表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/16

第八話


 【8】


 クインシーは鐘楼に腰かけている。雨は気にならなくなった。すっかり濡れてしまうと、もうどうでもよくなるものだ。それにずいぶんと高いところだ。彼は高いところが好きである。ぬるい風がふいている。

 彼はさっきと今と、ふたつのものを見た。順番に思い出すことにしよう。ひとつは、ひろがり続けていたくじゃく。あるところで、まるで何か思い出したみたいに、ぴたりと止まって消失した。もしかしたらもうすこし余韻のある消え方をしたのかもしれなかったが、クインシーははしごをよじのぼっていたので、そのあたりはあまり自信がなかったかもしれない。

 ふたつめは何だろうか。それはたった今見たものだ。彼はくじゃくが飛翔するのを見た。屋根の連なるこの街並みのどこか一点から、軌跡を引いて空へ舞い上がるくじゃくの姿を彼は見たのだった。するとくじゃくは消えていなかったのかもしれない。広がるだけ広がって消えたはずのくじゃくは、どういうわけか、今度はこの広い街のどこかの窓から飛び出してきたということだった。それはどうも彼の住むアパルトマンのある方向だった。それがどういうことか? 彼はわからない。それはそうだ。僕のあの安いアパルトマンがあるといったって、そりゃあ当たり前のことだ、ほかの建物だっていやになるほどたくさんあるんだ!

 くじゃくはまだ空にいる。弧を描いて飛んでいる。地上は実に落ち着いたもんだ。誰も空にいるくじゃくを見てさわがない。もしかしたら誰にも見えていないのかもしれない。この時計塔は、誰かに見えているのかな? 彼はちらっと思ったが、どう確かめたものかわからなかったので、それは忘れることにした。キリンが迎えに来てくれたらと思うのもやめた。降りるときがきたら、きっとどうにかして降りられるのだろう。そういうふうになっている。この街では特にそういうふうになっている。

 くじゃくが空を飛ぶだなんて、そんなことがあるもんかねともし誰か言うものがあるかもしれないが、考えてみるべきだ、空を飛ばないくじゃくは空を飛ぶくじゃくよりもいったい何が素晴らしいのだというところだ。

 そんなことを考えていると、くじゃくが方向をかえてやってきた。こちらをめざしているようだ。どんどん近づいてくる。クインシーめがけて飛んでくるようだ。とても速い。ぐんぐん近づいてくる。

 ――ぶつかる!

 そう思ったとき、くじゃくは彼の目の前で、はじけて消えた。

 

「やあ、イヴ」

 と、ミシェル・ルグランはエンダイーヴを出迎える。エンダイーヴは、アパルトマンの入口に立って、はあい、と手を挙げる。

「来るとは思わなかった。今日はピアノはないんだよ」

「窓から何か飛んでいった?」

「君がもし何か見たのなら、その通りだよ」

 エンダイーヴは慎重にたずねる、「くじゃくだった?」

 ミシェルは肩をすくめた。

「いや、女の子だよ。見たんじゃないのかい」

「女の子?」

「窓から出ていった。いちおう止めたんだよ。危なくないのかいって訊こうと思ったけど、考えてみたら、もし危ないのなら最初からそんなことするわけがないね。僕も間抜けだ」

 エンダイーヴは中に入ってドアを閉めた。

「もしあなたが幼い女の子のことを何か理由があってくじゃくって呼ぶことにしてるなら、考え直すべきだわ。とても紛らわしいもの」

「ねえイヴ」

 ミシェルはエンダイーヴに椅子をすすめる。彼女は少し迷うような目をしてから、腰かける。どこからともなくミシェルの手には二つのカップが現れる。ひとつはコーヒー、一つはカフェ・オ・レ。ミシェルは、カフェ・オ・レを客人に渡す。

「僕はようやくこの奇妙な街の秘密をほんの少し知ることができたような気がしているところなんだ」

「なんですって?」

 ミシェルはコーヒーを一口飲む。そして、ゆっくりと話し出す。

「考えてもご覧、イヴ。この街には僕らの知らないものなんて何一つなかったんだよ。これまではね。なぜ? この街はみんな決まりごとで出来ているからだ。予定調和ってやつさ。それよりはいくらかろくでなしだけど――これはたぶん、すごく大事なことだからおぼえておいてくれたまえよ――そう遠くもないものだ。魚が空を飛ぶ、キリンはしゃべる、イヌは物知り、雨は決してやむことがない。僕たちはこの街に住んでいる。でもねえ、イヴ、おかしくはないか。僕たちがこの街を奇妙だと感じるのは何故だろう。たとえばキリンがしゃべるのを、たとえば雨が降りっぱなしなのを、どうして特別だと思うのだろう?」

「そりゃあ、外の世界じゃ、そんなふうなことは起こらないから」

 エンダイーヴはそう言ってからはっと口もとを抑えた。そのままでミシェルの目を見上げた。ミシェルは、大いに頷いた。「そのとおり」

「外の世界と言ったね。そのとおりだ、その言葉を僕は待っていたんだ。よく言ってくれた。じゃあ、今度は外の世界について考えよう。外の世界とは何だろう? さしあたって一番それらしいのは、この街の外ってことなんだ。でも、いいかい、僕たちのうち誰か一人でも、イヌでも鳥でもキリンでも、なんでもいい、この街の外に出た者があるだろうか。僕たちは、この街の外に出たことがあるだろうか? いいや、こう言い換えよう。僕たちは、この街の外に出られると思うかい?」

