにつぶされそうでいる。雨の中で鈍く鳴く蛙が、喉を膨らませる、その声は、どうだっていい。雨音に掻き消されるだけだ。きっとあたしの声はそんなもの。

首だけ後ろをむいて、細めた目で見つめる。


やっぱ、行こっかな。

そう決めるのにかなりかかってしまった。でもそんなことも、きっと後から考えればたいしたことじゃない。すぐ忘れる。でも今、この一瞬はどうしたって落ち込む。いつも繰り返す、ちょっとした後悔とくだらない悩み。なんの教訓も与えてはくれないこと。わかっている。知っている。でも、もしかしたらいつか思い出すかもしれない。記憶の断片はいつだって、予想もしないときに現れる。昔食べたお好み焼きの味。夜店ではぐれて泣きそうになりながら歩いたこと。夏休み、ワケも無く溢れた涙。そして、そんなことが通り過ぎた後は、必ずといっていいほど気持ちが晴れる。どんな悲しいことだって、過去のことは案外素敵に感じるものだ。たいがいのことは、だけど。

今日もきっと殴られる。わかってはいるけれど、やっぱり、あそこの前を通らないと今日も乗り切れそうにない。そう思った。


店のある通りへ行くのには二つの方法があって、一つはこのまま目の前の階段を登って行く、もう一つは遠回りをして反対の階段を使う、という方法。あたしは必ずここで立ち止まる。迷うからだ。あそこまでの道。こっちを通れば、そこではきっと高校生とすれ違うだろう。たくさんの人がいる。でもあっちには花屋もあるし、キオスクもある。ちょっと考えてみる。今からあたしはキオスクでパンを買う。もしかしたら、自販機でお茶も買うかもしれない。これが、決まっていることで、決まっていないのは、これからあたしがどの道でそこに行くかということと、あたしが学校に行くのか行かないか、ということ。


決めた。やっぱり遠回りして北口から行こう。今日はこっちから行くと嫌なことが起こりそうな気がする。それは階段で起こるかもしれないし、ホームで起こるかもしれないし、電車の中で起こるかもしれない。想像すると背筋から腰にかけて力が抜けていく。でもそれもたぶん、怖いのとは違う。いつか思い出す日がきたら、その時はきっと笑える、悲しい思い出。うつむいて、ひたすら歩く。背中を丸めて、足先だけを見て。




店の並ぶ通り。ここからはホームに続く階段に直結している。じわじわと人の気配を感じて、溜息をつく。幸福みたいなものが失われていく感覚。でもきっと、幸福はなくならないものだ。だってそんなもの、はじめからないから。でも、結局は同じことなのかもしれない。なくなることと、最初からないこと。同じ、かもしれない。でも、違うんだろうな、本当は。


キオスクの前。パンを買いたい気持ちと、並んで買うための、ちょっとした勇気での葛藤。人がいる。どうしよう。立ち止まって、ちらちらキオスクのおばさんを見る。

「いらっしゃい、はい、これ、百十円」

パンを手渡してくれるおばさんの目を見ずに、とことこと歩み寄ってパンを受け取る。いつも同じのを買うから、覚えてくれているらしい。

「どうも」

交換に百十円を渡す。その時出た「どうも」の低さはちょっと気持ち悪いくらいで、おばさんは少しぎょっとしていた。こっちを見た。視線を感じた。でも実際はどうだったかはっきりしない。わたした硬貨は、ずっと手に握っていたせいで湿っぽくなっていた。そう感じたのは私だけで、おばさんの乾燥してひび割れた手では、そんなことに気付けなかったかもしれない。おばさんが笑顔でよくわからないことを言ったので、それに答えるように軽く会釈する。笑っておけば全てうまくいく。そしてまた頭を下げて、逃げるように歩きだす。さっきまでの葛藤と緊張は消えていく。でも、きっと明日もあたしは、同じことをうじうじ考えているはずだ。

「コーヒークリームサンド、下さい」の一言がいえない。いや、それは「これ下さい」でも「これ」でも、きっと構わない、そんな簡単な一言。あたしは、その一言を明るく言う自分のいる世界に、行けずにいる。そこに行くための扉は、きっと小さすぎて、あたしの身長じゃあ、無理。通れない。

 



 最後の店。駅の改札に一番遠い、この小さな店。この先に行っても、何もない。抜ければホームレスのたまり場で、鳩と出会えるはずで、そいつらは他人なのだ。あたしにとって、人も鳩も同じ。同じように目を合わせないように通り過ぎる。そんなことはさておいて、あたしは喫茶ドルフィンのガラス窓の前に立って、中を覗く。

今日も満員だ。

店の前のベンチに腰掛ける。ガラスの扉に自分が写っている。

 …鏡みたい。

膝まであげた両足の靴下の位置を確認して、脚を組む。目の前のガラスの奥には、自分と同じ制服の女の子達の背中が、透き通って見える。カウンターに座った女子高生達。じっと睨みながら、さっき買ったパンをかじる。クリームの挟まった二枚の食パン。不自然に柔らかい、お気に入りの味。柔らかいパンが好き。そういえば、昔誰かが言っていた。これも母さんだったっけ?

