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最終話

 

 【16】


 クインシー・ロレンスとミシェル・ルグランがそれからどうしたか?

 彼らはもちろんデルミナヨ通り七番地の安いアパルトマンに住んでいる。ふたりでひと部屋、ベッドも一つ、テーブルも一つ。椅子だけは一つというわけにいかないので、ふたつ置いている。それからテレビ。ラジオ。オーディオ・プレイヤー。持ち運べるものをふたりとも持っていないので、音楽はどちらかが譲り、どちらかが譲られて、そのとき聴くべきものを聴く。ミシェルは趣味人ぶってブラームスやチャイコフスキー、ベートーベンのピアノ協奏曲、リストにラフマニノフを聴きたがる。クインシーは自分の感覚にしたがって、モーツァルト以外はよいと思わないしよく分からないと正直に白状する。ミシェルは言う、「君は絵のほかはからっきしだ」クインシーは答える、「いつか君に絵の描きかたを教えてやれたらと思うんだけど、君はあんまりよろこんでくれそうにないね」

 ふたりは肩をすくめ、話をやめる。それからミシェルはクインシーに食事を用意し、替えのシャツを用意し、絵の具まみれのジーンズでベッドにもぐりこまないよう説教し、洗面台で顔をあらい、きちんとネクタイをし、かばんを肩に引っ掛けて仕事に出かける。彼のかばんには必要なものがいろいろはいっている。彼がなにか必要なとき、彼のかばんには必ずそれがはいっている。

 ミシェルはかばんを必ず右の肩にかける。左手は何かのときのためにあけておくのだと彼は言う。「何かのときって?」とクインシーがたずねると、「その時になってみなくちゃわからない」とミシェルは答える。「君はちかごろ、僕みたいなものいいをする」とクインシーが言い、ミシェルは片方の眉を上げてほんのちょっぴり笑う。彼がこんな笑い方をすることはどちらかといえば珍しいが、それはたぶん、髪や爪がのびることとさほど大きく違ってはいないことを二人とも知っている。人間は生きている限り変化し続けるものであるから、そのうち彼が大口を開けて笑うようになったって、クインシーが彼をミシェル・ルグランと呼ぶことはかわらない。ミシェル・ルグランがいつか言ったことがある。「勘違いしないでもらいたいのは、僕は君のことをどうとも思っちゃいないってことだよ。つまり、君がどんな人間であるか、僕は知らないんだ。だから君がどんなにおかしなことをしたって、僕は君をクインシー・ロレンスと呼ぶほかないんだよ」

 そのときのことをもう少し詳しく述べることにすると、これが実に唐突だったので、クインシーは少しばかり面食らったのだった。なにしろこのとき――何年前の何月の何日だったかは分からないが、天気のいい日だった――彼らはひとつの部屋の中にいながら、てんでばらばらなことをしていたからである。四六時中いっしょにいる人間たちは、お互いがお互いをじょうずに気にしないやりかたを覚えるものである。たぶんクインシーはぼんやり窓の外をながめていて、ミシェルはソファで読書をしていた。彼はぶ厚い本から目を離しもしないまま、いきなりそんなことを言った。

 クインシーはちょっと考え、

「たとえば僕が君みたいに四六時中きりきりして洗濯物の采配をしたり、手際よく食事の準備をしたり、月ぎめの支払いについて考えたりするってことかい?」

 ミシェルはそっけなく「いいや」と言った。

「君が言うのは、ただ単に君らしからぬ行動ってことだよ。僕は君をどんな奴だとも思っちゃいないんだから、何が君らしくて何が君らしくないかなんてことは、本当はどうだっていいのさ。君がいきなりアガペってやつにめざめようが、道のど真ん中でルール・ブリタニアを歌いだそうが、僕はどうだってかまわないけれど、君の面倒をみる手間が増えるから勘弁してくれと言っているのさ」

 彼はちらりとも目を上げなかった。クインシーはミシェルの言葉を二度ほど咀嚼してみたが、どうもよくわからなかったので、「人間はどっちかというと球体で出来ていると、僕も思うよ」と答えておいた。ミシェルはほんの少し笑ったようだった。

 そんなことがあったというだけのことである。二人がこのことをおぼえているかどうかは確かめるすべがない。ミシェルがここのところほんのちょっぴり見せている変化について、もしかしたらクインシー・ロレンスは思い出しているかもしれない。でも彼は物事をあまり深く考えないたちなので、まあどうだっていいさ、とお決まりのせりふひとつで再び忘れてしまうのかもしれない。

 変化といえばクインシー・ロレンスもまた少しばかり関係がある。シャワーの後のタオルについてはミシェルが心配することはなくなった。クインシーは近ごろ、いくらか自分のめんどうを自分でみるようになった。ときどき――気が向いたときに。別にどうってわけじゃない、と彼は言う。やりたいわけでもないし、やらなきゃならないと思っているわけでもないさ、そういうのはとても自由なんだ、別にどっちでもまったくかまわないんだよ、と彼は言う。

