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第七話


 【7】



 くじゃくは唐突に消えてしまった。

 クインシー・ロレンスは、頼りないはしごに足をひっかけながら、時計塔のちょうど半分までよじのぼったところだった。空も景色も片っ端から呑み込まんばかりに広がっていたくじゃくの色は、ある一点でふっとかき消えた。クインシーは「おや」と呟いた。

 のぼる意味はなくなってしまったが、ずいぶん高いところまでのぼってしまったので、彼はこのままてっぺんまでのぼってしまうことにした。時計塔にのぼったことは、そういえば今まで一度もなかったのだ。

 下の方でざわめきが起こった。くじゃくが消えたらしかった。大階段にできていた人だかりが、ばらばらほどけるように解散を始める。人々は、ついにくじゃくが途方もなく広がっていたことには気がつかなかったようである。いや、見えなかったようである。あのご婦人は、くじゃくが何も変りなくそこにいるじゃないのと言った。でもクインシー・ロレンスの目に、くじゃくはそうは見えなかった。

 もうひとつおかしなことがある。あのご婦人はこの街に時計塔がないと言った。そんなら今僕がこうしてのぼっているのは? クインシーは下を見た。誰か僕に気づくものがあるかなと思ったが、誰ひとり、おやあんなところにクインシー・ロレンスがいるぞとは言わなかった。なんてことだろう。これじゃあ、キリンははたして迎えに来てくれるかな? 彼の首につかまらせてもらったら、下りはずいぶんと楽なんだが!

「それにしても、奇妙だ。この時計塔がいったい何だか知らないが、はしごまでついてるというのは、ややご親切が過ぎないだろうか」

 はしごは鐘楼のてっぺんまで続いている。

「やあ。君は、どうやら僕にしか見えてないようだけど、どんな気分だい?」

 時計塔はもちろん答えるはずもない。冷たい白レンガの手触りは雨にぬれてよけいに冷たくなっている。はしごはスチール製で、こいつも実に冷たい。そういえばあんまりよく知る機会はなかったが、雨というのは、それほどたいしたものじゃなさそうに見えて、長くあたり続けると、身体をずいぶんとひどく冷やすものなのだ。

 クインシーはちょっとばかりため息をついて、ひとり言をつづけた。「くじゃくがどうしてあれだけ馬鹿みたいに広がったかってのは、僕にはわかりそうもない。そのおかげで僕は今、こんなに馬鹿なことをしてるわけだが、まあそりゃ仕方なかろう。何か分かりそうなことがあるだろうか。よくわからないが、考えなけりゃならないだろうね。――そうだ、どうして消えたのか、ってことだ。くじゃくが現れるのに理由があるなら、消えるのにだって理由があるだろう。キリンは何て言った? くじゃくは、気紛れをしないと言ったんだ。それだけじゃない、みんな決まっていると言った。くじゃくが消えたのはいつだ? ついさっきだ。ついさっき、くじゃくが消えるような何かの理由が生じたってことだろうね。――それはなんだろう? わかるもんか。僕はくじゃくのことなんて何も知らないんだ。でも、ああ、別にかまわないじゃないか。いちいちそんなこと考えてたら、僕はこれから毎朝ベーコン・エッグを焼くのかスクランブル・エッグにするのかってことにさえ、日が暮れるまで悩まなきゃならなくなるんだ。それなのにどうして僕ったらこんなことしてるのだろう。理由は? そりゃ、くじゃくが広がったからだよ……」

 クインシーはまたため息をついた。

「なんだかおかしなことになってきたぞ」


 エンダイーヴはくじゃくが消えた後、どうしたか? 彼女はサン・フィルマンの路地裏通りを歩いていた。彼女のコートはすっかり水を吸ってずいぶん重たくなっていた。空はどんよりと灰色で、ただでさえ薄暗い路地裏はまるで夕方のように青っぽく、暗かった。

