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第五話


 【5】


 あるとき窓からキリンがのぞき込んでいた。「やあ」とクインシーが挨拶すると、キリンは器用にシルクハットをとって、とても丁寧に挨拶をした。「こんにちは、クインシー・ロレンス。ご機嫌いかが」

「いつだって同じさ」

 キリンはまじめくさってうなずいた。「実に結構」

 ミシェルはどうしたか? 実は、いなかった。朝からいなかった。クインシーが起きたときからそうだった。時たまこういうことがある。何日にいっぺんというほどでもなく、すごく偶にだ。そういうとき、まるでミシェル・ルグランなんてのは最初からどこにもいなかったみたいに、至極綺麗さっぱりと、いない。彼が使っていたもの、着ていたものは跡形もなく消えうせる。ミシェルは形跡ごと消えうせる。いいやちがう、そうではない。それは少し、いや、だいぶ違う。こういうときは、ミシェル・ルグランは最初からなかったのだ。

 そういうとき、いつも二人で寝ているベッドは、クインシーちょうどひとりぶんである。食器もナイフもフォークもクインシーの分しかない。今日はそういうときだった。キリンはもちろんミシェルについて尋ねない。

「まったく、実に、奇妙なことだ!」

 キリンが言った。

「なにがだい?」

「くじゃくが出たんですよ」

「そいつはすごい」

「このあいだも出たのに」

「くじゃくだって、たまには気紛れを起こすのさ」

「とんでもない!」

 キリンはたいへん長い首を振る。窓の端から端まで振る。「実にとんでもない。これを聞いても、そんなことが言っていられるかね、クインシー・ロレンス?」

「この街では、たいていとんでもないことが起こってるよ」

「消えないんだ」

 キリンは一言一言、はっきり発音した。「なんだって?」クインシーが訊き返す。

「くじゃくが消えない。現れてからずいぶんになるのに。大階段の天使像さ。身動きもしない、しゃべりもしない、消えもしない!」

 

 ――くじゃくが消えない!

 ベルトゥッロ広場の大階段にくじゃくがいる。手すりの上に立っている。足元の天使像を従えるように、くじゃくはじっと立っている。天使像はいかにもそれが正しい姿だというように黙ってじっと立っている。彼の仕えるべき神はまるでくじゃくのようだ。その表情は穏やかである。

 くじゃくは何も言わないし、何も考えていないように、じっとしている。もの見がずいぶんと集まっている。雨に濡れながら皆がやがやと音をたてている。ひとつひとつはたぶん声だが、たくさん集まると音になる。雨粒を震わせながら、広場は今、がやがやとしている。くじゃくがこんなふうに長い時間、現れたままでいることは、今まで一度もなかったことだ。この街にはルールがある。くじゃくは滅多に現れず、現れるときにはすぐに溶けて消えてしまう、そういうルールだ。キリンは言葉を話し、なんでもかんでも空を飛び、オーロラと虹は競い合う、そういうルールだ。だが、なんということだろう、くじゃくが消えない!

 消えないくじゃくはどういうものか? 波紋である。波紋とは? 兆しである。変容をみちびくものである。では変容とは? 別のやりかたで言い換えるとき、それは綻びという名前をもつ。

 エンダイーヴの顔があった。彼女は人だかりの真ん中あたりに立っている。くじゃくを見つめている。その目がおどろきに見開かれている。

 彼女が歌った旋律の中に、「くじゃく」のための音はなかった。もうずっとなかった。くじゃくのための音は、もうしばらく歌っていない。くじゃくが現れないことは、彼女の歌がただしく機能していることの証明だ。これは彼女の秘密である。エンダイーヴ・コリー、ジョルジェット、マリー・エロイーズ、シャンテーヌ、ヴィクトリアーヌ、なんでもよい、それらはすべて偽りの名前だ。彼女の本当の名前はソフィという。誰も知らないが、ほんとうである。そして彼女だけが知っている。くじゃくは彼女の歌が呼ぶことになっている。なぜ綻びが起きたのだろう? エンダイーヴは考える。

 やがてクインシー・ロレンスが、いつものずぼらなシャツ姿でキリンとともに到着する。彼はくじゃくをじっと見る。彼はくじゃくをあまり見たことがないので、はじめはその綺麗なことにびっくりする。「なんだろう、あの綺麗な色、でもどこかであの色を僕は見たことがあるなあ」

