第九話
【9】
クインシー・ロレンスは鐘楼から降りることにした。キリンは結局のところ迎えに来てくれなかったので、彼は一段一段はしごを降りねばならない。それはさほどひどい問題ではなかった。なぜって、どうやったらキリンが来てくれるのだったか、考えてみたらクインシー・ロレンスは知りもしないのだった。はしごは雨に濡れてすべる。彼はとても慎重に降りる。足をかけ、手をかけ、次にまた足と、繰り返す。
半分ほど降りたところで彼は足をすべらした。彼はまっさかさまに落ち、地面にぺたりと転がった。起き上がってみるとなんともなかった。手のひらさえすりむいていなかった。「おや!」と彼はさけんだ。
「妙だな」
彼は時計塔を見上げる。そしてしばし考える。どのあたりから落ちたろう――そう低くもなかったはずだが! 落っこちているあいだに時間をもし数えていたなら、たっぷり二秒か、それより半秒長いほどはあった。でも僕ときたら怪我もしちゃいないのだ。
「まあ、そんならそれでいいのさ」
彼は考えることをやめた。立ち上がり、泥のついた尻をはらって、少しばかり肩をすくめた。「怪我をしなかったからといって、何か困るわけじゃないもの」
「おや、クインシー・ロレンス、空から降っていらしたの」
となりを見るとイヌがいた。いつの間にいたのか? そんなことは考えるべきでないことだ。彼がいないはずであれば、彼はもちろんいないからだ。イヌは物知りで雄弁だが、同時に少し気難しく、友人を選ぶたちなので、こうして外に出てくることはとてもめずらしい。もしかしたらくじゃくを見に来たのかもしれない。趣味のいいチョッキを着て、えんじ色の傘をさして、いつものようにパイプをふかしている。彼は必ずレモングラスの葉をつめる。
「そう見えたかい?」
「そりゃあもちろんずっと君を見張っていたわけじゃあないけれど」
イヌは目玉を上向ける。「なんにもないところから落っこちてくるなんて、君はずいぶんと器用者だ」
「そう見えたかい」
イヌはうなずく。あたりまえじゃないかね、という顔をしている。クインシーは、ふと思いついて、たずねる。
「ところで君はくじゃくを見た?」
「見たとも。今までにないほど長く出現していた」
「そうらしいね」
イヌはパイプをふかす。イヌの立ち姿はじつにりっぱだ。クインシーより背は低いが、背はずいぶんと反っている。威厳がある。ときどき彼は傘を回す。もようのない傘に模様が生まれ、水しぶきが飛ぶ。クインシーはまた肩をすくめた。
「くじゃくは、なんだってそんなふうにしたのだろうね」
するとイヌはきょろっとした目をうごかして答えた。
「おや、奇遇だねクインシー・ロレンス、実にそう言える。なぜかというと、私もこう考えていたところなのだよ、つまり、意味をね! あれは何かの啓示だろうか? いや、いいんだ、わかっているよ、この街では我々は考えごとなんてしないのだ、もしするとしたらずいぶんな思い上がりだもの! この街はなんでもかんでも決まっているのだからして、しかも実にすばらしいことには、みんなそのことを知っているってところだ。だがクインシー・ロレンス、どうだね。だってくじゃくが現れるときになにもなかったことなんて、今まで一度でもあったかね? そりゃあ私だってこの街のすべてを知っているってわけじゃないが、くじゃくってのは特別なんだ、とても。よそでは知らんよ、だがこの街ではくじゃくはとても特別だ。わかるね?」
「ええ、もちろん」
「今までがそうじゃなくて、今度ばっかりがそうだ、なんてことは、ずいぶんナンセンスに聞こえるものだろう。だが私はナンセンスなものにだって敬意を払うことにしているんだ。どこにだって転がっているのさ。だから私は今度ばっかりは考えてみたのだ、あれにはなにか意味ってやつがあるだろうかとね。ほんのささやかな抵抗かもしれないよ。なんでもかんでも決まっているだなんて、しゃくじゃないか、それじゃあ私たちは私たちじゃなくてもいいってことだもの。――何の話だったかな?」
「啓示の話さ」
クインシーが答えると、イヌはパイプの先をクインシーに向けて振った。気難しい教師が、素晴らしい答えをした生徒に少しばかりの挑戦的な威厳をもって『素晴らしい(あるいは、『エクセレント』)!』と言うときのような、いささか芝居がかったしぐさだ。
