第六話
【6】
ミシェル・ルグランはベッドの中で目を覚ました。
ベッドから降りると、どうやらなにも着ていないことに気がついた。――なんてこった! 僕がはだかで部屋をうろつくなんてことが、今まで一度でもあったろうか? ノン、僕は文明人だ。文明人は、思想上ないし健康上の理由によってごく限られた一嗜好を実践するのでない限り、かならず衣服をまとうものだ。
クローゼットまで歩いて行くのがはばかられたので、ベッドからひっぺがしたシーツを腰にまきつけた。どうやらこれで一安心できそうだ。ミシェルは大いにうなずいた。歩くとずいぶん引きずってしまうが、なんたって、はだかでいるよりはいくらかいい。
床に見たこともないような、とんでもない絵の具の大洪水があった。ありとあらゆる色の絵の具をかたっぱしから塗りつけたような代物である。ミシェルはそのふちに立って、見下ろしてみた。絵だろうか? たぶん、絵である。何の? わからない。誰が? ――さあ?
さもありなん、いったい誰が僕の部屋に、こんなわけのわからない落書きなんぞをするものか。まったく、狂ってる! この街はなんだって狂っているが、その一番ひどいのがどうやらこれらしい。僕は秩序のないものが嫌いなのだ。彼は困り果てる。このひどい絵の具のかたまりと、この先いったいどうやって付き合っていったらいいものだろうか。
でもまず服を着なけりゃならない。彼はクローゼットまで歩いていってシャツとジーンズとをとりだした。それらを身につけると、シーツをていねいにベッドに掛け直した。
それからまた絵のところに戻った。歩いて四歩と半かかる。大股なら三歩。冷たい木の床の上を彼ははだしで歩く。そういや靴は? どうやら僕は、この部屋を横切ったりするときに、靴ってものを履いたことがあまりないようだ。だから靴はなくてもよい。彼は、靴のないことには腹を立てない。
色の数を数えてみた。青も、緑も、群青、黄色、だいだい、桃色、赤、白――混ざっちまっている部分は仕方がないので数えない。まるで無限だ。何の規則性もなく、子供のらくがきみたいに、わがままに、自由に、勝手気ままにふるまっている、色、色、色だ。
「いったい何てひどい絵だ」
人物ではなく、静物でもなく、風景でもなく、無限に広がれとばかりに塗り重ねられた絵の具の塊はしんと静まり返って冷えている。だがその色のやかましさときたら! 耳でなく目がうるさいなんていうやくざな表現がもし許されるとしたら、まったくそのとおりだ、と彼は思った。ミシェルはしゃがみこんで、その真ん中のあたりに触れてみた。ずいぶん分厚くなっていた。乾いては塗り、乾いては塗り、そうやって描かれたものであるらしかった。端っこの方は、そうでもない。床との境目を撫でてみるとほとんどデコボコしていない。やっぱりこれは、中心から外側に向かって描かれているのだ。それにしてもひどい絵だ。何を言いたいのかさっぱりわかりゃしない。どういうふうに言い表すべきか? 少し考えて、「ろくでもない」ということにした。まったく、実にろくでもない。
ところが、すぐにもっとろくでもないことが起きた。
一度か二度、瞬きして目を開けると、絵の中心に女の子が立っていた。いったいどこから出てきたものか知らないが、それは間違いなく女の子だった。女の子というのはつまり、リズリヴェッラよりはいくらか大きく、エンダイーヴ・コリーよりはずっと小さいということである。女の子は薄かった。やせているというのでなく、ぼんやりと燐光し、透き通っていたということだ。女の子の肌の向こうに窓が見えた。その窓の外の景色が見えた。
女の子はうつむいていた。髪は巻き毛の蜜金で、長く、ふわふわと波打っていた。実際、何かとてもゆるやかな風に吹かれているように、少しばかり、たとえばほつれた糸のようにそよいで見えた。実にやわらかそうな髪である。ミシェルの短い黒髪は、一本たりとも動いちゃいない。このことも一応付け加えておく。やっぱり靴ははいておらず、足元には小ちゃな爪が十ばかりならんで、ひとつひとつパールのように輝いている。それから白っぽい下着のようなものを着ていた。ワンピースかと思ったが、それにしちゃいくらかほつれがひどい。