 Y崎のパンは防腐剤が入っているから、腐らないし硬くならないし、皮も張らないの。でも、それはね、身体の中で消化されないものが混ざっているってことでね、

その得意気な言葉には何の価値も意味もない。ただあたしは柔らかいパンが好きで、それがどんなにおかしなものでも、どんなに身体に悪くてもあたしは食べるし、嫌だとは思わないってことで、つまり万事そういうことだ。それくらい簡単に、自分のことも割りきれたらきっと、あたしはこんなのにはなってなかったはず。あたしは何か割り切れずに、ふわふわしている。ただ、じっとしていられないだけなのかもしれないけれど。

もちろんパンに針が入っているとかだったら、絶対食べない。そこが問題なんだ。わからない、だから何かする。そんな単純な行動。構造。でも、いつか大人って呼ばれるようになったら、あたしは針が入っているかどうか分からないパンでも、決死の覚悟で食べる日もあるだろうし、何のためらいもなくクズカゴに投げ入れるようにもなるだろう。そういう人が溢れている。それが偉いようにも思うし、すごく惨めな人にも見える。

脚を組みかえる。あたしの脚は毛が少ない。そこは、ちょっとだけ自慢できるところなのかもしれない。

 あ、自販機でお茶買うの忘れた。思ってみたけど、そんなのはもうどうでもいい。今、とりあえず安心して食べられるパンがあれば、それで平気。将来、防腐剤の影響でトチ狂っていたって、今はパンがあれば十分だから、先のことは無視していいだろうし、とりあえず今悲しい気持ちを埋めることができればそれでいい。そのためのパンなんだ。はくっと食いちぎる。むしゃむしゃ、かみ締めながら考える。そうだ、あの日もパン食べてたな…なんであんなこと言っちゃったんだっけ。自己嫌悪。最悪、自分、消えちゃえ…いちいち、そんな事気にしている自分が情けない。でも、仕方ないじゃん。気になるんだもん、あれだけ叱られれば。だって、あれは人格まで否定されてるよ、多分。もう、おまえなんて、死ね! って、そんなレベルじゃん。飲み込んだパンがもどりそうな、胃の不具合を感じる。でも、これだってきっと、妄想かなにかの産物。生み出したのはガラスの中のあたし。





昨日、母さんと喧嘩した。ほんの些細なことでむき出した感情。話すのも面倒なくらいのことで、母さんもあたしもあきれるくらい言い合った。たぶん半年は忘れない、母さんの言葉。そしてあたしも同じふうに母さんを傷つけたはず。でもあたしはその一言に反応して、死んだ父さんを探していたりする。父さんだったらこういう時、無関心にあたしと母さんを見つめてる。そう、庭で枯れた木を見つめていたみたいに。短大で十分、お前は勉強なんてしなくていい、そう言った時みたいに。

多分、何でもそうだけど、言っちゃったほうも、言われちゃったほうも全部投げ出せたら、楽になれる。そう、苦しみは、忘れるってことが肝心で、それには膨大な時間と、とてつもなく大きな力がいる。

だから、投げ出せない。投げ出した後の苦しみも知っている。逃げたい時はそのことで頭ん中は一杯で、でも逃げ出したら、なんで逃げたって、また頭ん中一杯で。その繰り返し。エンドレス・ソロー。大好きな歌のタイトル。それが、夢の中でさえ、必死になって謝ってたりする。ああ、夢なんだよこれ、ってわかっちゃいるんだけど、でも思い出したくない場面を想像すると、それだけで、いてもたってもいられなくなる。苦しい。息ができない。枕の感触に夢を思って、やっとのことで目を開けて、確かめて、安心する。汗だくで、それで胸をなで下ろして、大きく呼吸する。どうして人間なんかに生まれたんだろう。こんなに悲しい。これが涙。目が乾燥してひび割れそう。もう何年も泣いてない。でも、悲しいってことはいつだって側にある。そう思った途端、あたしは現実に落ちる。父さんのことも、忘れる。何もかもを科学で解決しようとする。頭はついていかないけれど。


ベンチから腰をあげて、元来た道を歩きだす。ここでこうしてああしていたら良かったな。そんなの考えていたらきりない。さっきより速い足取り。花屋、雑貨屋、キオスク。何も見ない、感じない。あたしには無関係な、塗り物達。さようなら、さようなら、いってきます。いってらっしゃい。


改札を抜ける。見慣れた景色に空気。


誰もいない眼下の長い階段にむかって、思い切り唾を吐いた。  





空は高く澄んでいる。朝、私にはたくさんやらなければならないことがあって、でもそれが一体、何だっていうんだ。寝返りを打って、毛布を引き寄せる。さっきから十分おきに目覚ましが呼んでいる。とめて、眠って、また起こされて、またとめて・・・・・・

 目覚ましさえ、あたしの相手に疲れてしまったみたい。ずっと鳴らないでいる。ぼんやりした頭の中でいろんな人の声がする。母さん、父さん、姉貴。

ねえ、あたしね、最近、涙が止まらないんだ。あたし、何か悪い病気かもしれない。

 あたし、もうダメだ。

そう思った瞬間、体が宙に浮かんで、消えた。


はっとして目を開くと、容赦ない光の粒が取り込まれて、永遠の宇宙を見せ始める。











 




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