第三話
【3】
この街には雨が降っている。いつでも、毎日、かならず雨が降っている。雨がやんだことはなく、太陽は時たま顔を見せるが、それでも雨が降っている。この街はとても奇妙な街だ。
こんな話を聞く。七日前、ベルトゥッロ広場の大階段の右端に、天使の像があった。四日前にはダルダマール氏の家の近くにあった。二日前にはブランヴィル川のほとりにあった。ところが昨日見てみると、それはベルトゥッロ広場にもどっていた。ただし向きが反対だった。それを見た誰かが「おや、あわてんぼの天使だこと!」と叫んだ。すると今日、天使の向きは戻っていて、足元の金属板の「美しく思慮深い天使某」という文字から『思慮深い』の部分が消えていた。
魚は何日かに一度、空を飛んでいる。虹はときどき輪っかになる。鎖のように連なったり、うろこのように重なったりする。どうかすると夜にも現れるので、オーロラにはいい迷惑だ。まったくこの街の夜空ときたら騒がしいことこのうえない。
七色の鳥はちかごろは姿を見なくなったが、ちょっと前まではよく飛んでいた。彼らは雨の中でも平気で飛ぶが、ときどき雨に溶けてしまって、空中で消えることがある。地上には七色の水たまりができる。そんなときは誰かがその水を集めてやると、そこからもとにもどることがある。もどらなければそれまでだ。白い鳥は建物と同じぐらい大きい。黒いのは小指のさきほどに小さい。どちらでもないのは、だいたいその間ほど。
キリンはというとときどきしゃべり方を忘れてしまう。キリンは、もちろん誰でも知っていることであるが、たいへん流暢にしゃべるし、物知りだ。それに紳士でもある。彼がドゥ・モリエ通りで困り果てたコートニール夫人をどんなふうに助けたか、知らない者はいないだろう。洒落者なので、シルクハットにネクタイがないと出歩かないのが玉に瑕である。みんなキリンに会いたいのだ。では猫は? 猫はいけない。彼らはあまりしゃべらないし、まっ黒いし、ときどき意地悪をする。だから、もしも街角で見かけたら、ひどい謎かけをされる前に、すぐに隠れてしまうのがよい。だがもしも素早く動けないとしても、心配はいらない。彼らが隠れるのは、それよりももっと素早いのだ。
猫は、実はこの街に住むほかのどんなものよりも臆病である。だが彼らは街のいたるところに潜んでいる。猫は、何らかの理由のためにこの街にいる。それは何だろう。もちろん、誰もそんなことは知らない。犬は? 犬はどうだろう。犬は、いくらかよい。彼らは学者のように気難しいが、ロッキングチェアの老人のように穏やかでもある。彼らは語り部だ。礼儀正しい来訪者にはとても親切にしてくれる。ときどき楽しい話を聞かせてくれる。そんなときはレモングラスをうんと詰めたパイプを持っていくのがよい。よろこんでくれるだろう。
この街では何から何までみんな奇妙だ。もしこの街の外に住む者がこんな話を聞いたなら、こう言うだろう、「そんなことあるもんかね!」それはある意味において正しい。この街はたしかに奇妙だからだ。その最たるものは、この街では雨がやんだためしのないということだ。いつから降り始めたのか、いつやむのか、誰も知らない。それはとても奇妙なことである。だが誰もそのことに気づかない。あるいは、気づいていても、どうでもいい。街の外のことは誰も知らないし、あるいは、おぼえていないというかもしれない。みなこの街に住んでいる。もしも街の外に、魚が空を飛ばず、シルクハットをかぶったキリンが言葉を話さず、まして重たいブロンズ像が勝手に動いたりもしない世界があるなどという話を聞いたら、この街の住民は笑い飛ばすにちがいない。「そんなことがあるもんかね!」
クインシー・ロレンスとミシェル・ルグランは、いつこの街にやってきただろう。それはふたりともおぼえていない事柄である。二人とも、ある一点から、時間の軸のある任意の一点から、この街にいた。その前のことはおぼえていない。だが、うっすらとおぼえていることもある。
夜になると、ミシェルはたまにピアノを弾く。このピアノがどこから現れるかについては、前に述べたとおりである。いつもは無いが、ミシェルがピアノを弾くときに、ピアノがなかったためしは一度だってない。
「考えることがある」と、鍵盤に指をすべらせながら、ミシェルが言う。「僕らについて」と、クインシーは返す。何度も何度も繰り返されてきた会話は、このときもまた繰り返される。
ミシェルは「そう、考えなくちゃいけない」と言う。
「僕らがいつからこうだったかってことに関しては、もう考えつくしてしまったよ」
クインシーは苦笑いする。緩やかなピアノの音色を聴きながら、彼は壁に頭をあずける。
「たとえば何かのきっかけで、何かが変わると思うかい?」
「何かのきっかけ」
「たとえば、雨がやんだら」
ミシェルは窓の外に目をやった。降り続いたままの雨がみえる。もうずっと降り続いている。ミシェルがピアノを引き続けるように、外では雨が降り続く。
「――雨がやんだら」
クインシーも外を見る。ふたりの視線は、べつべつのところからはじまって、ひとつのところに集約する。カーテンのない窓の外は暗がりで、街灯の灯がところどころに白く浮かび上がっている。遠くオーロラが見える。いつものように。でも、今夜は、虹はないようだ。
街はねむっている。みなねむっている。そして色のない沈黙の街に、音もなく雨が降っている。
「うっすら憶えていることがある。いつのことだか、わからないけど」
「こうなる以前のこと」
ミシェルはうなずく。彼の指はすこしも迷わず、八十と八つの鍵盤の上をなめらかに動く。なんの曲だろうか。ミシェルがつくった曲である。名前はなく、決まった旋律もない。譜面もない。ミシェルはただ鍵盤に触れる。「雨が降る前のことだ」
「そんなことがあっただろうか」
クインシーは窓の外を見たままつぶやく。「いつから降り始めたかなんて、僕はおぼえちゃいないんだ」
「君はまだ子供だった」
「じゃあ君だって子供だったろう」
「それが、どうやら僕は子供だったことがないんだよ」
ミシェルの指が鍵盤の上をかけあがり、終着点で見事なトリルを奏でた。
「僕と君は、いつからいっしょにいるのだったか」
クインシーが首をかしげる。「それにこの街は、なんだか奇妙だね。いつから住んでいるのだか、忘れてしまったけど」
「なんでも忘れていくんだ。もうずっとそうなんだよ」
ピアノが終わる。最後の音を柔らかくたたいて、ミシェルは鍵盤から指を離す。クインシーはそろそろ眠たくなる。彼はあまり長く起きていられない。かといって、あまり長くもねむらない。
ミシェルはピアノのふたを閉めた。
「僕たちは、いつまでここにいるのだろうね?」
「いつまでここにいなけりゃならないんだろう」
ふたりの会話は、いつもおなじところで終わる。
「雨がやむまで」