女の子はたっぷり二十秒も経ってから、実にゆっくりと、目を開けるように顔をあげた。そのまっ白い、つるつるしたタマゴのような顔がミシェルを見た。ミシェルはもちろんずっと見ていた。やがて女の子の顔の、つるつるとしていた右半分が崩れ始めた。最初に唇がちりちりと焼け、頬、目と、順にただれていった。
――火? それはおそらく火だった。どこにもない火が、見えない火が、彼女の顔を焦がしている。なんということだろう。少女はミシェルを見つめたままである。ぴくりともしない。壊れていく自分の顔を平然と上向けたまま、まったく冷静なままである。やがて崩壊がとまったとき、彼女の右側の髪もいくらかはげてしまっていた。それはなんとも痛ましい姿だった。顔がただれていることより、このときのミシェルには、焼け野原のようになった髪がより憐れに見えた。
左半分はそのまま残っていた。少し気の強そうな、ませていそうな女の子の顔だった。
女の子はいつの間にかもう透けていなかった。どうやらそれが、この不可思議な現象の終わりを示すものであるらしかった。だとしたら次にしゃべらなければならないのはミシェル・ルグランである。女の子が提示したこの状況について、ミシェル・ルグランは返事をしなければならない。
ミシェルはどうしたか? 実は、彼は最初から最後までほとんど落ち着き払っていた。とても冷静だった。もし彼が先刻、ひじょうに珍しいずぼら心を起こして着替えを横着していたならひどくあわてたかもしれないが、すっかり着替えてしまったのだから、何も問題はなかった。
ところで一つ確認しておくことがある。ミシェル・ルグランは、今、クインシー・ロレンスのことをまるでおぼえていない。知らないと言い換えてもいいぐらいである。クインシー・ロレンスは、ミシェルの記憶のどこにもいない。おなじように、いまごろ時計塔にのぼって広がり続けるくじゃくを追いかけているはずのクインシー・ロレンスは、ミシェル・ルグランという同居人がいることをおぼえていない。そんな名前を知らないし、記憶のどこにもないし、思い浮かべることもしない。
お察しの通り、彼らは同じところにいないと互いを認識できないというルールに縛られている。忘れ、はじめから知らないことになり、リセットされる。彼らは一緒に一日を始めないと、次に何らかの必然化された偶然によってまた一緒に一日を始めるときまで見ず知らずの他人となる。もし「おはよう」を言うことができたら、忘れていた間の記憶は二人とも持たない。互いを忘れていた間のことは、「なかった」ことになる。
そんな不便な思いをするのが彼らだけのことかというと、もちろんそうではない。この街のルールがそうなっている。それはたとえば、リズリヴェッラとリズリヴェートの双子が、エンダイーヴ・コリーの歌を決して間近で聴くことがないというルールと同じようなものである。エンダイーヴ・コリーの歌がなければこの街のあらゆる均衡が保たれないというのと同じであり、くじゃくは現れたら消えるというルールと同じであり、くじゃくが万能であるというルールと同じであり、魚がときどき空を飛び、白い鳥はかならず大きく、黒い鳥はかならず小さく、キリンは言葉を話すというルールと同じものである。この街を縛るルールはひどく理不尽で、不可解で、突拍子がなく、不完全で、わけがわからない。
それでも決して誰も忘れないことが一つある。この降りやまない雨のこと、自分たちが「この街」のなかにいるということ、その二つである。彼らはこれを指針にする。これを忘れない限り、彼らは決して彷徨わない。
事実には理由がつきものだ。理由とは? 「なぜ」である。そしてそれこそが、今、ミシェル・ルグランの眼をひらかせようとするものである。
彼は彼女に向かってうやうやしく礼をした。まるで道化師のようにおどけながら、まるで高名な演奏者のように居丈高に、お辞儀をした。彼はとても落ち着いている。
彼はとても静かな声で言う、「どうやら僕たちはやっと会えたじゃないか」
女の子は、じっとミシェルを見上げている。ミシェルはそんな彼女にむかって、わずかにかがみ込む。
「きみが犯人だね」