 彼女はくじゃくが広がったことに気がついた二人の登場人物のうちの一人である。クインシー・ロレンスが時計塔にのぼっていることを知らないが、代わりに、どこまでも広がるように見えたくじゃくのあの極彩色が、やがてある一点を目指すように収斂していくのを見た。どうやら誰もそのことに気づかなかったことにも、彼女は気づいている。くじゃくが広がるのを見たのは自分だけだと、このときはまだ思っている。

 先刻、彼女は果てしないほどふくれあがったくじゃくを見上げながら、近くにいたキリンに尋ねた、「ねえ、今、くじゃくはどんなふうかしら。私のところからじゃあんまりよく見えないのよ」

 キリンは答えた、「いいやまだ何も起こっちゃいないし、動いちゃいないし、しゃべってもいないよ」

 エンダイーヴはくじゃくを見上げたまま、ありがとうと答えた。

 彼女は今、くじゃくが吸い込まれたその場所を探して歩いている。小走りになっている。ハイヒールはかつかつと激しく音を立てる。

 どこからか声が聞こえてきた。上から? どこかのバルコニーから声がする。エンダイーヴは足をとめないまま耳を澄ました。やがて彼女の耳は「ジョルジェットを見なかった?」という可愛らしい声を拾う。誰かが答える、「なんだって?」

「僕らジョルジェットを探しているの」

 それは双子の声だった。リズリヴェッラにリズリヴェート、どちらの声もよく似ている。この街に双子は一組しかいない。彼らだけがどういうわけか選ばれたようにここにある。

 もう一つの声はなにかとんでもないことを訊かれたように、ずいぶんと面食らって答えた、「エロイーズがどこにいるかなんて、誰にもわかりっこないじゃないか」

「どうして誰もジョルジェットの居場所を知らないのかしら」

「エロイーズだけじゃあない、誰がいつどこにどうしているかだなんて、いったいどうして分かりようがあるというんだい。そんなこと考えちゃいけない」

 双子は声をそろえる、「なぜ?」

「なぜって、みんな最初から決まっている」

 双子はもう一度繰り返した。

「なぜ?」

「そりゃあ、わからんよ。でも決まっているんだ」

 そこまでだった。エンダイーヴは速足にバルコニーの下を通り過ぎた。あとの会話はきこえなかった。エンダイーヴは自分がいま、とてもどきどきしていることを認めた。胸に手をやって走り続けた。

 これは何だろう!

 いったい何が起こっているの? エンダイーヴは考える。ルールに綻びが生まれている。知らないことが起きている。呼んでもいないくじゃくが出現し、くじゃくはどこかへ吸い込まれ、双子は私を探し始めた。そんなことは決して起こらないはずだったのに、いったいどうしてしまったの? それがこの街のルールではなかったの? この街はなんなの? 私はいったいなぜこの街にいなければならないの? ああ、何もかも理不尽で、わけのわからない街! この街! この街に来る前はどこにいた?

 エンダイーヴは不安に耐えて、ただくじゃくが消えた一点を目指す。それがなにかの手掛かりであるかのように、彼女はすがりつく。サン・フィルマンの路地を抜け、ブランヴィル川のほとりを走り、ローアンヌ大橋を渡り、おぼえているかぎり正しく、一瞬だけ空に描かれたくじゃくの軌跡をおいかける。

 やがて彼女は一つの建物の前に立った。くじゃくは、ここに吸い込まれていったのだ。

 ふちに緑青の浮いた玄関の扉をあけてくぐろうとしたそのとき、彼女は、ちょうど彼女とすれ違うみたいに、通りに面した三階の一つの窓から、極彩色の奇妙な鳥が飛び立ったのを見た。実に軽やかな、流れるような飛翔だった。

 エンダイーヴはその窓を見つめた。するとその窓から、飛び立った鳥のしっぽでも追うように、ミシェル・ルグランが手を伸ばしていることに気がついた。








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