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第一話


 【1】


 一つ仮定してみよう。

 もしもあなたたちがお互いに恋人で、他になにもすることがなかったら、単純だ、寄り添ってキスをすればいい。なにかしゃべる必要もない。恋人たちにとって、沈黙こそがもっとも雄弁なやりかたなのだから。

 ところでクインシー・ロレンスとミシェル・ルグランの関係は、それとは少し違っていたが、おおむね似通っていた。というのも彼らはもちろん恋人同士ではなかったからだ。それがまず問題だった。ただの知り合いというにはやや知り合いすぎているが、それだからといって彼らは連れ立ってディナーに出かけたり、贈り物をし合ったり、けんかの後に甘い仲直りをしたりすることとは縁がない。でも彼らは一つのベッドで眠りもするし、気が向けばキスもする。そんなとき二人はたいていげらげら笑っている。「犬みたいなものさ」とミシェルは言い、「世話の焼ける飼い主だ」とクインシーが言う。

 二人の関係は時計の針に似ている。いつも好き勝手にばらばら動いているけれど、時には重なることもあり、そんなときは実にぴったりと寄り添っている。そして、これがもっとも重要なことだが、二者は必ず同じ場所にある。いちばん離れているときでさえ、決して見えなくなるほど離れたりはしない。根っこはいつも同じところにある。

 クインシーは孤児だった。生まれたときからひとりぼっちだった。それで、ミシェルはクインシーのめんどうを長いこと見てきた。彼がどんぐりのような目をしじゅう瞬いている、落ち着きのない仔犬だった時分から、ミシェルはクインシーのあらゆる世話を焼いてきた。その習慣が今も抜けない。クインシーは、今じゃミシェルと同じぐらい背が高く、体つきもしっかりしているのに、中身だけが仔犬のままだ。

 ふたりはデルミナヨ通りの安いアパルトマンに暮らしている。ふたりでひと部屋、ベッドも一つ、テーブルも一つ。椅子だけは一つというわけにいかないので、ふたつ置いている。それからテレビ。ラジオ。オーディオ・プレイヤー。持ち運べるものをふたりとも持っていないので、音楽はどちらかが譲り、どちらかが譲られて、そのとき聴くべきものを聴く。ミシェルは趣味人ぶってブラームスやチャイコフスキー、ベートーベンの何番目かのピアノ協奏曲、リストにラフマニノフを聴きたがる。クインシーは自分の感覚にしたがって、モーツァルト以外はよいと思わないしよく分からないと正直に白状する。レコードを片付けながらミシェルは言う、「僕らは分かりあえないね」クインシーは答える、「君だって本当は偉大なプレスリーが好きなんだ」

 料理はおおむねミシェルが作る(クインシーはひどく不器用だ)。クインシーの席に食器とナイフとフォークを出してやるのはミシェルの役目で、彼の首にナプキンをまきつけてやるのもミシェルの役目だ。もし夕食を終えたとき、クインシーの口のまわりにソースがついていたなら、それを拭いてやるのもミシェルの役目だ。シャワーのあとにクインシーの身体を拭いてやるのはミシェルの役目で、濡れた髪を乾かしてやるのもミシェルの役目だ。べつにクインシーがそう望んだわけではない。彼は実のところ人の世話を焼いたりするのが実に嫌いな性分だ。それでもミシェルがそうしないとクインシーはなにもしない。この困った同居人は、たとえ泥たまりですっ転んで全身真っ黒になってしまったとしても、うちへ戻って平然とソファに座り、平然と夕食のテーブルにつく。だからミシェルが何でもかんでもやってやる。そんなときクインシーは実におとなしい。

 洗濯は近くのコイン・ランドリーですべて済ませる。クインシーは横着者だから、ほうっておくと二日も三日も同じシャツを着ていることがよくある。彼はその代わり、寝ることも食べることも忘れて絵を描いている。

 クインシーは何者か? 彼は芸術家だ。木の板のゆかがキャンバスだ。彼は布の端切れを手にぐるぐる巻きつけ、赤や青、みどりの絵の具をたっぷり染み込ませ、それを床板に自由に塗りたくる。とても自由に。そんなふうにして、彼は何日でも絵を描いている。好き放題に描いたあと、絵の具が乾くのを、彼は子供みたいに心待ちにする。でも彼の絵は決して完成しない。絵の具がかわいたら、その上にまた端から塗りたくる。絵の具が足りなくなると、どこからか出てくる。彼はこんなとき、決して外出をしない。タオルをぐるぐるに巻きつけて髪の毛を留め、食事はせず、眠りもせず、そしてシャツは替えない。

 そういったことをやめさせるのもミシェルの役目だった。「文明人として、そういう習慣を僕は好かないよ。むろん、同居人がそういう習慣を持つことも」「ミシェル、君はまるでルールのお化けだ」

 クインシーは笑いながら少し眉をしかめる。ミシェルは不機嫌そうに、クインシーから二日目、あるいは三日目のシャツをはぎとって、ランドリーへもっていく。はだかになったクインシーは寒そうにひと震えして、クローゼットからシャツをとりだす。新しいのか古いのか、それは彼にとっては問題でない。なんだってかまわない。それがシャツであれば、彼は着る。また手に布きれを巻きつけて、彼のほかの人間にはいったいなにがなんだかわからないような絵を、ただひたすらに描きつづける。






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