「それは――」

 ミシェルはエンダイーヴに柔らかく指を向けた。

「誰もためしたことがないんだ。おそらく、誰ひとり。この街は僕らを閉じ込めている。なぜ? 外に出られないんだ、そうなってるのさ。僕たちはこの雨の街に閉じ込められて、おかしなルールの中で、理不尽な出来事に無理やり調和させられている。何か、僕らをそうさせるものがあるんだ。イヴ、そう考えたことはないか?」

「ミシェル、なにを言ってるの。どうして出られないなんて思うの? 私たちは囚人じゃないし、奴隷でもないわ。意志を持っているのよ。そうじゃないってあなたは言いたいのだとしても、私はそうだと思うわ。たとえば――私たちがこの街から出ようと思ったとして、それができないっていうの?」

「きっとそのことにさえ、誰も気づいていないんじゃないだろうかって僕は思うんだよ。君もそうだろう、一度だって考えたことがある?」

 エンダイーヴは肩をすくめる。

「この街にはいくらだって店があるし、さしあたって外は雨だわ」

 ミシェルはほほえむ。

「僕はきっと出会ったから、たぶん、少しばかり目が開いたんだろう。これがちょっとした抜け駆け――ずるってやつに数えられるのかどうか、考えなくちゃならないかもしれないが……それだって、何かそう決まっているのかもしれないしね」

 エンダイーヴはカフェ・オ・レを口もとまで持っていって、迷ってやめた。代わりにたずねた、「出会ったって?」

「僕らを――なんていうのか――そうさせるもの」

「そうさせるもの?」

「彼女さ」

 ミシェルは一息に言い切った。

「すぐに分かったよ。さっきの女の子を僕は見たことがなかった。今まで一度もね。どうしてだと思う? 彼女が、今までは僕らの前に現れようとしなかったからさ。もし出会うことになっていたのならとっくに出会っているはずなんだ。逆さまに言えば、出会わないように決められていたから、今まではお互いに出会わなかった。そんなことができるのは何か? それは――」

 エンダイーヴは手をふって彼の話をさえぎった。「ちょっと待って、ミシェル! もっと分かるように話してくれなくちゃいけないわ」と言った。ところがミシェルはすずしい顔で、「たぶん、役割ってものがあるのさ」と続けていった。

「僕はときどき考えることがあるんだ。僕らは何故ここにいて、いつまでいるのかってことを」

 彼はコーヒーの入ったカップを音を立ててテーブルに置いた。エンダイーヴはそれを目で追う。カップを離れた彼の指を追いかける。なんとなくそうする。

 エンダイーヴは迷う。どきどきしている。ミシェル・ルグランの言葉が彼女を動揺させている。

「あなたが何を言ってるのかわからないのよ」

 ミシェルは苦笑する。「きっと、そんなにむずかしいことじゃないんだ。――だからところどころ不完全だったり、反則だったりする」

「くじゃくが女の子だなんて、聞いたことがないわ」

 彼女の戸惑いには二つの意味がある。一つは友人がおかしなことを言い出した。窓から飛んでいった鳥を、彼女はくじゃくだと思っている。女の子だなんて、いったいどういうことだろう? 部屋の中にいたときは女の子で、窓から飛び出すときは鳥だなんて、そんな生き物がいる話は、いくらこの街が奇妙なことで出来ているといってもさすがに聞いたことがない。ではもうひとつは? 彼女は自分の歌がくじゃくを呼ぶ鍵であることを知っている。でも彼女はくじゃくについて何も知らない。彼女は、そうしなければならないような気がするときだけそうする。それはまちがえたことはない。でも、彼女はくじゃくがいったい何なのか、それを知らない。どうして歌うとくじゃくが現れるのか知らない。リズリヴェッラ・リズリヴェートのあの幼い双子や、そのほかのたくさんのものが、どうして彼女の歌に依存しているのかを知らない。

 エンダイーヴ・コリーはこれまでそのことを考えたことがなかった。この街ではなにもかもがなるようになる。ならないようにはならない。そう思っていたからだ。考える、その行為はこの街ではある種の罪深さを持っている。みな自分の頭の内側でのみ考える。その外側には決して出ない。叡智のイヌは、彼に許された大きさのなかで知識を持つ。キリンも、ネコも、鳥も、ヒトも、みな。その単純な約束事のうえに、今、一滴が落ちかかっている。それは鍾乳洞のように長い長い年月を経たものでは決してなく、だがこの街の雨よりは軽薄でない、未発達な目覚めを含んだみずみずしい知の一滴である。

 エンダイーヴがむずかしい顔をしているのを見て、ミシェルは、彼にしては珍しいことに、表情を優しくやわらげた。「そんなにむずかしいことじゃないと思うんだよ」

「何が言いたいの、ミシェル?」

 ミシェルは窓の外を見下ろして、そのままでぼんやりと呟いた。「この街はルールに縛られている。でもそのルールってやつはなんだかひどく理不尽で、不可解で、突拍子がなく、不完全で、わけがわからない。なにかに似ている。そう思ったことはないかい」

 それから、声の調子を変えずにこう付け足した。

「まるで子供の夢みたいだ」









評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