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第二話


 【2】


 エンダイーヴ・コリーの赤い傘が窓の下にやってくると、二人は部屋を片付けて支度を始める。彼女が来る日は『発表会』だ。これは彼らの奇妙な習慣の一つである。どうしてそれをしなければならないのか、彼らにはわからない。だが彼らはこの決まりごとに縛られている。それはこの街にいくつか落ちているルールの一つなのかもしれない。彼らは必ず月に一度、『発表会』をする。

 散らばった絵の具や、テーブルや、家具をみんな部屋の隅によせて片付けて、寄せきれないものはみんなクローゼットに押し込める。このときばかりはミシェルもそうすることを怒らない。クインシーの不思議な絵でいっぱいの床の上は今宵限りのステージになる。発表会にはもちろんミシェルのピアノが欠かせないので、二人でうんうんうなりながら、大きなグランドピアノをステージの中央に持ってくる。このピアノがどこからきたか? いつもはもちろん見当たらない。でも、エンダイーヴの発表会の日に、ピアノがなかったことはない。

 そうするうち、シャンパンと果物とサンドイッチのかごを提げたエンダイーヴが呼び鈴を鳴らす。果物はかならずオレンジである。サンドイッチには、ロースト・ビーフとマスタードとレモン漬の苦ちしゃとが入っている。そして、これまで一度も鍵をかけられたことのないドアから、ひょっこりと顔をのぞかせる。

 今のうちにこのことをことわっておかなくてはならない。エンダイーヴ・コリー、あるいはエンダイヴ・コリーのことを、ミシェルもクインシーもイヴと呼ぶ。これはもちろんミシェルが決めたことだった。クインシーはVの音のはいるのが気に入らなかったので、しきりに別の名前がいいと主張したが、ミシェルが決めた制限時間のうちに代わりのちょうどいい名前を思いつけなかったので、イヴで納得することになった。エンダイーヴはそのあいだじゅう笑っていた。「私、あなたのそういうところ好きよ、クインシー。まるで採れたてのにんじんみたいじゃなくって」

「君に言われたかないんだよ、エンダイヴ」

 クインシーは肩をすくめて苦笑いする。彼はエンダイーヴのことが好きである。彼はエンダイーヴにキスをしないし、エンダイーヴも彼にキスをしないが、それはさほど問題ではない。ミシェルはというと、もちろん、エンダイーヴのことが好きである。

 エンダイーヴ・コリーは不思議な女だった。あけすけで、ほがらかで、小洒落ていて美しいが、特別で、誰にも何ものぞかせず、かといって誰に対しても何も隠さず、いつだってセーヌの川面にうかぶ陽溜りのようにほほえんでいる。

 ある人間は彼女をエンダイヴと呼び、また別の人間はマリー・エロイーズ、あるいはシャンテーヌと呼ぶ。ジョルジェットと呼ぶものもいる。彼女の名前はいくつもある。彼女はどういう名前で呼ばれても、まちがいなく返事をする。彼女が何者であるか、いまのところ知っているものは誰もいない。彼女は、この街に雨が降り始めた時から、ずっとこの街に住んでいる。クインシーと同じであり、ミシェルと同じである。

 彼女の髪はトビ色で、ところどころに赤が混じり、肌はおだやかなオークルである。全体的にとてもほっそりしていて、足と指がすごく長い。口を開けば歌を歌う。いつでもどこでも、なんでも歌にしてしまう。ある者は彼女をこまどりと呼ぶが、それはよく似合っている。

 イヴは上がりこんで床を見るや、うれしそうに手を合わせた。

「あら、クインシー! また絵を描いたのね。うん、今度のはいいわ、前のよりも素敵になったわ」

「イヴ、やめてくれ、褒めたりしちゃいけない。僕は彼のこの癖をやめさせようと思っているんだ」

「どうして? 芸術よ」

「大家に怒られてもかい」

「怒られるの?」

「ゆかに絵を描くなって。そりゃそうさ」

「それなら、壁に描くといいわ」

 イヴは笑いながらクインシーのやわらかい金髪をなでる。クインシーは、ミシェルとイヴにだけ、髪をなでることを許している。

「ゲストは来るの?」

「いいや。君と僕らだけだ」

「そんなら気取らなくて結構ね。始めましょ」

 ミシェルがピアノの前に座る。イヴは、雨に濡れたコートを脱いで、ステージの中央にすすみ出る。彼女にマイクはいらない。彼女の歌は、まるで蜜混じりの雨のように、どこまでも広がって染み込んで、たちまちあたりを満たしてしまう。

 ミシェルの指が鍵盤に落ちる。彼のかなでるピアノの音色は、彼そっくりに生真面目で、ウイスキーのように柔らかい。あまだれに似た最初の音が鍵盤に落ちると、細長い指は解き放たれたようになめらかに動き、音のしずくが洪水に変わってあふれ出す。クインシーは音楽ができないし、担当する楽器がないので、ゆかに座り込んだまま、いつもそばで聴いている。彼の手にはまだ絵の具まみれの布がまきついていて(これがミシェルの着古したシャツだったりするので困ったものだ)、床には絵の具がしたたり落ちる。青や赤、みどり、群青、黄色に桃色、クインシーはひとつも気にしない。ミシェルやエンダイーヴも気にしない。それらは彼の絵の一部である。

 音のひとしずく、絵のひとしずく、何もかもに理由がある。この街にふり続ける雨だれとそれはよく似ている。その音を目に見えないグラスに汲んで、琥珀と銀のまじりあった美しい音楽を古代の王のように飲み干すと、それは極上の酔いである。このとき、感性はくるおしく胎動する。

 やがてイヴの歌声が重なりあう。彼女の歌声は、いかにも若い女にふさわしくみずみずしいが、同時にもう何百年も開かれていない本のように深く、古い黄金の含蓄がある。美しいが、枯れていて、枯れているが、潤沢である。神話の中の双頭のけもの、華やかな街角の恋人たち、忘れ去られた小瓶のなかに閉じ込められた、砂漠の都市の人々の声、そういったものに似ている。未知と郷愁がまじりあい、悩み事と歓びとがまじりあう。調和と不調和はまるで初めて出会う者どうしが気恥ずかしい握手をするように、おそるおそる寄り添いはじめる。彼女は歌う。

 発表会は夜通し続く。終わりの合図はクインシーの金髪あたまがころりと床に落ちたときだ。彼はいつも途中でねむってしまうのだった。

 イヴが肩をすくめて合図をおくると、ミシェルはピアノを弾きやめる。二人はクインシーをベッドに運び、寝かせ、部屋の隅に片付けたテーブルと椅子に向かい合う。いつまでも向かい合ってシャンパンを飲み、チーズをかじる。

 あとは、雨の音だけが夜の闇を抱いている。







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