第十四話
【14】
彼女と、彼女の大切なくじゃくに何が起こったか?
その日の夜、ドロシー・ソレイユの部屋を誰かがノックする。ドロシーはベッドに寝そべって、大好きなお絵描きに夢中だった。このときばかりは、彼女の世界は彼女だけのものだ。ドロシーはとても絵が上手だ。彼女は頭の中に、もう一つのすてきな世界を持っている。そこでは魚が空を飛ぶことも、キリンやイヌがまるで人間のように話すことも、なんでも許されている。その世界は美しいファンタジーに彩られている。
ノックがやまない。ドロシーは仕方なく立ち上がる。ドアを開けると、小ちゃな妹のエリザベスが立っている。リズはひどく泣いている。
「どうしたの」
と、ドロシーはたずねる。リズは泣きながら、彼女の大切なくじゃくを盗んだことを謝った。ドロシーはそっけなく「もういいわ」と言った。
リズはその場から動かない。まだぐずぐず立っている。許してあげるといったのに、彼女はまだ姉の機嫌がなおっていないことを知っているのだ。こうしてぐずぐずしていれば、いつか赦してもらえることを知っているのだ。こんなとき、放り出してやることができたらどれほどいいだろう。ドロシーはいらいらしながら考える。リズなんて知らないといって、彼女を廊下に残したままこのろくでなしの扉を閉めてやることができたら? だって彼女はリズのことが嫌いなのだ。同じパパとママの子なのに、ひとりだけ愛され、可愛がられ、あらゆるわがままを許され、新しい服をいつも着ていられるこの妹!
ドロシーのなかに育った意地悪な気持ちは、彼女にリズを憎ませる。だが彼女はそれと同じぐらいはっきりと知っている。この泣いている女の子が、本能でもって、無条件に、かならず愛さねばならないただひとりの相手であることを知っている。魂の片割れであることを知っている。ドロシーは決してリズを追い出せやしないのだ。
しかたなく部屋に入れてやると、リズは部屋が暗くて怖いと言いだした。ドロシーの部屋には電気がなく、しょんぼりした壁掛け燭台が二つあるだけだ。そのうちの一つにはロウソクが一本もささっていない。パパとママはなかなかロウソクをくれないので、ドロシーはいつも灯りをけちって一本きりしかつけない。昼間はお陽さまで、夜は月と星明かりで、大好きな絵本を描いている。
リズがいつまでもぐずるので、ドロシーは引き出しからもう一本ロウソクをとりだした。大事にとっておいたロウソクだ。「灯りをつけてあげるわ。だからいつまでも泣いてるんじゃないのよ」
火のついたロウソクと脂皿をもって、ドロシーは背伸びした。燭台にロウソクを引っ掛けるのに、ちびのドロシーはいつもそうしないと手が届かない。あと少し、もう少し。ドロシーはせいいっぱい手を伸ばす。
そのとき――そのとき、リズが、小さく引きつった声をあげてドロシーのネグリジェにしがみついた。
おどろいてつま先を閊えたドロシーの手からロウソクが滑り落ちた。そこからすべての時間はあまりに遅く流れた。――いったいなぜ、リズはそんな馬鹿なことをしただろう? この小さな妹は、部屋の隅にわだかまる暗闇の中に何か恐ろしいものの影を見たような気がして、姉にすがりついたのだ。リズは暗いところが怖い。姉のドロシーがそうであるように、リズもまた、暗いところを恐れるようにできている。ただでさえ心を痛めていた幼い彼女は、胸の中の不安をそのまま形にして、知らない世界から呼び出してしまった。
ちょっとした不運――きっと、そんなようなことに違いない。誰も悪くない事故のことを、ときどきそんなふうな言葉で表すことがある。誰も悪くない。ただ、ああ、運が悪かった。ちょっとした不運……ドロシーがあと一秒でも早く燭台にこの気の利かないロウソクを引っ掛けていたなら、リズがあとほんの半秒でも暗闇の怖いのに耐えられたなら、起こらなかったことだった。だが、起きた。
ドロシーの手をからこぼれたロウソクは、信じられないほどゆっくりと、彼女の腰にしがみついた幼い妹の顔をめざして落っこちた。ドロシーは何も考えられない。ただその瞬間、彼女の心を熱い風が吹いた。ざわついた血はドロシーを引っ張り、突き動かす。姉としての、家族としての、言葉にならない、理由のない愛が、彼女をそうさせる。
