第十話
【10】
ドロシー・ソレイユが焼け焦げる熱のなかで見る夢は美しい。
彼女はこの物語のなかにようやくお目見えする。なかに、という言い方はあるいは奇妙かもしれない。彼女はこの物語のすべてである。ドロシー・ソレイユがすべて知っている。
彼女はベッドの中に行儀よくあおむけになって眠っている。目覚めることなく眠っている。もうどれほど眠っているのか? とても長く。赤毛の人形を抱いている。名前はない。枕元には、硝子と陶器との孔雀の置物がある。ひろげた羽根にも、首にも、頭にも、キラキラ光るガラス玉ががたくさん埋め込まれている。その両目はたいへん美しい青瑠璃である。あるいはラピスラズリかもしれない。アズライトかもしれない。まるで彼女を護るようにのぞきこんでいる。
彼女はいつ目覚めるのか? それは誰にもわからない。彼女のふた親は、彼女が眠り始めたとき、寝室をまるでおとぎ話のように装飾した。みにくくなってしまった娘のために、彼らがした、たった一つのことだった。
ドロシー・ソレイユは夢を見ている。
ドロシー・ソレイユに何があったのか?
***
目覚めると、クインシー・ロレンスがゆかに絵を描いていた。ミシェルはもうすっかり慣れっこなので、ベッドの上から「そのシャツはまさか君のじゃなかろうね?」と嫌味をいった。クインシーは振り返って「もちろん君のさ、ミシェル・ルグラン」と答えた。ミシェルは肩をすくめた。
スクランブル・エッグかベーコン・エッグかについての議論はすぐに終わったが、ハニー・トーストにすべきかプレーンにすべきかについての議論はなかなか終わらなかった。仕方がないので、クインシーはいったんプレーン・トーストで妥協して、それから改めて蜂蜜をぬった。ミシェルは澄まし顔で何もつけないパンをかじった。彼はコーヒーにもミルクと砂糖を入れない主義だ。
二人は黙々と食事をする。やがて食事がすむと、クインシー・ロレンスはまた手に絵筆代わりの布切れをまきつけて絵の具の海にとびこむ。ミシェルはランドリーにもっていくシャツとそうでないのを選別しながら、それをながめる。クインシーの背中は迷いなく動いて、あっちこっち、床に絵の具を塗り重ねる。絵の具は決してなくならない。ふと思い立ってこう尋ねる。「君はなにを描いているのだっけ?」
「くじゃくだよ」
クインシーの後ろ頭はすぐに答える。彼がこんなにはっきりと答えたことがあったかなと思いながら、ミシェルはオウム返しに「くじゃく?」という。
「それはちっとも知らなかったよ」
「僕だって知らなかったよ。このあいだ分かったのさ。どうやらここ何日か僕らは顔を合わせていなかったようだから」
ミシェルはおどろく。「なんだって?」
「僕だってうまく言えやしないさ。でも今日、僕らはお互いにおはようと言ったけれど、本当は久しぶりと言うべきなんだよ。僕らはきっと何日か会っていなかったんだ」
「どうしてそう思うんだい」
クインシーは手をとめた。「僕がおぼえているからさ」
「おぼえている?」
「こんなこと初めてだよ。なんて言ったらいいのだろ。僕は、君といっしょにいなかったんだ。僕はここ何日か、たぶん、一人だった。一日か一週間かわからないけれどね。そこで色んな事があったんだ。くじゃくが出たのを知っている? 確かキリンが迎えに来たんだ。くじゃくが出たけど、なかなか消えないってんでね。僕は今まで自分がなんの絵を描いているのだかよくわかっていなかったのに、くじゃくを見ていたら、いやに似ているってわかったんだ。僕はその間のことをよくおぼえているんだ……そういや君はどうしていたんだろう! その間、僕は君のことをこれっぽっちも考えやしなかった、それどころか君のことをすっかり忘れちまっていた。まるで最初からミシェル・ルグランなんてのはいなかったみたいに」
ミシェルはおやと思った。「そういえば僕もくじゃくの話を誰かから聞いたような気がするよ――イヴかな? おや、そういえば奇妙だ。僕も君のことをこれっぽっちも考えなかったんだ。ああ、そうだ、思い出してきたよ。イヴが訪ねてきて――いや、違うな、その前に何かとても重要なことがあった。それにしたって、どうしちまったんだ? 君ぐらい手のかかるのはいないってのに、君のシャツのことや君の食事のことを、僕が気にかけないだなんて?」