 ミシェルが行ってしまうと、クインシーは描きかけの床の絵をじっと眺める。しばらくそうしている。やがて絵筆を吟味する。あたりに散らばった筆を一本一本手に取り、むずかしい顔で首を振り、やっぱり最後には、てきとうな布切れを手にぐるぐると巻きつけて、絵の具をたっぷり染み込ませ、それでもって塗りたくる。赤、青、みどり、だいだい、白、ももいろ、青、水色、みどり、赤、青、黄色、みどり、みどり。彼はとても自由に描く。理不尽で不合理で美しい色の洪水は混ざり合い、重なり合い、それはひと塗りごとに誰も見たことのない世界を創造する。クインシー・ロレンスそのものと溶け合ってひとつになる。

 やがて彼は手を止めた。いつの間にか夕暮れになっていた。窓の外に、きらめく夕陽がもえていた。彼はその絵がようやく完成したことを知った。彼は、これほど奇妙な孔雀を見たことがある奴はどこにもいないさ! と満足そうにつぶやいた。彼は上機嫌で立ちあがった。するとすぐ近くにまっ白なカンバスがあることを思い出した。彼はそれをちらりと見、それでもって飾らなければならないどこかの応接間があるのを思い出し、ほんのちょっと迷ってから、肩をすくめた。「まあしかたないさ」

 彼は着替えもせずに、シャツもジーンズも絵の具まみれのまま、鼻歌まじりに部屋を出る。鍵はかけない。彼は一度も鍵をかけたことがない。細長い脚を踊るようにおりまげて、彼は階段を下りていく。

 アパルトマンの玄関を出ると、陽はさらに落ちていた。秋の終わりの風の匂いが枯れ葉と一緒に流れてきた。真っ赤な空が少しずつ冷えはじめていた。世界は確かに質感をもって息づいている。群青色の時間がすぐそこまできている。クインシー・ロレンスはそのまましばし階段に腰かけていた。

 どれほどか経った頃、ミシェル・ルグランがもどってきた。どれほど待ったか? それはさほど重要でない。ミシェル・ルグランは戻ってくるべき時に戻ってきたということだ。クインシーは彼に向って絵の具だらけの手を広げて見せた。ミシェルはどういうわけか肩掛けかばんからテニス・ラケットの柄をとび出させていた。

「できたのかい」

 とミシェルが言うと、クインシーは「たぶんね」といった。

「それじゃあ僕らは行かなけりゃ」

「イヴがサンドイッチを持ってくるかな?」

 ミシェルは少しばかり考え込む。「彼女が僕らにとって都合のいいときに訪ねてきたためしがあるかい」

「でも何も用意していないんだよ」

 クインシーが困った顔をする。ミシェルはかばんを肩に掛け直す。

「君の絵があるさ」

 二人はならんで歩き出す。

「ときどき、まだ夢の中にいるんじゃないかと思うことがあるよ」

 途中で、ぽつんとミシェルがつぶやく。「あの子の夢じゃなくて、ほかの誰かの夢の中に。あのとき僕らはまるでそのことに気が付いていなかったわけだからね」

「この世界そのものが神様の見るちょっとした夢かもしれないじゃないか」

 前を向いたまま、クインシーが答える。

「それも、ほんのちょっとした昼寝なんだ。たぶんもうすぐお目ざめになって、それはそれはお忙しくお仕事にお戻りになる。そしてまたお疲れになったころに、またお昼寝をなさるわけさ。そしたらまったく別の、新しい夢が始まるんだ――夢のまた続きを見るなんてのは、神様だって出来ないにちがいないんだからね」

 ミシェルは少しばかり驚いたという顔をしてクインシーを見た。「誰が言ったんだい?」

「僕だよ」

「クインシー・ロレンス?」

「そうさ」

 ミシェルは両手を投げ出した。「なんていうか――とても刹那的だ。そうすると神様が何かの拍子で――鼻ちょうちんがパチンと割れでもして目を覚ましたら、みんな消えちまうってことだね?」

 クインシーは愉快そうに笑う。

「あたりまえじゃないか!」

 二人はしばらく黙って歩く。やがて、「君がいつまでたってもシャツのしまいかたをおぼえないわけだ」と、ミシェルがため息をついた。

「そうすると僕らは夢の中で夢を見るのかい」

「僕らが僕らの夢の中で夢を見ているわけじゃないよ。僕らの夢は、僕らのもので、それでいいんだ」

「僕の生徒は誰もそんな考えをしない」

「そりゃあ、先生が君だもの」

 二人はまたならんで歩く。

 やがて二人はいくつかの通りを抜け、いくつかの角を曲がる。雨どいのついたりっぱな窓が見えてくる。雨は降っていない。カーテンの内側からわずかに光が漏れている。

 二人は呼びりんを鳴らす。出てきたのは母親だった。クインシーとミシェルはとても丁寧に、礼儀正しく挨拶をし、ドロシー・ソレイユの友人だと告げた。

「たぶん、おじょうさんがお目ざめになった頃だと思うのですが――」

 母親は、ぽかんと口をあけた。


 彼らはドロシー・ソレイユと会ったか? もちろん、会った。ちゃんと目を覚まして、ベッドのうえに身体を起こしているドロシー・ソレイユに会うことができた。傍らには小ちゃな金髪の女の子がいて、水差しをはこんだり、オレンジののったお皿をさげたりして、ちょろちょろと姉の世話をやいていた。エリザベスだ。もう泣いていなかった。ドロシー・ソレイユの長い夢が終わったことを、この少女もまた知ってるのにちがいない。