この夜、ドロシー・ソレイユの顔の右半分は火に包まれ、焼けただれた。ドロシー・ソレイユは、それきり目を覚まさなくなった。
彼女のふた親がどうしたか? 彼らはドロシーを憐れまなかった。その代わり、おそろしい悪魔の子の印が消えたというので、ドロシーをこれまでよりはいくらか愛することに決めたようだ。なんということだろう。彼らは、娘のたったひとつの生まれ持った特徴――つまり、ドロシーの眼は、ほんの少しばかり斜視がかっていたので――そのために彼女を悪魔の子と呼びつづけたのだった。彼女の右目は炎とともに焼けただれ、つぶれてしまった。今、残るもういっぽうの目も、開くことはない。
ふた親はドロシーを南向きの日当たりのすてきな部屋に寝かせ、そのまわりを美しく飾り付けた。その様は眠り姫のように美しく、魔女のようにみにくく、柱の影に忘れ去られた赤い靴のように痛ましい。
彼女の枕辺に孔雀を置いたのはエリザベスだった。姉の大切な宝物を、リズは真っ赤に泣き腫らした眼をして、小さな手でそっと置いた。真っ蒼な二つの眼が、ドロシーの眠りを守るようにのぞきこんでいる。孔雀の眼はドロシーを見つめる。ただれた右側を、すべらかな左側を、そして、彼女の見る夢を。
***
ドロシー・ソレイユの見る夢は美しい。
彼女は雨を望む。雨とはなんであるか? 彼女にとって、たったひとつの約束を呼び起こすものである。ただ一つの友情、あるいは淡い恋だったかもしれない、あるいはもっと子供じみた、他愛のない何かだったかもしれない。子供の夢のように不確かで、柔らかで、理不尽で、いじらしい何かだ。きっとただのきらめく雫に過ぎない、真っ暗な世界に落ちたきらめくなにかのひと雫に過ぎない。だが、それはどれほどに輝いていたことだろう! ドロシー・ソレイユはそのために雨を望む。なぜ? 雨の日に出会ったから。誰と? あのすてきな人たちと!
雨が降れば、あの人たちはきっとまた雨宿りに来てくれるのに違いない。だってあの人はそう言ったもの、金髪の、仔犬みたいなあの人! また雨が降るまでって、あの人は言ったわ。そうしたら会いに来てくれるわ、きっとそう、だってあたしはこんなに願っているじゃない。
ドロシーは雨を望む。閉じた瞼の裏で、ドロシーの祈りはせつなく募る。雨が降れば、あの人たちがやってくる。雨がやまなければあの人たちは帰らない。楽しい時間は永遠に続き、あたしたちはずっと仲良くおしゃべりをするのよ、素敵だわ、そうでしょ?
ドロシーは夢を見る。雨を望む。もっともっと降ればいい。もっと長く、もっとたくさん。いっそ永遠に! 夢の中で、彼女の祈りがついに力を持つ。
彼女の夢はひろがった。まるでくじゃくの羽根のようにひろがって、この街をみんな呑み込んだ。クインシー・ロレンスとミシェル・ルグランをつかまえ、空想のお絵描きの中のイヌやキリンやネコや魚、七色の鳥、オーロラ、虹もみんなつかまえた。何枚目かの画用紙から大好きなソフィも出てきた。彼女がいつも描くのは、きれいで歌のとても上手な、いつかドロシーがこんなふうになるはずの、ほっそりした女の人の絵だ。ドロシーは彼女にソフィと名前をつけている。彼女の歌はなにしろとても美しい。いちばん得意な歌はなにか? もちろんなんだって歌えるけれど、いちばんすてきなのはなんといっても子守唄だ。ドロシーは子守唄を聞いたことがないけれど、ソフィがいるからさびしくない。彼女はいつしかママの代わりになった。
エリザベスを憎む気持ちから双子が生まれ、エリザベスを愛する気持ちも双子を産んだ。愛らしいリズリヴェッラは可愛いリズ、生意気で憎たらしいリズリヴェートは嫌いなリズ。リズなんかにはママの歌を聞かせてあげたくないとドロシーは思っている。でも聞かせてやらなくちゃと思っている。
ドロシーはどうしたらよいかわからない。彼女の夢はひろがりすぎて、彼女の手にあまりはじめた。この世界はひどく理不尽で、不可解で、突拍子がなく、不完全で、わけがわからない。夢のように? 夢のように。この夢ははちきれそうなほどの切ない祈りでできている。まるで揺れ動くドロシーの心そっくりに、歪んで、はじけて、美しくなって、みにくくなって、それでもきらめき、叫ぶように拍動している。
ドロシー・ソレイユが焼け焦げる熱のなかで見る夢は美しい。
とても悲しく、美しい。