 キリンは言った、すこしばかり興奮気味に、「私が知っている限り、くじゃくが二分と七十五秒より長くあらわれていたことはないのだよ」

「くじゃくは気紛れをしないのかい?」

 キリンはうんざりした声を出した。

「ロレンス、何度も言っているじゃないかね。みんな最初から決められていることだ。我々の毛の一本まで、君の爪の先が明日にはどれぐらい伸びているかってことぐらいまで、はじめからみんな決まっている。そこの川に昨日、三つぐらいのキジバトが落ちたけれども、あれだってもちろんそうするように決められていることだから、賢明な母親はずいぶんと落ち着いて彼をひろいあげたというよ。気紛れなんてないんだ」

 クインシーはくじゃくを見たまま、のんびりとあごに手なんか当てながらつぶやく、「そりゃ窮屈なことだなあ」

 あたりはざわざわとしている。やがてキリンは丁寧な挨拶を残して離れて行った。くじゃくをもっと近くで見ようというのか、背高(せいたか)の首が人だかりの中を泳いでいく。

 クインシーはしばらくして、ふと思い当った。ああそうだ、どこかで見たことがあるはずだ! くじゃくの色は、彼がアパルトマンの狭い床に描き散らかした色のかたまりにそっくりだ。――そうすると、おや、僕はくじゃくを描いていたのかな、クインシーは考える。だが、すぐに違うと思い直す。だって僕はくじゃくをほとんど見たことがないのだ。思い浮かべて描いたとしたって、こうもそっくりには描けまい。

 でも、どうだろう、見れば見るほどずいぶん似ている、青も、緑も、黄色も、だいだい、桃色、赤、白、そういやくじゃくというのは、本当はいくらなんでももうちょっと地味なのじゃなかったっけ? こんなに洪水みたいに色であふれているもんだったろうか。くじゃくってこんなふうだったろうか?

 そうするうちに奇妙なことが起きた。クインシーの見ている前で、くじゃくがどんどん溶けはじめた。いや、誰も何も騒がないところをみると、そうではないらしかった、くじゃくが消えるのはいつものことだ。むしろ、くじゃくは現れたら消えなけりゃならないのだ。だから、これは溶けたのじゃない。くじゃくは、広がり始めたのだ。

 大きな羽根の極彩色がみるみる広がって街を塗り替えていく。クインシーは声をあげた。近くに来ていた誰か知らない人の肩をたたいて、「くじゃくが広がっていく! ほら、ごらんなさい、あなたも!」

 すると隣にいた上品そうなドレス姿のご婦人は、眉間にしわを寄せた。「あら、ロレンス、何をおっしゃるの。皆くじゃくがいつまでもああしてぴくりともしないから、こうして雨の中を突っ立っているのじゃありませんの」

「でも、くじゃくは広がっていますよ。ほら、羽根の一番高いところなんて、もう時計塔のはしごに届きそうだ。この調子じゃ鐘楼に届くのもきっとすぐですよ。誰も騒がないようだけど、これはいつものことなのかな? 僕は彼にあまり詳しくないので」

 ご婦人はレースの白手袋をつけた、ほっそりした手を頬にあてた。「この街に時計塔や鐘楼なんてものを見た例がありませんし、くじゃくはああして、さっきからなんにもかわりないじゃございませんの」

 クインシーは肩をすくめた。

「それじゃご婦人、あなたは夕刻の鐘をなんだと思って聴いていらっしゃる?」

「鐘なんか一度だって鳴ったことがあるかしら」

「ありがとう、マダム」

 クインシーは、彼女の傍を離れた。彼女はとても上品に手を振ってくれた。そうしている間にも、くじゃくはどんどん広がって、街をみんなのみこんでいく。空が極彩色に染まっていく。壁も、空気も、景色も、なにもかも。

 クインシーは時計塔を目指して駆けだした。誰も彼を気に留めるものはなかった。あたりまえだ。なにしろくじゃくがそこにいるのだ。クインシーには、もはやじっと立っているくじゃくの姿は見えないが、どうやらここに集まった群衆は、ひろがり続けるくじゃくの姿が見えていない。いったいどちらがほんものだか知らないが、クインシーは大階段を一段飛びに駆け上がり、人ごみを抜けた。とにかくこの街で一番高いのが時計塔だった。ご婦人はそんなものはないといった。でもクインシー・ロレンスの目に、あの鐘つき塔が見えなかったことは一度もない。その鐘の音が聞こえなかった日もない。

 時計塔にのぼれば、今では途方もない大きさとなったくじゃくがよく見えるような気がした。走ると雨粒が顔をたたく。地面はどこも濡れている。へこんだところは水たまりだ。見上げた空は灰色だ。そしてその灰色の空を覆い尽くさんばかりに、今、くじゃくの羽根が広がっている。








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