 ドロシーは長くのばした髪で顔の右側を隠していたが、クインシーとミシェルが部屋に入ってきたのに気がつくと、もう左半分でずいぶんとびっくりした。青い目をこぼれそうなほどみひらいて、「まあ――まあ! なんてこと!」

 クインシーとミシェルはドロシーとエリザベスに挨拶をした。クインシーは道化のようにおどけたお辞儀をした。「こんにちは、ドロシー。まさか僕らを忘れちゃいないだろうね?」

 ドロシーはとても嬉しそうに、「あたしがあなたにもらった孔雀をどれだけ大事にしているかって聞いたら、そんなことは言えるはずがないわ!」とささやいた。

「じゃあ約束もおぼえているかい?」

「約束ですって! まあ――あたし、信じられないわ。あなたたちこそ、あたしを忘れてしまったのだと思っていたのよ――」

「ずいぶん遅くなっちまったことを赦しておくれね。ほんとうにすまなかったと思っているんだよ。うちへ遊びに来てくれるだろうね、ドロシー?」

「きっと!」

 ドロシーはクインシーのキスをくすぐったそうに受けた。それからカーテンの陰にかくれていたエリザベスを呼びよせて、「あたしの妹よ」と紹介をした。そのしぐさはとても優しかった。エリザベスがもじもじするので、クインシーは小さな手をとって握手した。「僕らは会ったことがあるかな?」

 エリザベスはちょっと考えて首を振った。クインシーはほほえんだ。

「そうだね。もちろん、そうだ」

「遊びに来て下さって嬉しいわ。まだ信じられないぐらいよ。ご迷惑でなければいいんだけど、あたし、ずっとあなたたちを待っていたような気がするの。ああ、こんなひどい格好でなけりゃ――」

 ドロシー・ソレイユは恥ずかしそうに、じぶんの着ているねまきを示した。「せめて髪を梳いたばかりでよかったわ。私のことをみっともない子だと思わないでね、ずいぶん長く寝ていたものだから……たぶん、まだ体のあちこちが眠っているのよ。何から話したらいいのかしら?」

「もちろん、僕らは何も気にしやしないよ。ぐあいはどう?」

 ドロシーは、まあまあ、と答えた。それから顔の右側を覆い隠している髪をよけて、ただれた皮膚のあとをほんの少しのぞかせた。「おおげさだけど、ぜんぜん痛くないのよ。髪ものびたわ」

 ドロシーは微笑した。それからとても静かな声で、

「ちょっと、ついてなかったのよ」

 と言った。


 三人は連れだって外に出た。ドロシーは足元があぶなっかしかったので、クインシーとミシェルの間で、二人がそれぞれ半分ずつ支えるようにして歩いた。

「なんて不格好なの!」

 とドロシーが笑い、そのときミシェルとクインシーが示し合せたように彼女の体を両脇から持ちあげたので、まるでぶらんこみたいになって、もっと笑った。

「でも、楽しいわ!」

 彼女の母親はもう日が落ちているからと、娘を外出させることを渋ったが、ミシェルが帰りもきちんと送り届けるつもりだと言うと、何度目かにようやく了承した。彼女の母親は、いま、どれほどドロシーを愛しているのか? クインシーとミシェルはふとそのことが気になったが、それはわかりようもないことだった。父親の姿は家のどこにもなかった。ドロシーは一年と一ヶ月と七日、眠り続けていたという。起きたのは先日のことだった。その間にもしかしたらなにかあったのかもしれない。それがドロシーにとって幸福かどうかもまたわからない。

 母親はドアを閉めるときに「気をつけて」と言った。ただ紙を読み上げるようでもあり、わざと心をこめないで発音したようにも聞こえた。ドロシーはその言葉を何度も耳の中で繰り返し聴くように、しばらく目を閉じたままで歩いた。

 彼らがデルミナヨ通り七番地のアパルトマンに着くのは、もう少し先のことになる。だがドロシー・ソレイユの夢は終わったのだから、もうこれ以上はやめておいたほうがよさそうだ。これから彼ら三人は、アパルトマンのあの部屋で、少しばかり楽しい夜を過ごすことだろう。夜空には月が煌々とかがやいていることだろう。もちろん、星も輝くことだろう。虹とオーロラはどこか遠い国の空にあることだろう。

 雨は降らない。降っていない。秋の始まりの、風の匂いが満ちている。








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