「そうさ、そうだよ。我々はこの不可解な雨がもしもやんだとき、それを知るだろう。つまり、この雨が降り始めた時に誰かが考えたこととまったく同じことをね。なんだって始まる時も終わる時もほんの小さな種で構わないのだよ。真珠がどうやって出来るか知っているかね、あいつらときたら、なんでもいいから、くだらない、実に取るに足らない、ほんのちょっとした種がほしいのだ。それはなにか? 種であり、綻びなのだ。わかるかね、クインシー・ロレンス、黄金いろの髪!」
「くじゃくが消えるところも見たかい?」
イヌはうなずく。「見たとも。けっきょく、ぴくりとも動かないで、なんにもしゃべらないで、かき消えてしまった。くじゃくは、時たま話すこともあるんだが! 今度のは何から何まで不思議だったよ、まったく、それだから私はまた安楽椅子に日がな一日すわって余計なことをさんざん考えこねた挙句に、なんてばかばかしい! と叫んでそれらを忘れることをしなくちゃならん」
「もし――」
と、クインシーは言う。
「もし、くじゃくはじっとしていたのでなくて、本当は途方もない変化をしていたのだとしたら――」
イヌは不思議そうな顔をしている。クインシーは自分の声を慎重に聞きながら続ける。
「たとえばあの時計塔のてっぺんまでも広がって、それから急にどこかへしぼんでいなくなって、そうして――そうしてから、たぶん、デルミナヨのあたりからまた飛び出してきたんだとしたら――それにはどんな意味があるだろうか」
イヌは、クインシーの目をじっと見る。「なんだって?」
「もし、そんなふうだったらってことさ」
イヌは考え込むそぶりもなかった。パイプをひっくり返し、「それにしちゃ、ずいぶんとはっきりしているね!」とさけんだ。
「誰かそれを見たのかね?」
「僕のほかに誰かそれを見た者があったらな、と思ったんだ」
「君が空から降ってきたこととかかわりがあるかね」
「くじゃくがあんまり広がったもんで、どこまで大きくなるつもりかと思って、時計塔にのぼったのさ。そうすりゃよく見えると思ったからね。そしたらいつのまにかくじゃくは消えて、どこ行ったかなと思ったら、あのあたりから飛び出してきたんだよ。たぶん、デルミナヨ通りの……僕の家のあたりからね。それで僕の目の前までやってきて、ああぶつかる、と思ったら消えちまった。――のぼりは良かったけど、下りは大変だった。それで足を滑らして……でも怪我をしなかった。この手を見て、すりむけてもいないんだ。こんなことってあるだろうか?」
イヌは目をぱちくりさせている。しだいにその目が不可解そうな色にかわる。しゃべりながら、クインシーは肩をすくめる。「僕はずいぶんと変な話をしているな」
イヌは目をパイプの先をたたいてわずかばかりの灰を落とした。水たまりに落っこちた灰から、白銀のうろこを持つ無数の小さな魚が生まれ、飛び上がっては消えていく。そのうちのいくつかは鳥になる。鳥になって飛んでいくが、雨にぬれて溶けてしまう。
「クインシー・ロレンス。困ったなあ。私は君の言ってることが少しも分からないようだ。時計塔なんてものがこの街にあったのかい?」
「そういうだろうと思ったんだ。だから僕は、君に何かとても高いところのてっぺんから落っこちてみてくれなんて頼むつもりはないよ」
イヌが傘をくるくると回した。「なんだかわからないが、君はちょっと変わり者だ。たとえばなにか迷っているのかね?」
「わからないんだ。でも、そんなようなことかもしれない」
「それはいけない。あとで私のところへいらっしゃい。何か楽しい話をしてさしあげよう」
イヌはクインシーに別れを告げた。クインシーもイヌに別れを告げた。彼らは歩きだした。
いくらも進まないうちに、クインシーはふと何かに気がついた。何だろう? 彼は考える。何か思い出すときに誰でもいつもそうするように、それによく似たものを探してみる。やがて思い当る。視線だ。
誰かが見ている。彼は立ち止まる。こうべをめぐらせ、あたりを見回してみる。でも彼を見ているものはない。みな好き勝手に往来している。だがどこかに、彼を見ている瞳がある。右を見ても左を見ても前を見ても後ろを見ても、こちらをじいっと見つめている者はない。
やがてクインシーはゆっくりと――ある種の疑念じみた確信にひっぱりあげられるように、実にゆっくりと顔を真上に向けた。
空に雲が渦巻いていた。灰色の雲だ。この街にやまない雨を降らせるのは、いつも灰色の雲だ。だが今それが渦巻いている。ごごごごとうなりをあげて渦巻いている。クインシーは一言「おや……」と呟いた。
渦巻いた雲の真ん中に、巨大な、一つの、蒼い眼があった。