クインシーはそうだろうというように肩をすくめると、また背を向けて、絵に没頭し始めた。シャツをほどいた指に青い絵の具をとりながら、「おかしいね。僕らはまるで、こうしてひとところにいないと、お互いのことを忘れちまうみたいだ」
そのときミシェルは何か思い当ったような気がした。頭の奥の、どこか大事なものをしまっておく特別の扉を、その何気ない声がちょっとばかり引っ掻いたような感じだ。――何だっけ? 僕はなにかそれについて思うことがあるはずだ――
その次に、つづけてクインシーが「出来のひどい人形劇みたいだ! 演者はお姫様と王子様と、ふたつの人形を操らなけりゃならないのに、そいつがあんまりへぼなもんで、一度に動かせるのはどっちか一方さ。おかげでお姫様が喋るとき、王子様は可哀想に、そこにいないことになって……」と独り言を言ったとき、ミシェルは「それだよ」とさけんだ。
「なんだって?」
「君は何を描いているって?」
クインシーはおおげさに口をひん曲げる。「君まで僕みたいになるつもりかい。くじゃくだって言ったじゃないか」
「そう、くじゃくだよ。それで僕が何を見たと思う――」
ところが、ミシェルはすぐにしゃべるのをやめてしまった。ついさっきまで満たされていたものが、今はもうからっぽだった。まるで吸い取られてしまったように、たった今まで言おうとしていたことのすべてがどこかへ消えてしまったのだった。ミシェルは自分の唇にふれた。クインシーが目をぱちくりさせている。
「つまり……君の言うところの、僕と君がいっしょにいなかったあいだ」
無理やり言葉を継いでみたが、もう駄目だった。ミシェルは何を言おうとしたのだか、すっかり忘れてしまって、まるでねじでも切れたように、すとんと手を下ろした。
「どうしたんだい?」
クインシーが不思議そうに眼をかたむけた。ミシェルはたっぷり二分もそのままで固まってから、「だめみたいだ」と呟いて首を振った。
「何か大事なことを君と話さなけりゃならないと思ったのだけど」彼はため息をついて残りのパンをひろいあげ、かじった。「盗まれたみたいだ」
「悪戯好きの小人でも頭に飼っているのかい」
「盗まれたように忘れたってことさ。そんな慣用句なかったかな」
「あったかもしれないね。どっちにしろ君はそれを忘れちまったんだね?」
「おかしなことだよ。君に何か言わなけりゃならないことがあったような気が、今だってしてるんだ」
ほらこのへんに、と、彼は自分のこめかみを指さしてみせる。
「離れていたあいだのことを、僕らがこうして憶えているのは、どうやら今までになかったことだよ」とクインシーが言う。
「いったいどうしたことだろうね?」
「そんなの僕にだってわからない」
「イヌが言っていた。今までそうでなくて、今度ばかりはそうだ、というようなのはずいぶんナンセンスに聞こえるものだってね。僕はそれに同意するよ。なんでもかんでも揺らいでいるんだ。意味なんてないよ。もし意味があるときは、そいつは決して僕らから隠れられないんだ。だって真珠ができるのに何が必要か知っているかい? ほんのくだらない、ごみみたいなものさ。でも彼はそれに敬意を払うと言った。彼はそれを、種で、綻びだと言ったんだ」
ミシェルはうなずいた。それから少し声を強くして、はっきりと、「君はさっき、すごく近いことを言ったような気がするんだ。つまり――僕でも君でも、どっちかがお姫様で、どっちかが王子様ってことさ……いいや、たぶん、この街にある何もかも、みんなそんなようなことなのかもしれないって思うんだ」
クインシーは頭の上を見上げて、手をかざしてみせた。「僕らには糸なんてついてやしないよ」
ミシェルはもどかしい思いで言葉を探す。エンダイーヴ・コリーといた時は、確かに僕はそれらしい仮定をもって彼女に話すことができたような気がするのだ。だが今は、集めるそばからばらばらになって、どうしてもつながらない。僕は彼女になんといったのだっけ、そう、何かとても大切なことだ。僕が出会ったものについての、僕の仮説だ。仮説? いいや、仮説だが間違っちゃいない。きっとそうなのだ。何故僕はこのクインシー・ロレンスにそれを話すことができないのだろう?
クインシーはまたすっかり絵に夢中になる。ミシェルはその背中を見ながら、まだ言葉を探している。